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アトミック・ガールズ!  作者: EDA
17th Bout ~Intense summer Ⅰ~
438/955

05 決着

 疲労困憊の瓜子がフェンス際に置かれた椅子に座り込むと、まずは左の脇腹に氷嚢があてられてきた。

 さらに立松は、別の氷嚢で両手の前腕を撫で回してくる。瓜子のどの部位がダメージを受けているか、正確に把握してくれているのだ。選手の立ち位置や角度によっては数多くの死角が生じるであろうに、大した眼力であった。


 そして、頭の上にも氷嚢が押し当てられてくる。フェンスから身を乗り出したジョンが、長いリーチを活かして瓜子の頭をも冷やしてくれたのだ。オーバーヒート気味であった瓜子には、それらのすべてが心地好かった。


「呼吸が荒いな。腹にくらったせいか。背筋をのばして、大きく呼吸をしろ。最初はしんどいかもしれんが、すぐ楽になるはずだ」


 怖いぐらい真剣な顔をした立松の言葉に従って、瓜子は無理やり大きく息を吸い込んだ。

 咽喉や肺ばかりでなく、内臓のすべてがびくびくと痙攣しているような心地である。しかしそれらの不快な感覚をこらえて何度か大きく呼吸を繰り返すと、ふいにカチリと体内の歯車が噛み合うような感覚が生じて、自然に息をすることができるようになった。


「まずい場所にはくらってないはずだが、ダメージもスタミナロスも尋常じゃねえな。腕は動くか? 頭は働いてるか?」


「押忍。だいぶ楽になりました」


「そうか。どんなにしんどくても、足を止めたら終わりだぞ。基本戦略に変更はない。足を使って、タックルのプレッシャーをかけながら、間合いをつかめ」


 早口だが、ひと言ずつを噛みしめるように、立松はそう言った。


「ただ、相手は序盤から思わぬ攻撃を仕掛けてきた。こっちのペースを崩そうと、裏をかいてきたんだ。それも全部見切って、自分の攻撃を当てろ。相手がどんな手を仕掛けてきても、機動力ならこっちが上なんだ。絶対に動き負けるな」


「押忍」


「ミドルやハイを出してきたら、その後はチャンスだぞ。組み合いを仕掛けて、グラウンドに持ち込め。あっちだって、疲れてるんだ。グラウンドで上を取れたら、ペースを握れるぞ」


「押忍」


 そこで早くも、『セコンドアウト!』のアナウンスが聞こえてきた。

 立松は慌ただしくドリンクボトルを差し出し、瓜子が口をゆすぐのを待ってからマウスピースをくわえさせてくる。その間に、頭上からジョンの声が降ってきた。


「ツギは、スイッチをイれていこうねー。きっとオリビアはイヤがるはずだよー」


 瓜子は「押忍」と応じつつ、背後を振り返った。

 エプロンサイドに着地したジョンが、にっこりと笑いかけてくる。そしてそのかたわらでは、メイが激情をこらえるようにきつく眉をひそめていた。


「……ウリコの力、信じている」


 瓜子はフェンスに右の拳を押し当てて、「押忍」と応じてみせた。

 撮影班もケージの外に退避して、そちらの扉が閉められるのを待ってから、『ラウンドツー!』のアナウンスが流される。

 レフェリーが「ファイト!」と右腕を振りおろし、瓜子とオリビア選手はケージの中央に進み出た。


 オリビア選手の挙動に、変わるところはない。ゆったりとした大きな構えで、表情も呼吸も平静そのものだ。右頬がさらに青く腫れていたが、目もとを圧迫するほどではなかった。


 いっぽう瓜子も呼吸は落ち着いたものの、失われたスタミナが戻ってくるわけではない。すでに三ラウンドを戦い抜いたような疲労感で、手足は石のように重かった。


(でも、動き負けたら、終わりなんだ)


 瓜子は大きく呼吸をしながら、油断なくステップを踏んでみせた。

 左脇腹はずきずきと疼き、両手の前腕はまだ熱い。牽制のジャブを振ってみたところ、パンチを打つのに不自由はなかったが、明らかに握力は低下していた。


 瓜子がまともに攻撃をくらったのは、左脇腹のボディブローのみである。あとの攻撃はすべて、ガードできているのだ。

 しかし、ガードした両腕はこの通りであるし――そして瓜子のほうは、まだ一発の攻撃しか当てることができていなかった。苦しまぎれの左拳がオリビア選手の顔に色をつけただけで、あとは虚空に左ジャブを出しているのみであったのだ。


