03 ガトリング・ラッシュと日本人キラー
灰原選手の勝利を見届けた瓜子はユーリたちと拳をタッチさせてから、いざ入場口に向かうことになった。
その道中で、セコンド陣に左右から抱えられた亜藤選手とすれ違う。彼女は頭からタオルをかぶせられていたので表情もわからなかったが、その陰からはぶつぶつと怨嗟の言葉がこぼされていた。
亜藤選手はあれだけ壮絶なKO負けをくらってもなお、闘志をたぎらせていたのだ。
瓜子はその心身の頑丈さに感服しつつ、いつか亜藤選手とも試合をしたいという思いを新たにすることになったのだった。
しかし、今日の相手はオリビア選手である。
ユーリのインタビューや灰原選手の試合で呼び起こされたさまざまな感情は心の隅に追いやって、今は目の前の試合に集中しなければならなかった。
「やあ。灰原さんは、初回で仕留めたみたいだね。ベテランのトップファイターを相手に、大したもんだ」
入場口の裏手に待機していた小笠原選手は、笑顔でそんな風に言っていた。
セコンド陣は、彼女が地元でお世話になっているという面々である。出場選手たる小笠原選手を筆頭に、誰もがリラックスした面持ちであった。
「小笠原選手も、頑張ってください。ここで勝利を祈っています」
「うん。試合の感想は、また放映後にお願いするよ」
そういえば、瓜子は前回の興行でもユーリのセコンドとして、この場で小笠原選手の試合が終わるのを待つことになっていたのだ。小笠原選手の試合をリアルタイムで見届けられないのは残念な限りであったが、それは彼女が前回も今回もセミファイナルに抜擢されているゆえなのだから、致し方のない話であった。
そうして小笠原選手は花道に消えていき、瓜子は身体を冷やさないために立松の構えたミットを蹴る。
しかし瓜子が棒立ちで待っていても、身体が冷えるいとまはなかったかもしれなかった。このたびも、五分とかからずに試合終了のブザーと大歓声が聞こえてきたのである。
「トキコのKOガちだねー。もうクビのケガもカンゼンにナオって、ゼッコウチョーみたいだねー」
正規コーチの身でありながら覗き見を楽しんでいたジョンが、そのように教えてくれた。
大村選手に続き、高橋選手をも一ラウンド目で下すことがかなったのだ。高橋選手の今後の健闘を祈りつつ、今は小笠原選手の完全復活を心から祝福するばかりであった。
「お疲れ様です、小笠原選手。KO勝利、おめでとうございます」
「ありがとう。アンタの暴れっぷりは、控え室でじっくり拝見させていただくよ」
花道から戻ってきた小笠原選手は笑顔で瓜子とグローブをタッチさせ、試合前と変わらぬ足取りで通路の向こうに消えていった。
やはり来栖舞と兵藤アケミが引退した現在、小笠原選手には敵がいなくなってしまったのだ。あとは外様のオルガ選手に、香田選手やマキ・フレッシャー選手の躍進を願うしかなかった。
「よし。いよいよ出番だな。スピードでは勝ってるんだから、足を使ってかき回していけよ」
「ウリコだったら、ダイジョウブだよー。ケガをしないように、ガンバってねー」
「……ウリコ、勝利を信じている」
立松とジョンとメイが、それぞれの気性に見合った表情でそんな言葉をかけてくる。瓜子が「押忍」と答えたとき、扉の向こうから瓜子の名を呼ぶアナウンスが聞こえてきた。
さらに、『ワンド・ペイジ』の『Rush』のイントロが響きわたる。
瓜子は深く息をつき、山寺博人のしゃがれた歌声とともに花道へと足を踏み出した。
さまざまな色合いをしたスポットライトが、瓜子の視界をかき回す。
会場を揺るがす声援が、瓜子の全身の皮膚をびりびりと震わせていた。
これまでの試合で蓄積された熱気に、最後の試合に対する期待感が掛け合わされている。この究極まで盛り上げられた大歓声を味わえるのが、メインイベンターの特権であったのだった。
それと引き換えに、瓜子はこの期待に応えられるだけの試合を見せなければならない。そうでなければ、この歓声と熱気の意味が失われてしまうのだ。若輩の身でメインイベントを預かる瓜子は、そんな覚悟で花道を歩いていた。
ボディチェック係の前に到着したならば、上にだけ着ていた公式ウェアとシューズを脱ぎ捨てる。それを受け取ってくれたメイがドリンクボトルを差し出してきたので、瓜子は口内を湿らせるていどに水を含んだ。そうして立松の差し出すマウスピースをくわえれば、戦闘準備も完了だ。
「落ち着いていけよ。とにかく、間合いを支配しろ」
「シアイとスパーのチガいを、ミキワめるんだよー。アトはレンシュウドオりにやれば、ゼッタイにカてるからねー」
「……オリビアの静かな空気に、騙されないように。オリビア、気迫が外に出ないから」
頼もしいセコンド陣の言葉に「押忍」と返しつつ、瓜子はひとりずつ拳をタッチさせていった。
