06 誓いの言葉
レフェリーに勝利を宣告された後は、瓜子もドクターチェックを受けることになってしまった。瓜子はフェンスにもたれてへたりこんだまま、指一本動かすことができなかったためである。
瞳にライトを当てられた後、視界の端に立てられた指先の数を問いかけられる。瓜子が死力を振り絞って「にほん」と答えると、リングドクターはふっと息をついた。
「意識ははっきりしているようですね。まあ、頭部にダメージはないはずなので、ただの酸欠状態でしょう。誰か、酸素缶を――」
リングドクターが言い終わるより早く、鬼の形相をした立松が駆けつけて、酸素缶を瓜子の口もとにあてがってくれた。
「おい、大丈夫か? 俺が誰かわかるか? 吐き気や目眩はないか?」
清涼なる酸素をむさぼりながら、瓜子は何とかうなずいてみせた。
そのひと吸いごとに、意識が明瞭さを増していく。ただそれは、感覚が麻痺していた五体に重い痛みと疲労感が知覚されるのと同義であった。
「らいじょうぶれす。しんぱいかけて、しゅんません」
「ちっとも大丈夫じゃないだろうがよ! まったく、お前ってやつは……!」
立松はこらえかねたように、瓜子の頭をわしゃわしゃとかき回してきた。きわめて荒っぽい所作であったが、マッサージのような心地よさである。
そして、右腕と左脇腹がひんやりと冷やされる。特別に入場を許されたらしいジョンとメイが、それぞれの部位に氷嚢をあてがってくれたのだ。ジョンは温かな笑顔であり、メイは怒っているかのように眉を吊り上げていた。
「ウリコ、ガンバったねー。サイゴは、キシンのゴトきツヨさだったよー」
「ありがとうございます。こんなにくたびれ果てたのは、たぶん半年ぶりっすね」
瓜子の舌も、ようやくまともに動くようになってきた。
「それで……メイさんは、何か怒ってるんすか?」
「……怒ってない。ただ、オリビア、羨ましいだけ」
と、メイは眉を吊り上げたまま、可愛らしく口をとがらせた。
酸素缶を口もとにあてがわれたまま、瓜子は「あはは」と笑ってしまう。
「メイさんとの試合は、もっとしんどかったっすよ。……酸素はもう大丈夫です。立松コーチ、ありがとうございました」
「ふん! まったく、世話をかけやがるぜ!」
酸素缶をおろした立松は、ジョンから受け取ったタオルで瓜子の頭を再び荒っぽくかき回してくれた。
「右腕と脇腹は大丈夫か? 折れてるようなら、病院に直行だぞ」
「自分じゃ判断つかないっすけど、とりあえず感覚は戻ってきましたよ。なんか、火がついたみたいに熱い感じです」
「危ねえな。……おい、ドクターさん! こいつの骨が無事かどうか、確かめてくれよ!」
オリビア選手の面倒を見ていたリングドクターが、こちらに舞い戻ってくる。そちらの診察によると、右腕は無事で脇腹はグレーとのことであった。
「肋骨の骨折は、触診だけでは何とも言えませんからね。ただ、ポッキリいっていないことは確かです。近日中に、病院で確かめてみてください」
「押忍。ありがとうございます」
そうしてリングドクターが身を引くと、今度はオリビア選手が近づいてきた。
まだ立ち上がれない瓜子のもとに、柔和な面持ちで膝を折る。右の頬を青黒く腫らしながら、オリビア選手は限りなく優しげな眼差しであった。
「やっぱりウリコは、強いですねー。でもワタシもウリコのおかげで、一番強い自分を出せたように思いますー」
「押忍。オリビア選手も、お強かったです。本当に、ぎりぎりの勝負でしたよ」
右腕にはまた氷嚢が当てられていたため、瓜子は左手を差し出してみせた。
オリビア選手はやわらかく微笑みながら、瓜子の左手を両手でぎゅっと握りしめてくる。その手は試合前の握手と同じぐらい、力強くて温かかった。
「……ところで、どうしてメイはワタシをにらんでるですかー?」
メイが「別に」とそっぽを向いたところで、運営陣のスタッフが駆けつけてきた。
「猪狩選手の具合はいかがですか? インタビューが難しいようでしたら、先に閉会式を開始しようかと思うのですが」
「ああ。担架までは必要ないみたいだ。インタビューは、立てるようになってからだな」
「了解しました。では、そのまましばらくお休みください」
しばらくして、リングアナウンサーから閉会式の開始が告げられる。そして、瓜子の身に危ういことがないと告げられると、客席からはあらためて歓声がわきおこったのだった。
「せっかく勝てたのに、情けないっすね。そろそろ立って挨拶をしてもいいっすか?」
「いいから、大人しくしておけ。誰も文句をつけたりはしねえよ」
立松は優しい目つきで苦笑をしながら、瓜子の頭を小突いてきた。
そしてケージに入場した選手の何割かが、瓜子のもとに駆けつけてくる。その先頭に立っていたユーリが、ぽろぽろと涙をこぼしながら瓜子の左手を握りしめてきた。
「うり坊ちゃん、大丈夫? うり坊ちゃんにもしものことがあったら、ユーリも生きてはいけないのです!」
「大丈夫っすよ。ただ疲れて動けないだけっすから」
瓜子が何とか笑顔を返してみせると、ユーリは花が開くように微笑みながら、瓜子の手をぎゅっと胸もとにかき抱いた。
「いちおうこれでも、ほとんどの攻撃はガードできてたんすよ。何も心配はいりませんから、その涙はひっこめてください」
「ううん。この涙は、感動の涙であるのです。まだしばらくは、止まりそうもないのです」