(このまま試合が終わったら、誰にもあわせる顔がないし……何より、自分が納得できない。稽古で積んできたものを、すべてぶつけるんだ)


 とはいえ、オリビア選手との対戦が決まったのは、ほんの二週間前である。それからすぐに調整期間を迎えた瓜子は、大慌てでオリビア選手に対抗するための稽古を積むことになったわけであった。


 もともとの対戦相手であった後藤田選手は名うてのグラップラーであったから、それまでの瓜子はそちらへの対策を磨き抜いていたのだ。後藤田選手とオリビア選手では体格もファイトスタイルもまったく異なるため、これまでの稽古はすべて水泡に帰したようなものであった。


 しかし、オリビア選手もそれは同じことである。三週間前に試合をしたばかりのオリビア選手はこの日に試合をする予定すらなかったのだから、瓜子よりもいっそう厳しい条件であるはずであった。


 よって、泣き言を吐くことは許されない。

 これまでの対策案が無駄になってしまったとしても、瓜子は毎日厳しい稽古を積んできたのだ。瓜子はそれらのすべてをぶつけて、勝利を目指すしかなかった。


(オリビア選手は試合だと、踏み込みの迫力が段違いだ。それで今日は、滅多に使わないような技を連発してる。そこまで想定して……その上をいくんだ)


 瓜子はジョンの指示に従い、ラウンドの開始からスイッチを繰り返した。

 さらに、どちらの構えでもインサイドとアウトサイドに踏み込んで、相手を惑乱させる。なるべく動きをパターン化せず、攻撃の的を散らすのだ。


 オリビア選手はゆったりと前後に移動しつつ、瓜子が仕掛けてくるのを待っているかに見える。

 しかし第一ラウンドでは、ここからふいに大きく踏み込んできたのだ。今度こそ、瓜子は先手を取る所存であった。


 何度目かのスイッチでサウスポーになり、相手のインサイドに踏み込んで、奥足からの左インローを叩きつける。

 タックルを警戒しているのか、オリビア選手は爪先立ちになるていどに足を浮かせて、その衝撃をわずかばかりに逃がした。足も頑丈なオリビア選手は、瓜子のローでもビクともしなかった。


(でも、カウンターは出してこなかった。今の攻撃は、きっと裏をかけたんだ)


 しかし同じ攻撃を繰り返せば、きっとオリビア選手は対応してくる。瓜子としては持てる技術をフルに使って、攪乱しなければならなかった。


(この落ち着いたテンポは、オリビア選手のリズムなんだ。まずは、それを叩き壊す)


 瓜子は重い身体に鞭を打って、さらにステップのテンポを上げた。

 今度はオーソドックスでアウトサイドに踏み込み、右のアウトローを叩きつける。これは角度がよかったため、オリビア選手もカウンターを出すことはできなかった。

 それでもまた裏拳などが飛ばされてくる危険があったので、一発を入れたらすぐに距離を取る。そしてそこで休まずに、次の動きにつなげればならなかった。


 ひとたび落ち着いた呼吸が、また荒くなっていく。

 しかし瓜子は、自分に妥協を許さなかった。こんなローを当てているぐらいでは、まだまだペースは握れないのだ。


 次の攻撃では裏の裏をかき、またオーソドックスでアウトサイドから攻撃を放つ。それも、ローではなく右フックだ。相手の左上腕を狙った、距離感を固めるための攻撃であった。


 すると、オリビア選手もサウスポーにスイッチしてくる。スイッチに関しては、オリビア選手のほうが本業であるのだ。彼女は左右どちらの構えでも、同じぐらい重い攻撃を出すことができた。


 それでも瓜子は臆するところなく、サウスポーでインサイドに踏み込み、右インローを当ててみせる。

 アウトサイドからの攻撃を予測していたのか、オリビア選手はぴくりと右拳を動かしつつ、攻撃までは移れずにいた。


 瓜子はさらにオーソドックスにスイッチをして、またインサイドから右インローを射出する。攻撃は同種でも構えが異なるため、奥足からの重い攻撃だ。

 オリビア選手は足を上げずに、その攻撃を受け止めた。

 そして、カウンターの右ジャブを振ってきた。


 オリビア選手は空手由来のスイッチャーだが、本来は右利きだ。しかもしっかり前足に体重をかけているため、ストレートのように重いジャブである。瓜子は堅実にブロックしたが、拳を受けた前腕には尋常でない衝撃が走り抜けた。


