衣装合わせ
《アトミック・ガールズ》七月大会の三日後――七月の第三水曜日である。
今日も今日とて撮影地獄に巻き込まれた瓜子は、トシ先生の「ひょええっ!」という断末魔じみた雄叫びに身をすくませることになった。
「う、う、瓜子ちゃん! それはいったい、どういうことなのよ! 珠のお肌がボロボロじゃない!
「はい。三日前に、試合だったんすよ。これでもずいぶん、マシになったほうなんすけどね」
瓜子はすでに不本意なる水着に着替えを済ませて、ユーリともどもメイクルームに移動したところであった。そこでガウンを脱ぎ捨てて、生傷のチェックをされた際、同席していたトシ先生が雄叫びをあげることになったわけであった。
試合翌日の月曜日は祝日であったため、瓜子は昨日の火曜日に病院で検査を受けている。その診断結果は、左右前腕および左脇腹の打撲傷というものであった。オリビア選手の猛攻にさらされながら、瓜子の頑健なる骨にはヒビひとつ入っていなかったのだった。
それはめでたい話であるのだが、しかし打撲傷の度合いはひどいものであった。とりわけ何発もの攻撃を防いだ右前腕や、ボディブローをまともにくらった左脇腹などは、青を通り越して黒ずむぐらいの内出血であったのだ。
それらの箇所は今でも触れるだけで痛むぐらいであるし、右手などはしっかり拳を握ることも難しいほどだ。昨日から再開された道場での稽古でもあれこれ制限をかけられてしまい、瓜子もいくぶん気落ちしていたところであった。
しかしトシ先生は気落ちどころの騒ぎではなく、よよよと壁にすがりついてしまっている。トシ先生がここまで悲嘆に暮れるのは、ずいぶん珍しいことであった。
「どうしたんすか、トシ先生? いつだったかの試合後では自分もユーリさんもおそろいで顔が倍ぐらい腫れることもありましたから、それに比べたらずいぶんマシだと思うんすけど」
「そんな姿を見せつけられていたら、アタシのか弱い心臓が止まってたかもしれないわね! もう! だからそんな野蛮な競技は、さっさと辞めなさいって――」
そこまで言いかけてから、トシ先生は深々と嘆息をこぼした。
「そんな野蛮な競技は辞めなさいって、アタシは昔っからユーリちゃんを叱りつけてたけど……でも、そういうわけにはいかないんでしょうねぇ」
「はぁい。ユーリもうり坊ちゃんも、MMAに生命をかけているのですっ!」
「……それがどれだけの輝きをユーリちゃんたちに与えているかは、アタシも思い知らされちゃったから……これじゃあ文句を言うに言えないわよ」
そのようにのたまわるトシ先生は、いまだにユーリや瓜子の試合を目にしたことがない。ただ格闘技マガジンの撮影で、技を繰り出す姿を写真に収めたのみである。それだけで、トシ先生はずいぶん心持ちが変容したようだった。
「とにかく、その傷はファンデで隠すしかないわね。ああもう、瓜子ちゃんの輝くお肌をそんなもんで誤魔化すなんて、不本意の極致だわ。それだけで、百点の写真が九十九点に下がっちゃうのよ」
「たった一点で済むなんて、さすがはトシ先生でありますねぇ」
と、ユーリが呑気な笑顔で答えたとき――メイクルームの入り口から、トシ先生にも負けない「うひゃー!」という雄叫びが連呼された。
それと同時に、複数の人影がどかどかとメイクルームに押しかけてくる。水着姿をさらしていた瓜子は、大いに惑乱することに相成った。
「ちょ、ちょっと! ここは男子禁制のはずっすよ!」
「それより、瓜子ちゃん! そのおなかは大丈夫なのかよ!」
「うわ、腕のほうもひどい痣だな! オリビアちゃんのパンチは、そんなに強烈だったのかよ!」
先頭を切って騒ぎたてるのは毎度ながらタツヤとダイであったが、その左右には漆原を除く『トライ・アングル』のメンバーが勢ぞろいしてしまっている。瓜子は胸もとを覆い隠すので精一杯であったため、青黒い痣を浮かべた右腕と脇腹は惜しみなく衆目にさらされてしまっていた。