すると、ユーリの上から灰原選手がにゅっと首をのばしてきた。
「ほんとに凄い試合だったね! うり坊もオリビアも、けた違いに強く見えちゃったよ! でもまあすぐに、あたしも追いついてみせるけどさ!」
「押忍。灰原選手も、凄かったっすよ。あとでゆっくり、お祝いさせていただきますね」
さすがに涙をこぼしているのはユーリひとりであったが、灰原選手も他の面々も心から瓜子の身を案じつつ、そしてその勝利を祝福してくれている様子であった。
サキ、愛音、小笠原選手、小柴選手、鞠山選手、オルガ選手、高橋選手、大江山すみれ――それに、マキ・フレッシャー選手まで、瓜子のことを取り囲んでくれている。本日出場した選手の半分ぐらいは集まってしまっているようであった。
「それでは閉会式を開始しますので、みなさんも中央にご注目くださいね」
この一団を動かすのは難しいと見て取ってか、スタッフの若者はそのように言っていた。
そうして一同は瓜子を取り囲んだまま膝を折り、ケージの中央に向きなおる。閉会式が開始され、まずは駒形代表の挨拶だ。
『ほ、本日も、素晴らしい試合の目白押しでした。次回の興行では五名の人気選手が欠場することになってしまいますが、きっと心配は無用でしょう。どうか皆様にも、温かい目で見守っていただきたく思います』
駒形代表がそのように言葉を並べていくと、観客席の人々は切ない現実に引き戻されてしまったかのようにざわめきをあげ始める。やはり駒形代表は、観客の期待を煽るのがとことん苦手であるようだ。
瓜子もそれは同様であるのだが――このたびは、ほんの少しでも《アトミック・ガールズ》の力になりたかった。
『では最後に、メインイベントで勝利した猪狩選手にもお言葉をいただきたいのですが……猪狩選手、大丈夫でしょうか?』
リングアナウンサーに心配げな顔と声を向けられて、瓜子は「押忍」と応じてみせた。
フェンスを支えにして立ち上がると、まだ膝がぷるぷると震えてしまう。脇腹はずきずきと疼いているし、右腕は肘から先を動かすのもしんどいぐらいであった。
それでも瓜子は背筋をのばしてケージの中央に進み出て、左手でマイクを受け取る。そうして瓜子が一礼すると、期待に満ちた歓声がうねりをあげた。
『本日は最後まで自分たちの試合を見届けていただき、ありがとうございました。ずいぶん情けない姿をさらしてしまいましたけど、試合そのものは楽しんでいただけましたか?』
これまで数多くの勝利者インタビューを受けてきた瓜子であるが、自分から観客たちに呼びかけたのは初めてのことである。
観客たちは、熱い歓声でそれに応えてくれる。それをありがたく思いながら、瓜子は言葉を重ねてみせた。
『オリビア選手は、本当に強かったです。でもそのおかげで、自分も最後の一滴まで力を振り絞ることができました。そして、《アトミック・ガールズ》にはこんなに強い選手がたくさんいるんだってことを、あらためて思い知ることができて……心から嬉しく思っています』
地鳴りのごとき歓声が、天井にまで渦を巻く。
これが、千名を超える人間の圧力であるのだ。その熱気と脈動を全身で味わいながら、瓜子はさらに言いつのった。
『駒形代表も仰っていた通り、次の興行からは五人の人気選手が出場することができません。ユーリ選手、多賀崎選手、魅々香選手、沙羅選手、沖選手……誰もが《アトミック・ガールズ》を代表する、トップファイターだと思います。でも、《アトミック・ガールズ》にはまだたくさんのトップファイターがいます。中堅選手も新人選手も、たくさんいます。「アクセル・ロード」に参加する五人の代わりに、それ以外の選手が頑張ります。もちろん自分も、その内のひとりです。決してみなさんに物足りないと思われないように、自分たちは死力を尽くしますので……どうかこれからも、応援をお願いいたします』
そうして瓜子は、さきほどまで自分がへたりこんでいたフェンス際のほうに向きなおった。
そこに膝を折ったユーリは、とても静かに微笑みながら、瓜子の言葉を聞いてくれている。その姿が涙でぼんやりと霞むのを感じながら、瓜子は最後の言葉を口にした。
『だから、《アトミック・ガールズ》は大丈夫です。ユーリさん――いえ、ユーリ選手は心置きなく、北米で暴れてきてください。ユーリ選手たちがそちらで頑張っている間は、自分たちが《アトミック・ガールズ》を守ってみせます』
ユーリは膝立ちのまま背筋をのばし、ぴっと敬礼の姿勢を取った。
そんなおどけた姿を見せながら、ユーリは白い頬に涙を伝わせる。
瓜子がそちらに一礼すると、目からこぼれたものがマットに滴った。
大歓声が乱反射して、瓜子の五体に叩きつけられてくる。
その勢いで、右腕と脇腹がいっそう熱く疼くような心地であったが――それでも、瓜子は満足であった。
かねがね感情が表にこぼれやすいと評されている、瓜子である。
このたびも、感情を真っ直ぐに届けることができただろうか?
数十分前の、ユーリのように―ーそして、ステージで歌うユーリのように。
その答えが、会場に渦巻くこの歓声であるはずであった。
瓜子はマイクを握った左手をおろし、まぶたを閉ざして、その熱にひたる。
瓜子は心中の覚悟を明かし、観客たちはそれに応えてくれた。
あとは、行動で示すだけだ。
歓声の熱気に脇腹が圧迫されて、瓜子は吐き気をもよおすぐらいであったが――それでも瓜子は限りなく幸福であり、満ち足りていた。