04 死闘
ゆったりと構えたオリビア選手を前に、瓜子は慎重にステップを踏み続けた。
こちらもまずは、オーソドックスのスタイルだ。オリビア選手とはスパーでもサウスポーでやりあったことがあるので、スイッチは試合の展開の中で効果的に組み込もうという手はずになっていた。
パワーや体格で劣ろうとも、スピードと小回りは瓜子のほうが上である。
そしてこれは空手でもキックでもなく、MMAだ。組み技と寝技に関しては、まだまだ瓜子のほうがまさっているはずであった。
(あっちはあれだけ重心が高いから、あたしからテイクダウンを取るのは難しい。それであっちはあたしのテイクダウンを警戒しながらスタンドでやり合うわけだから、それだけでも十分に有利な条件のはずだ)
かつてユーリはオリビア選手とのリベンジ・マッチで、KO勝利を奪取している。立ち技の技量は明らかにオリビア選手のほうが上であったのに、寝技と組み技に警戒するオリビア選手の顔面に、華麗なハイキックを決めてみせたのだ。さすがに瓜子がハイキックを決めることは難しかろうが、同じ手順でペースを握る心づもりであった。
瓜子は意識的に頭を低くして、タックルのプレッシャーを与えつつ、間合いを測る。
これだけの身長差でさらに重心を低くするというのはなかなかの恐怖であったが、その恐怖を乗り越えない限りはプレッシャーを与えることもかなわないのだ。いつ相手の拳や蹴りが顔面に飛ばされてくるか、警戒心を最大に引き上げながら、瓜子は自分の為すべき作戦に勤しんだ。
「三十秒経過! その調子で、足を使っていけ!」
まだ三十秒しか経っていないのかと、瓜子は内心で驚きを噛みしめる。
ただ――そんな感覚もひさびさのことであった。二試合連続で秒殺で終わってしまった瓜子にとって、これだけじっくりと試合に臨むのは半年ぶり――一月大会の、マリア選手との対戦以来であったのだった。
(ぴょんぴょん動き回るマリア選手よりは、やりやすい面はあるはずだ。焦らずに、とにかく作戦を遂行しよう)
相手の攻撃が届かない距離から一気に踏み込んで、自分の攻撃だけを当てる。それが今回の、瓜子の命題である。
至近距離には、決して留まらない。オリビア選手が得意とするのは、ボディブローとローキックであるのだ。オリビア選手の重い攻撃をまともにくらったら、それだけで致命傷になりかねなかった。
「一分経過! 慎重に、手を出していけ!」
今度はあっという間に、時間が過ぎ去ってしまった。
すっかり耳が慣れてしまったが、客席には歓声が吹き荒れている。一分間、どちらもまったく手を出していないというのに、ブーイングのひとつもあげられてはいないようだった。
(ブーイングをあげられてもいい。とにかく、間合いをつかむんだ)
間合いがなかなかつかめないのは、オリビア選手がまったく手を出してこないためである。オリビア選手のリーチやコンパスに関しては過去の経験からおおよその感覚を持ち合わせていたが、実戦ではどれだけ攻撃に鋭さが増すのか、それを体感しないと間合いは定められないのだった。
(慎重に、でも手は出していけ、か)
立松の言葉に従って、瓜子は牽制のジャブの数を増やしてみせた。
そしてこれまでよりも、じわりと相手の近くに踏み込む。もはや蹴り技であれば届く間合いであったが――オリビア選手は序盤からミドルやハイを出すタイプではない。今回も、そのセオリーは守られているようであった。
(オリビア選手の忍耐力も、大したもんだな。それじゃあ次はサイドに回り込んで、浅くローを当てる感じで――)
瓜子がそのように思案したとき、オリビア選手の身がぐっと接近してきた。
サイドに踏み込みかけた足を使って、瓜子はすかさず背後に逃げる。自分をほめてやりたいぐらい迅速に対応できたが、しかし心臓が疲労とは別の理由で騒いでいた。
(なんか、接近されたっていうよりは……オリビア選手の身体がいきなり大きくなったような感覚だったな)
しかし眼前のオリビア選手は瓜子の記憶にある通りの大きさで、小さく前後に動いているばかりである。空手流の、すり足気味のステップだ。その顔も、試合前と変わらず柔和そのものであった。