「こいつは本当にひでえなぁ。見てるだけで、こっちの腹まで疼いてきそうだよ」
「でも、可愛いお顔が無傷だったのは不幸中の幸いだな! もし瓜子ちゃんの顔がそんな有り様になってたらと思うと、ぞっとしちまうよ」
タツヤたちは心から悲嘆に暮れている様子で、瓜子の姿を凝視している。そんな風に心配してもらえることがありがたくてたまらない反面、瓜子はどうしようもないほどの羞恥心を抱え込むことになってしまった。
「と、とにかく準備がありますんで、今は勘弁してください! 見た目ほどひどい怪我ではないんで、心配はご無用です!」
「……そんな馬鹿でかい痣を見せつけられて、誰が安心できるってんだよ」
と、山寺博人が究極的に不機嫌そうな面持ちで進み出てくる。
「お前なんかはオマケなんだから無茶する必要はねえって、なんべんも言ってるだろうがよ? そんな馬鹿みてえな格好さらしてねえで、病院でも何でも行ってこいよ」
「おいっ! 瓜子ちゃんはオマケじゃなくって、『トライ・アングル』の大事なマスコットガールだぞ!」
「そうだそうだ! 瓜子ちゃんの水着めあてで特装版を買ってる連中だって、山ほどいるんだからな!」
タツヤとダイがいきりたって、山寺博人に詰め寄ろうとする。
そのとき、パアンッと鋭い音色が響き、多くの人々の首をすくませた。新たに入室した千駄ヶ谷が、おもいきり手の平を打ち鳴らしたのだ。
「ご静粛に。猪狩さんの健康状態に不安はないものと、本人からも確認が取れております。スケジュールの遅延は避けたく思いますので、みなさん撮影の準備をお願いいたします」
「で、でもさ、こんなひどい傷痕を見せられたら……」
「そちらはあくまで打撲傷に過ぎず、骨にも内臓にも異常はないと診断されているそうです。であれば、松葉杖なしでは歩くこともままならなかった際よりも、よほど軽傷でありましょう。どうぞみなさんご心配なく、撮影の準備をお願いいたします」
氷の鞭のごとき千駄ヶ谷の言葉をくらって、タツヤたちはすごすごとメイクルームを出ていく。
ただ、山寺博人だけはおもいきり顔をしかめながら、なおも瓜子に詰め寄ってきた。
「……本当に、医者の診察を受けてるんだな? 何も危ねえことはないんだな?」
「はい。お医者の許しが出なかったら、自分だって大喜びで撮影を辞退してましたよ」
「そうか……」と、山寺博人は息をつく。しかし、それでも瓜子の前から立ち去ろうとせず、前髪に隠された目でちらちらと見やってくる。
「だったら、何でもかまわねえけど……ただ……」
「オマケあつかいされたことは気にしてませんので、どうぞお気遣いなく。そんなことは、自分が一番承知してますから」
「……だったら何で、そんな不貞腐れたツラなんだよ」
「水着姿が恥ずかしいんすよ! お願いですから、込み入った話は服を着てるときにしてください!」
山寺博人は意表を突かれた様子で身をのけぞらし、やけくそのように自分の頭をかき回した。
「……こっちはそんなつもりじゃなかったよ。意識させんな、馬鹿」
「馬鹿でいいから、さっさと出ていってくださいってば!」
それでようやく、山寺博人もメイクルームを出ていった。
瓜子が全力で溜息をついていると、ガウン姿の愛音が横目でねめつけてくる。
「そんなに恥ずかしいのなら、わめいている間にガウンを着ればいいと思うのです。猪狩センパイは、そういうところが猪突猛進であるのです」
「う、うるさいっすよ! もう!」
そうしてその日の撮影地獄は、粛々と開始されることになった。
本日の課題は、新曲のミュージック・ビデオおよびメイキング映像、およびニューシングルのジャケット撮影と特装版に付随するフォトブックの追加分の撮影である。ニューシングルの発売はすでに三週間後に迫っているというのに、このたびも突貫工事でスケジュールが詰め込まれているわけであった。