 瓜子がこれまでに当ててきた攻撃を、この一発で相殺されたような心地である。

 瓜子とオリビア選手の攻撃力には、それだけの差があるのだ。だからオリビア選手もローのガードを捨ててカウンターを返してきたわけであった。


 しかしまた、体格差から生じる攻撃力の差は、百も承知のことである。

 瓜子は気後れすることなく、次の一手を打つことにした。


 変わらぬテンポでステップを踏み、今度はサウスポーで相手のアウトサイドへと回り込む。

 選んだ攻撃は、左のアウトローだ。

 オリビア選手は、足を浮かせようとしない。そして、瓜子がローを出すと同時に、左腕を振りかぶっていた。今度は奥手からの重い攻撃でカウンターを取ろうというのだ。瓜子はアウトサイドに踏み込んでいるので、普通であればクリーンヒットを狙える角度ではなかったが、そこはリーチ差から十分なダメージが期待できると踏んだのであろう。


 しかし、瓜子が打ったのはただのアウトローではなく、ふくらはぎの下部を狙ったカーフキックであった。

 オリビア選手がローのガードを取りやめたため、これを放つことにしたのだ。

 瓜子はこれまで、試合でカーフキックを使ったことはない。オリビア選手と最後に手合わせをしたゴールデンウィークの合宿稽古でも、使った覚えはなかった。ならば相手の裏をかけるはずだと、この二週間で稽古を積んでいたのである。


 瓜子はしっかりとガードを固めながら、左足を振り抜いた。

 丸太のようにどっしりとしたオリビア選手の右足に、瓜子の左足が突き刺さる。

 わずかに遅れて、凄まじい衝撃が瓜子の右前腕に炸裂した。


 蹴り足を上げていた瓜子は踏み止まることもかなわず、後方にたたらを踏む。

 しかし、オリビア選手は追ってこなかった。

 柔和な表情を保持したまま、右足を上げてぷらぷらと振っている。カーフキックが効いた証拠である。

 いっぽう瓜子は、右腕がびりびりと痺れてしまっている。これまでの蓄積も相まって、右手の握力がほとんど消失してしまっていた。


 瓜子の右腕と、オリビア選手の右足。どちらのダメージが深いかは、不明である。

 ただし、自分の思惑を達成したのは、瓜子のほうだ。瓜子はカーフキックをクリーンヒットさせて、オリビア選手は左フックをガードされた。その事実は、精神的な部分で差をつけるはずであった。


「残り半分! その調子で当てていけ!」


 立松の声に背中を押されて、瓜子は大きく足を踏み出した。

 オリビア選手は右足を引いて、オーソドックスに戻している。きっと右足のダメージが深いのだと、瓜子はそのように信じることにした。


 気合を入れながら、決して逸ることなく、瓜子は細かくステップを踏む。

 そうして瓜子がアウトサイドに踏み込むと、オリビア選手が初めて自分から間合いの外に逃げた。

 きっと、左足へのカーフキックを警戒しているのだ。

 その結果に満足しながら、瓜子はオリビア選手を追おうとした。


 すると――いったん逃げたはずのオリビア選手が、ぐいっと肉迫してきた。

 その身が巨大化したのではないかと思えるような、迫力のある前進だ。

 そしてその右拳が、低い位置から射出されている。

 オリビア選手が得意とする、ボディアッパーである。


 危地に陥ったオリビア選手は、攻勢に転じることでそこから脱しようとしているのだ。攻撃は最大の防御なりという、古きの時代から伝えられる戦法である。

 オリビア選手は表情がまったく変わらないために、瓜子はこの反撃を予測できていなかった。よって、その身に備わった反射神経だけで対応することになった。


 まずいことに、現在の瓜子はサウスポーの構えになっている。レバーの存在する右脇腹を、相手の前にさらしてしまっているのだ。

 瓜子は右腕を折りたたみ、とにかくレバーをガードした。

 ほとんど感覚を失った右前腕を、脇腹にぴたりと押し当てる。それと同時に、これまでで一番の衝撃がその場所に爆発した。


 瓜子の右腕を貫通して、レバーにまで衝撃が走り抜けていく。

 瓜子は再び、一瞬だけ意識を飛ばされることになった。


 たとえレバーが鍛えようのない急所であっても、ガード越しにこれだけの衝撃が走るというのは、規格外の威力である。どうやらオリビア選手のボディブローには、ユーリの右ミドルに匹敵するほどの破壊力が備わっているようであった。