(確かにメイさんが言う通り、オリビア選手は闘志が表に出ないタイプだ。これはちょっと……やりにくいかもな)
そんな風に考えかけた瓜子は、慌てて自分を戒めた。相手に苦手意識を持つことなど、自分のマイナスにしかならないのだ。
(余計なことは考えるな。集中して、やるべきことをやるんだ)
瓜子はいったん間合いを外してから、あらためてオリビア選手のサイドに回り込もうとした。
そこに再び、オリビア選手がぐっと近づいてくる。
そして今回は、そこに具体的な脅威がともなっていた。オリビア選手の長い左足が、真っ直ぐに突き出されてきたのだ。
何の変哲もない、前足による前蹴りである。
しかし瓜子はオリビア選手の肉体が巨大化して、想定よりも長い足が飛ばされてきたような心地であった。
瓜子は後方に逃げるのではなく、踏み出しかけていた足でそのままアウトサイドへと移動する。
想定よりも、オリビア選手の位置が近い。あちらは前蹴りを繰り出したところであるので、カウンターをくらう危険はほぼないはずであったが――瓜子は首筋がちりちりと焼けつくような感覚に従って、攻撃は出さずに距離を取ろうとした。
そこに、第二の攻撃が飛ばされてくる。
横殴りの、左の裏拳である。
オリビア選手は蹴り足を下ろすと同時に、アウトサイドへと逃げた瓜子にそのような攻撃を繰り出してきたのだった。
オリビア選手らしからぬ、強引な仕掛けである。
もしもこれがユーリや多賀崎選手であったなら、その攻撃を頭上にかわしてテイクダウンを狙ったかもしれない。しかし、調子を外されたこの状態で、瓜子のタックルが成功するとは思えなかった。
(攻撃は、なるべく受けない!)
瓜子は頭を沈めることで、その攻撃をやりすごした。
そして体勢を整えるべく、バックステップのために足を踏ん張る。
そこに、第三の攻撃が飛ばされてきた。
奥足からの、右ミドルである。
左拳を振り抜いたオリビア選手は、その勢いで瓜子のほうに向きなおり、そしてすぐさまそのような攻撃を繰り出してきたのだった。
瓜子はすでにバックステップの姿勢になっているが、このタイミングでは逃げきれない。
瓜子はほとんど本能で、両腕でボディをガードした。
その前腕に、オリビア選手の右すねが叩きつけられる。
腕を貫通した衝撃が胴体の内にまで走り抜け、一瞬呼吸が止められる。それほどの破壊力であった。
それに、何という骨の硬さであろうか。瓜子はついに、レガースパッドを装着していないオリビア選手の蹴りを我が身で体感することに相成ったのだった。
瓜子は異常に骨密度が高いと見なされていたが、オリビア選手もまた拳やすねを鍛えに鍛えぬいている玄武館の選手である。瓜子としては、金属バットのフルスイングをくらったような心地であった。
ただし瓜子は、後方に逃げようとしていたさなかであった。よって、その衝撃を追い風として、おもいきりバックステップを踏むことになった。
半ば吹き飛ばされるようにして、瓜子は一気に一メートルばかりも後退する。
すると――蹴り足を前に下ろしたオリビア選手が、そのまま間合いを詰めてきた。
空手家であるオリビア選手もまた、スイッチが巧みであるのだ。
三たびオリビア選手が巨大化するような感覚に見舞われた瓜子は、さらに距離を取ろうとした。
俊敏さでは、瓜子のほうが上なのだ。
だから、逃げきることは可能である。
そんな意識を追いかけるようにして、瓜子はさらに後方へと足を踏み出した。
そこに、立松の声が矢のように飛んできた。
「――アウトサイドだ!」
それはもう、重心の移動が間に合わない。瓜子はすでに真後ろに逃げているさなかであった。
その右かかとが、何か硬いものと衝突する。
この感触は――フェンスである。
いつしか瓜子は、フェンス際にまで追い込まれてしまっていたのだった。
オリビア選手は、もはや眼前に迫っている。
本当に、巨大化したかのような迫力だ。
ただその顔は、柔和な表情をたたえたままである。