「フォトブックの撮影なんて、二週間前にもしたばかりじゃないっすか。こんなぎりぎりのスケジュールを組んでまで、追加分を撮影する意味があるんすかね」
傷痕をファンデーションで隠蔽されながら、瓜子が思わずそんな愚痴をこぼしてしまうと、すかさず千駄ヶ谷が「無論です」と言葉を飛ばしてきた。
「二週間前には準備が間に合わなかった撮影素材が存在するため、どうしても今日という日を待つしかなかったのです。また、今日だけですべての撮影をこなすことはスケジュール的に難しかったため、日を分ける他なかったのです」
「愛音はなんの異存もないのです! 試合の三日後というスケジュールだけが不安だったのですが、こうして無事に参加することができて感無量であるのです!」
グラップリング・マッチであったユーリはもとより、愛音もノーダメージで試合を終えることができたのだ。そしてメイク係にメイクを施されながら、愛音は試合中に負けない肉食ウサギの形相になっていた。
「だいたい猪狩センパイは、覚悟が足りていないのです。自分たちの存在が『トライ・アングル』の一助になれるなんて、光栄の限りであるはずなのです。毎回毎回不満たらたらで、いい加減に飽きてこないのです?」
「飽きる飽きないの問題じゃないんすよ。もっと布面積の多い格好だったら、自分もぼやかずに済むんですけどね」
そんな不毛な会話を繰り広げている内に、全員の準備が整ってしまった。
あらためてガウンを着込んだ瓜子は、重い足を引きずってメイクルームの外に出る。
するとそこには、思いも寄らない光景が待ち受けていたのだった。
「うわぁ、みなさん素敵ですぅ」
ユーリははしゃいだ声をあげ、愛音は目を丸くしている。瓜子もまた、大いなる驚きにとらわれてしまっていた。
『トライ・アングル』の男性陣が、おそろいの衣装を着込んでいたのだ。
以前もミュージック・ビデオの撮影では、全員が白ずくめの衣装を着るシーンがあった。しかしあれは白いTシャツにスラックスという簡素な衣装であったため、それほどの驚きにとらわれることもなかったのだ。
しかし今回の衣装は、おそろいのスーツであった。
きわめて深みのあるダークレッドのスーツの上下で、インナーのシャツは黒、ネクタイは白という配色だ。足もとは黒いショートブーツで、こちらも全員がおそろいである。以前にも全員がモッズ系のスーツを着込むという機会があったが、今回は完全に同一のデザインでそろえられていたのだった。
「こちらはステージ衣装としてオーダーメイドしていたものです。こちらの完成を待つために、撮影の期日を今日に設定していたというわけです」
「すごいすごぉい。さすがオーダーメイドだと、サイズもぴったりですねぇ。みなさん、最高にかっちょよろしいですぅ」
ユーリが笑顔で手を叩くと、リュウがいくぶん気恥ずかしそうに「本当かい?」と問い返した。
「やっぱ俺たちはスーツなんてガラじゃねえって気持ちが抜けねえんだよな。しかも今回は、メインのステージ衣装だってんだからさ」
「リュウさんもすっごくお似合いですよぉ。リュウさんは足が長くて細いから、タイトなシルエットがばっちりですねぇ」
「へへ。モデルでも活躍してるユーリちゃんにそう言ってもらえると、少しばかりは自信がつくな」
リュウはそのように言っていたが、ファッションセンスなどこれっぽっちも持ち合わせていない瓜子にも、何の不満もないコーディネートであった。
だいたい『ワンド・ペイジ』と『ベイビー・アピール』はファッションの方向性が対極的であるため、外見的な統一感を演出するのが難しい面があるのだが――こちらのスーツは、七名全員の個性とうまい具合に合致しているように感じられてならなかった。
漆原はなかなか端整な顔立ちをしているが、病人のように痩せ細っている。目の下にはいつも隈が濃く、頬はげっそりとこけており、それで頭は両サイドを刈り上げた金髪で、ところどころに赤いカラーリングを入れていた。