 痛みは、ほとんど感じない。ただ、全身に電流が走り抜けたような感覚で、呼吸ができなくなっていた。痛覚までもが殺されたような心地であったのだ。

 一瞬のブラックアウトから覚醒したのちも、瓜子の視界は白く濁っている。

 その白濁した世界で、何か恐ろしいものが見えた。


 瓜子の知覚が、追いついていない。ただ動物としての本能が、瓜子に危険を知らせていた。

 その本能に従って、瓜子は必死に頭を下げる。その恐ろしい何かは、瓜子の顔を目掛けて飛んできていたのだ。


 それは、オリビア選手の左拳であった。

 オリビア選手は右のボディアッパーから、左のショートフックにつなげていたのだ。

 たとえショートフックでも、オリビア選手の拳にはKOパワーが秘められている。瓜子は何とか紙一重で、その攻撃を頭上にやりすごすことができた。


 すると今度は、下から脅威が迫ってくる。

 瓜子は感覚のない右腕で顔をガードしてから、それがオリビア選手の右膝であることを知覚した。


 元来、オリビア選手はそれほど機敏に攻撃をつなげられる選手ではない。一発ずつは重くて鋭いが、そのぶん機動力に欠けるのだ。

 しかし今の瓜子はレバーにダメージを受けて、とてつもなく動きが鈍ってしまっている。それで、紙一重の攻防になってしまっているわけであった。


「距離を取れ! 足を使うんだ!」


 立松の声が、そんな指示を飛ばしてくる。

 それと同時に、オリビア選手の膝蹴りが瓜子の右腕に突き刺さった。

 感覚のない右腕が頼りなく軋んで、それを通過した衝撃が瓜子の頭を揺さぶってくる。


 瓜子の視界が、いっそう白く霞んだ。

 そして瓜子は無意識の内に、左腕でオリビア選手の右足を抱え込もうとしていた。


(そうか。後ろに逃げても、逃げきれないもんな。ここはテイクダウンを狙うべきだろう)


 行動の後に、思考が追いすがってきた。

 集中力の限界突破とも言うべき、不可解な感覚である。

 瓜子はおそらくレバーにダメージを負ってから、すでにその領域に足を踏み込んでいたのだった。


 瓜子はいまだ、呼吸をできていない。

 視界もどんどん白濁していく。

 この視界が真っ白に染まったとき、きっと瓜子は動けなくなるのだろう。

 ならばその前に、自分のすべてを出し尽くすしかなかった。


 瓜子に右足を取られそうになったオリビア選手は、のろのろとその足を引いていく。

 同じぐらいのろのろとした動きで、瓜子は左足を踏み込んだ。ここはしつこく前進するべきだと、肉体のほうがそのように判断したのだ。


 しかし瓜子は右腕がきかないため、けっきょくオリビア選手の右足に逃げられてしまう。

 瓜子は上半身を上げながら、頭だけを左に傾けた。

 それで空いた空間に、オリビア選手の左拳が走り抜けていく。彼女は再び、左のショートフックを繰り出してきたのだ。


 それを紙一重でかわした瓜子は、右腕を真っ直ぐ突き出していた。

 カウンターの、右ストレートである。

 しかし、肘から先の感覚がないために、拳を握ることすらできていない。これでは半開きの手をオリビア選手の鼻先に突き出しただけのことであった。


 それに、オリビア選手の身がじわじわと遠ざかっていく。

 今のオリビア選手は、瓜子よりも機敏であるのだ。瓜子の無意味な右ストレートは、相手の顔に触れることも許されないようであった。


 ただ――瓜子も瓜子で、右足を踏み込んでいた。

 右腕をのばすと同時に、右足も出していたのだ。

 その前には左足も踏み込んでいるため、オリビア選手との距離は近い。腕は届かないが、足は届く距離だ。


 だから瓜子は、左足を振り上げているのであろうか。

 オリビア選手は鼻先に迫った右手に気を取られているため、この攻撃に気づくことはない、と――瓜子の肉体は、そのように判断したのかもしれなかった。


(でも、二十三センチの身長差だよ? さすがにそれは、無理があるんじゃないかなぁ)


 白く霞んだ頭の中で、瓜子はぼんやりと考えた。

 そしてその思考が消え去らぬ内に、新たな思考が自分を叱咤する。


(何を他人事みたいに言ってるんだよ! これがラストチャンスだろ!)