青い瞳は、凪の海のように静かであった。
そして――オリビア選手の左拳が、颶風のように瓜子のもとへと迫っていた。
右脇腹を狙った、レバーブローだ。
これだけは、絶対にくらってはいけない。
オリビア選手の重い拳をレバーにくらったら、悶絶は必至である。
死に物狂いで、瓜子は身体をひねっていた。
そのついでとばかりに、左腕が前にのびている。
瓜子はただレバーをかばうために身体をひねっただけであるのに、何故か左拳が射出されていた。
(ああ、この角度なら、当たるかも……)
俊敏性は、瓜子のほうがまさっている。
瓜子の拳はほとんどアッパーカットのような軌道で走り抜け、オリビア選手の右腕のガードをかいくぐり、その右頬へと叩きつけられた。
そして、0コンマ数秒の遅れでもって、左の脇腹に凄まじい衝撃が炸裂したのだった。
瓜子はほとんど半身の体勢になっていたために、右脇腹を狙ったレバーブローが左脇腹に突き刺さったのだ。
しかし、急所のレバーを避けてなお、その一撃で瓜子は一瞬記憶が飛ばされていた。
レバーではないボディへの攻撃で意識を飛ばされたのは、おそらく生まれて初めてのことであろう。
瓜子はちかちかと明滅する世界の中でまろび歩き、やがて何かに衝突した。
その何かは、黒くコーティングされたフェンスであった。もとの場所から逃げのびた瓜子は、フェンスの別の面まで到着したようであった。
そのフェンスに背中を預けながら、瓜子はもといた方向に向きなおる。
オリビア選手は――フェンスを片手でつかみながら、小さく頭を振っていた。
レフェリーが厳しい面持ちで「OK?」と問いかけると、オリビア選手はフェンスから手を離し、ファイティングポーズを取ってみせた。
さすがにあんな苦しまぎれの一発で、意識を飛ばされることはなかっただろう。ただその右頬は、うっすらと青ずんでいた。
いっぽう、瓜子は――呼吸が、浅くなっていた。
左脇腹への一撃で、何かの歯車が狂ってしまったのだろうか。横隔膜が勝手に蠢動して、自力では呼吸を整えることができなくなってしまっていた。
思うように酸素が摂取できず、足の裏からするするとスタミナが逃げていくような心地である。
痛みらしい痛みは知覚していない。ただ、左脇腹の肉をごっそりえぐり取られたような、不気味な感覚であった。
そんな瓜子の数メートル先で、オリビア選手はファイティングポーズを取っている。
そしてレフェリーは、「ファイト!」と声をあげていた。
瓜子がどれだけのダメージを負ったのか、レフェリーは把握していないのだろう。瓜子はフェンスにもたれながらも自分の足で立っていたし、攻撃をくらったのもレバーではなく左脇腹であったのだ。
(もちろん、何を言われたって試合は続行するけどさ)
瓜子は浅い呼吸を繰り返しながら、フェンスから背中を離した。
幸い、足もとはしっかりしている。ただし、左脇腹に空洞が空いているような感覚は消えておらず、油断をすると身体が傾いてしまいそうだった。
「残り二分! 慎重に足を使っていけよ!」
と、あらぬ方向から立松の声が聞こえてくる。瓜子は自分がケージのどの面に立っているかも把握できていなかったのだ。
そして第一ラウンドは、まだ三分しか経過していなかったのだった。
(あと二分間も、こんな状態でオリビア選手の攻撃をやりすごさないといけないのか)
瓜子はほとんどすり足で、ケージの中央へと移動する。
迂闊にステップを踏むと、バランスを崩してしまいそうであったのだ。これはイリア選手とのリベンジ・マッチにおいて序盤から脳震盪を起こしてしまったときと、似たような状況であるのかもしれなかった。
(でも、視界や足もとはしっかりしてる。こんな感覚は、初めてだ)
脳震盪を起こしたならば、視界が揺れたり足もとが覚束なくなったりするものである。そういった症状は表れないまま、瓜子は意識していないと身体が左側に傾いてしまいそうな感覚を覚えていた。左脇腹がごっそり消失して、身体を真っ直ぐに支えるのが困難であるような心地であったのだ。
(……まさか、あばらを折られちゃったとか?)