リュウは肩よりも長いドレッドヘアとサングラスをトレードマークにしており、すらりとした体格でスタイルはいい。やや面長の顔も、出会った当時は悪党めいて見えたものだが、今では人柄のよさがにじんでいるように感じられる。
タツヤはつるつるのスキンヘッドで、やはり痩せ型の不良っぽい面相であるが、最近はめっきり陽気な人柄が前面に出て、怖いというよりはユーモラスな印象が先に立つ。それに、彼や漆原はスーツを着込むと腕のタトゥーがほとんど隠されるため、強面のイメージがだいぶん薄らぐようであった。
ダイは大柄で体格もがっしりとしており、坊主頭で髭面の厳つい容貌だ。ただ、いつも頭に巻いているバンダナをスーツと同色の中折れハットに置き換えると、なかなかファッショナブルでレトロなマフィアという風情であった。
山寺博人は漆原に負けないぐらい骨ばった体格をしているが、スーツを着込むと格段に貫禄が増すタイプである。もしゃもしゃの黒髪を無精にのばして目もとまで隠している陰気な風貌もむやみに格好よく見えてしまうのが、瓜子としては悔しいところであった。
小柄でぽっちゃり体形の陣内征生は、もっともスーツが似合わないかに思えるが――ただ彼も、『ワンド・ペイジ』のステージでは時おりモッズスーツを着込んでいた。そうして彼は類い稀なる演奏能力を有しているために、スーツ姿でステージに立つと熟練のクラシック奏者を思わせる風格であるのだ。よって、現在はおどおどと目を泳がせており、完全に衣装に負けているように見えてしまうが、いざ本番になれば誰にも見劣りはしないはずであった。
そして西岡桔平はもともと男らしい均整の取れた体格をしているために、ある意味では誰よりもスーツがよく似合っている。なおかつ、無造作な短髪に無精髭という山男めいた風貌がいい意味での崩しとなり、堅苦しさのない洒落者という雰囲気が生まれるようであった。
斯様にして、さまざまな個性を持つ『トライ・アングル』の面々であるのだが、その全員にこのスーツは似合っている。そして、これまでなかなか獲得できずにいた外見上の統一感というものがしっかり備わったようであった。
「やっぱりおそろいの衣装っていいものですよねぇ。男性陣が羨ましいですぅ」
と、ユーリがいくぶん物寂しそうに微笑むと、衣装係の女性が笑顔でそちらに呼びかけた。
「もちろんユーリさんにも、同じ衣装をご準備してますよ。ただ今日は、水着のシーンを先に撮影するそうですね」
「えっ! ユーリもみなさんと同じ衣装を着られるのですか? 前みたいに、ワンピースではなく?」
「はい。ユーリさんの女性らしいプロポーションにもマッチするように、オーダーメイドをお願いしたんですよ。どんな仕上がりか、わたしも楽しみにしています」
ユーリが両腕を振り上げて「わーい!」と歓喜をあらわにすると、タツヤが「あはは」と笑った。
「すごい喜びようだな。おそろいの衣装が、そんなに嬉しいのかい?」
「はいっ! もちろんです! おそろいの衣装を身に纏えば、ユーリもお邪魔
虫じゃないんだって実感できますので!」
「『トライ・アングル』の中心人物が、何を言ってるんだか。本当にユーリちゃんって、変なところで謙虚だよな」
そんな風に語るタツヤを筆頭に、多くのメンバーが優しい眼差しになっていた。それぐらい、ユーリは無邪気な顔で笑っていたのだ。
「水着姿ではうり坊ちゃんたちとおそろいで、スーツ姿ではみなさんとおそろいで、ユーリは幸せの二乗であるのです! 今日の撮影も八月のライブも、どうぞよろしくお願いいたします!」
「ああ、こっちこそな」
そうして本日の撮影は開始された。
ユーリがどれだけ喜ぼうと、瓜子の羞恥心に変化が生じるわけではなかったが――しかし、ユーリの笑顔に瓜子の心を和ませる効能が存在することは、確かである。それで瓜子も羞恥心だけはしっかり抱えたまま、それなりに幸福な気持ちで本日の撮影地獄に臨むことに相成ったわけであった。