 おかしな領域に踏み込んだ瓜子は、思考まで常軌を逸してしまっている。考えるより早く肉体が動いてしまうため、自分の行動を他人事として眺めているような心地であるのだ。


 しかし、その行動を選択したのは瓜子の肉体であり、瓜子の肉体は瓜子のものである。

 瓜子はマウスピースが千切れそうになるほど奥歯を噛みしめて、自分の行動に思考を追いつかせた。

 右腕を突き出しながら左足を振り上げた瓜子は、起死回生のハイキックを狙っていたのだった。


(身長差が何だってんだよ! あたしはチビで短足だけど、相手だって真っ直ぐ立ってるわけじゃないんだから、届かないって決まったわけじゃない! 股が裂けても、当てるんだ!)


 瓜子の視界は端のほうから白い靄に浸蝕されて、もはやオリビア選手の上半身しか見えていなかった。

 そしてその大きな姿までもが、じわじわと霞んで消えていく。瓜子の脳は酸欠状態で、もう限界寸前であるのだ。


 自分の左足がどこまで上げられているのかも、もう瓜子には見えていない。

 しかし瓜子はこれまでに蓄積してきた感覚だけで、自分の肉体の位置を把握できていた。


 きっとこれでは、数センチ足りていない。

 ひどく緩慢な世界の中で、瓜子は限界まで軸足の爪先をのばした。

 それでもバランスを崩すことなく、この蹴り足を振り抜くのだ。

 オリビア選手の青い瞳はまだ瓜子の右拳を見据えており、横合いから飛んでくる左足には気づいていない。

 瓜子は身体を右側に倒して、さらに高い打点を目指した。


 せまい視界に、瓜子の左の足先がにゅっと出現する。

 その指先がしっかり反っていることを確認した瓜子は、安堵した。指先をのばしたままでは、こちらが骨折をする恐れもあったのだ。


 オリビア選手の瞳は、まだ正面を向いている。

 その細長い下顎に、瓜子の左足が斜め下からちょんと触れた。

 当たった部位は、指の付け根の中足だ。

 理想的な部位である。


 瓜子の足先はそのまま横合いに通過していき――それに下顎を運ばれたオリビア選手の顔は、ゆっくりと斜めに傾いていく。

 瓜子は最後の力を振り絞り、左足を振り抜いた。

 足先には、何の衝撃も生まれていない。これで本当に攻撃を当てることができたのかと、不安になるほどだ。


 そうして瓜子の視界は、白い光に包まれた。

 それと同時に、頭の中身も白一色に染めあげられる。

 すべての感覚が、瓜子の五体から去っていき――

 次に意識を取り戻したとき、瓜子はフェンスにへばりついていた。


 両手でフェンスをわしづかみにして、額をフェンスに押し当てている。そうして深い前屈の体勢で、瓜子はぜいぜいと息をついていた。

 新たな酸素が供給されて、瓜子の意識を回復させたのだ。


 いったいどれだけの時間、瓜子は意識を失っていたのか。それすら、自分では把握できない。

 ただ瓜子はフェンスにへばりつきながら、自分の足で立っていた。

 そうして咽喉が痛くなるほどせわしない呼吸を繰り返しつつ、後方に向きなおると――オリビア選手が力なく倒れ伏しており、レフェリーが頭上で両腕を交差させていた。


『二ラウンド、三分二十三秒! 左ハイキックにより、猪狩瓜子選手のKO勝利です!』


 そんなアナウンスの後に、驟雨のごとき歓声が降り注いでくる。

 瓜子はフェンスにもたれながら、ずるずるとへたりこむ。

 できれば格好よく歓声に応えたいところであったが、瓜子の肉体にはもはや一滴のスタミナも残されていなかったのだった。

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