そんな風に考えると、背筋に寒いものが走り抜ける。
しかし、ベリーニャ選手や雅選手などは試合中に肋骨を折られようとも、不屈の闘志で勝利してみせたのだ。それを思えば、瓜子も弱気の虫を追い払うことができた。
(でも、たった一発のボディブローでこんなダメージを負うなんて……やっぱり、体格で劣るあたしがオリビア選手の攻撃を受けちゃ駄目なんだ)
右頬を青く腫らしたオリビア選手は、序盤の静けさを取り戻して、小さく前後に動いている。瓜子もなるべくポーカーフェイスを気取りながら、自分の調子を確認することにした。
(足を止めたら、あとは殴られ放題なんだ。たとえあばらを折られてたって、動きまくってやるぞ)
瓜子は間合いの外で、軽くステップを踏んでみた。
やはり、視界や足もとが揺れることはない。ただ、普段は固定されている内臓が揺れるような心地で、きわめて気色が悪かった。それにともない、嘔吐感の前兆めいたものが胃袋の内に生じてしまっている。
(でも、痛みもないし、大丈夫だ。少しずつ身体をならしていこう)
瓜子はそのように考えたが、呼吸が浅いためにスタミナの消費が著しい。気づけば全身がどっぷりと濡れており、目に入る汗が不快でならなかった。
(いつまでもし大人しくしてたら、相手に変調を気づかれる。自分から手を出していかないと――)
そのとき、オリビア選手の姿がぐっと近づいてきた。
先刻までと同様の迫力だ。
(先手を取られた!)
瓜子はワンテンポ遅れて、相手のアウトサイドに踏み込んだ。オリビア選手は前後の動きが鋭いため、サイドに回るのが基本の戦略であるのだ。
しかし先手を取られているために、期待値よりも間合いが詰まってしまっている。またオリビア選手が強引に動いてくれば、攻撃の届く距離と角度であった。
(でも、やられっぱなしじゃいないぞ。次に何か仕掛けてきたら、カウンターでテイクダウンを狙ってやる)
さきほどのオリビア選手は、強引な裏拳にミドルキックを繋げてきた。それはあまりにオリビア選手らしからぬ選択であったため、瓜子も反応が遅れてしまったが、本来であればあのように強引な攻撃はテイクダウンを狙えるチャンスであるのだ。
瓜子はアウトサイドに回りつつ、オリビア選手の挙動をうかがう。
左足を踏み込んだ体勢で、オリビア選手の身体がぐっと力んだ。
しかし重心は、左足のままだ。
瓜子はアウトサイドに位置しているのだから、今の角度のままでは右の攻撃も振るえない。左の攻撃も、可能なのはせいぜい裏拳ていどであろう。先刻と、ほとんど同一のシチュエーションであった。
しかし先刻の瓜子は、調子を乱されたさなかであった。今はしっかりとオリビア選手の動きに備えているので、カウンターのタックルを繰り出すことも容易である。
だが――オリビア選手の攻撃は、逆の方向から放たれてきた。
左足を支点にしての、上段後ろ回し蹴り――バックスピンハイキックである。
完全に虚を突かれた瓜子は、とっさに動くことができなかった。
それでも頭部をガードできたのは、ほとんど本能である。
側頭部を守った瓜子の右前腕に、オリビア選手の右かかとがめり込む。
前腕の骨が、みしりと軋んだように感じられた。瓜子の腕は、まだ序盤のミドルキックのダメージを引きずっていたのだ。
なんとか頭部は守れたものの、瓜子は何歩かたたらを踏むことになった。
そこに、オリビア選手が接近してくる。
その左拳が腰に溜められていることに気づいた瓜子は、ぞっとした。オリビア選手は、またもや瓜子のレバーを狙おうとしているのだ。
(相討ちじゃ駄目だ! 体格で負けてる相手にそんな戦い方をしてたら、こっちが先に潰される!)
そんな思考を追いかけるようにして、瓜子の身体が横合いに旋回していた。
瓜子は半ば無意識に、バックハンドブローを繰り出していたのだ。
瓜子の拳は前腕ごと、何か硬いものと衝突した。
度重なる痛撃で、前腕のほうがずきりと痛む。
なおかつ、瓜子の右腕が叩いていたのは、下顎から胸もとまでをガードしたオリビア選手の左腕であった。
(この距離は、まずい!)
瓜子が先に動いたため、オリビア選手のレバーブローは射出されていない。しかしこの至近距離は、ボディアッパーを放つのにうってつけであるはずだ。
そのように認識すると同時に、瓜子はオリビア選手に組みついていた。ここで距離を取ろうとしても、間合いの外に出る前に何らかの攻撃が追いかけてくるものと判じたのだ。
胴タックルでも何でもない、ただ相手に組みついただけのクリンチである。
オリビア選手は瓜子に組みつかせたまま、ぐっと右肩を押さえつけてくる。おそらく、膝蹴りを狙っているのだ。そうはさせじと、瓜子は強引に密着してみせた。
膝蹴りの挙動に入りかけていたオリビア選手は、ぐらりと後ろに傾きかける。その間隙を見逃さずに、瓜子は足を掛けようとした。このタイミングあれば、重心の低さを活かして押し倒せるはずだ。
だが、瓜子の足は虚空をかいていた。
オリビア選手は驚くべき反応速度で軸足を切り替えて、瓜子の内掛けをすかしてみせたのだ。
そして今度は瓜子の軸足に、オリビア選手の足が掛けられてくる。
それと同時に右肩を押された瓜子は、半ひねりしながら背中からマットに叩きつけられることになった。
組み合いの攻防でも、瓜子はオリビア選手に競り負けてしまったのだ。
そうしてオリビア選手は怪物のごとき重量感で、瓜子の上にのしかかってきたのだった。
瓜子は無我夢中で、相手の右足を両足ではさみ込む。
なんとかハーフガードは死守できたが、今の瓜子はオリビア選手に体重をかけられるだけで地獄の苦しみであった。
空洞化していた左脇腹に、じんわりと重い痛みがにじんでくる。
呼吸は、いっそう浅く、せわしなくなっていた。
そんな瓜子の咽喉もとに、オリビア選手の前腕が押しつけられてくる。
それは、気が遠くなるほどの息苦しさであった。
これがスパーであったなら、瓜子は迷いなく相手の背中をタップしていただろう。
また、酸素の欠乏した人間は、判断力が鈍るものである。瓜子が反射的にタップしていても、何ら不思議はないはずであった。
しかし瓜子は白く霞んだ世界の中で、別のことを考えていた。
瓜子が抵抗しなければ、この前腕で肘打ちを狙われる――そんな思考が、つむじ風のように瓜子の脳内を吹き抜けていったのだ。
よって瓜子は、死に物狂いで抵抗した。
相手の前腕を押しのけて、気道を確保すると同時に、相手の重心を崩すべく腰を切る。今でははっきりと左脇腹が痛んでいたが、そんなものにかまっているいとまはなかった。
オリビア選手は瓜子の左脇を差しつつ、執拗に追いすがってくる。グラウンドテクニックは中の下のレベルであるオリビア選手であるが、瓜子にとってはこれだけの体格差であるのだ。合宿稽古においても、オリビア選手に上を取られた際は滅多に跳ね返すこともできていなかった。
しかしそれでも、瓜子がオリビア選手にタップを奪われたことはない。
怖いのは、パウンドや肘打ちである。たとえオリビア選手がそれらの攻撃を不得手にしていても、この体格差であれば致命傷になりかねなかった。
「そのまま右に回り続けろ! もうひとふんばりで、フェンスだぞ!」
ひさかたぶりに、立松の声が聞こえてきた。セコンドの声が聞こえなくなるぐらい、瓜子は酸欠の状態にあったのだ。
その言葉を信じて腰を切り続けると、やがて右肩がフェンスにぶつかった。
瓜子はオリビア選手の重量を押し返しながら、肩と背中でフェンスを伝う。それで何とか、半身を起こすことができた。
「気を抜くな! 立ち上がり際、肘や膝に気をつけろ!」
左斜め後方から、立松の声が聞こえてくる。そちらが、瓜子のコーナーであったのだ。
「右手で相手の腰を押して、まず左膝を立てろ! 顔のガードは忘れるな!」
瓜子はほとんど本能で、立松の声に従っていた。
自分のせわしない呼吸音に、オリビア選手の息遣いが重なっている。オリビア選手も得意ならぬグラウンド戦で、それだけ疲弊しているのだ。それを実感することで、瓜子はさらなる力を振り絞ることができた。
「いいぞ! 相手の顎に頭をあてろ! 右腕をつかめ! 左足を立てろ!」
瓜子は愚直に、立松の言葉に従った。
その末に、みごと立ち上がることがかなったのだった。
「ミギヒザ、ネラってるよー」
今度は、ジョンの言葉が聞こえてくる。
瓜子がとっさに腹をかばうと、左腕にオリビア選手の右膝が叩きつけられてきた。
その衝撃に耐えながら、瓜子は身をよじり、オリビア選手の身を突き放す。
そうして瓜子がファイティングポーズを取ろうとしたとき――ようやくラウンド終了のブザーが鳴らされたのだった。
瓜子はその場にへたり込みたい衝動をねじ伏せて、自分のコーナーへと足を踏み出した。
その進行方向にたたずんでいたオリビア選手が、汗だくの顔で笑いかけてくる。
瓜子も笑顔を返したつもりであったが、それに成功できたかどうかは定かではなかった。