そうして顔にワセリンを塗られて、ボディチェックを受けたのちに、ケージへのステップをあがる。
こちらの対角線上で、オリビア選手は飄然と立ち尽くしていた。
瓜子と同じく白と黒のカラーリングで、タンクトップとファイトショーツという姿だ。オウムのように鼻のとがったその顔は、いつも通りの柔和な表情をたたえていた。
『第十試合、メインイベント、フライ級、五十六キロ以下契約、五分三ラウンドを開始いたします!』
リングアナウンサーがそのように宣言すると、いっそうの歓声がふくれあがった。
『青コーナー。百七十五センチ。五十五・九キログラム。玄武館シドニー支部所属……オリビア・トンプソン!』
オリビア選手は前腕を胸の前でクロスさせて、それを腰まで引き下ろす。空手流の挨拶だ。
『赤コーナー。百五十二センチ。五十三・八キログラム。新宿プレスマン道場所属、《アトミック・ガールズ》ストロー級第五代王者、《フィスト》ストロー級第四代王者……猪狩、瓜子!』
瓜子は大きく息をしてから、右腕を頭上に掲げてみせた。
ほどよい昂揚が、五体を満たしている。
気持ちは引き締まっているが、緊張はしていない。
大会の二週間前に対戦相手が変更されて、急遽減量を取りやめることになってしまったが、取り立てて体調に問題はない。いつも通りの、ベストコンディションであった。
「両者、ケージの中央へ!」
レフェリーの声に導かれて、ケージの中央に進み出る。
近くで見ても、オリビア選手の印象に変化はない。その青い瞳に瞬くのも、試合前とは思えぬほどの穏やかな輝きだ。
ただやはり、体格差というものは尋常でなかった。
何せオリビア選手は、フライ級においてもっとも長身の選手なのである。合宿稽古では何度となく手合わせをした間柄であったが、公式の試合でこれだけの長身を見上げるのは、瓜子にとっても初めての体験であった。
二十三センチの身長差というのは、やはり脅威的なものである。瓜子の頭は、オリビア選手の肩までしか届いていない。これはユーリと鞠山選手をも上回る身長差であったのだった。
なおかつオリビア選手は、いつも計量の後に五キロ以上もリカバリーするのだと聞いている。であれば、現在の体重は六十一キロていどで、瓜子との体重差は七キロ以上にも及ぶはずだ。オリビア選手はひょろりとした体格であったが、それでも瓜子よりふた回りは大きく見えるほどであった。
オリビア選手はつい三週間にも試合をしている身であったが、コンディションに不備はないのだろう。肌艶も健康そのもので、無理な減量に苦しんだ様子もない。合宿稽古で向かい合ったときと変わりのない、飄々とした自然体であった。
「では両者、クリーンなファイトを心がけて」
瓜子が両手を差し出すと、オリビア選手は大きな手でそれを包み込んできた。
そしてその柔和な顔に、のんびりとした微笑をたたえる。
「今日の試合を楽しみにしてましたよー。ウリコ、どうぞよろしくお願いします」
瓜子もまた親愛の念を込めて、「押忍」と答えてみせた。
こんなに好ましく思う相手と、本気で殴り合うことができる。それが、格闘技の醍醐味であるのだ。どれだけ温かい気持ちになろうと、瓜子の闘志が鈍ることはなかった。
オリビア選手は瓜子の手の先をぎゅっと握ってから、フェンス際まで退いていく。
瓜子も同じく引き下がると、フェンスの向こうから立松の声が飛ばされてきた。
「いいか、間合いだぞ! 相手の間合いを見切るまでは、迂闊に踏み込むな! 相手の攻撃はなるべく受けずに、すかしていけ!」
瓜子は軽く屈伸をしながら、そちらにも「押忍」と答えてみせた。
大歓声の中、ついにブザーが鳴らされる。
レフェリーの「ファイト!」という声を聞いてから、瓜子はケージの中央に進み出た。
オリビア選手はオーソドックスの、ゆったりとした構えだ。
背筋は真っ直ぐのばされているが、腰はそれなりに低く落として、膝にクッションをきかせている。両手の拳は胸の高さで、いかにもフルコンタクト系の空手家らしいスタイルであった。
フルコン系の空手は素手で殴り合う競技であるため、顔面を殴ることが禁止されている。それがムエタイの選手と戦うためにグローブをはめたのが、そもそものキックボクシングの始まりである――と、瓜子はそのように聞き及んでいた。瓜子が産まれるより遥かなる昔日、1960年代の逸話だ。
ムエタイやボクシングでグローブをはめるのは、もちろん大きな負傷を防ぐためである。なおかつそこには、相手の頭部ばかりでなく自分の拳を守るという意味合いも強かった。人間の頭蓋骨というのは人体において指折りで頑丈な部位であるため、それを素手で殴れれば拳の骨など簡単に砕けてしまうのだ。
たとえば、《アクセル・ファイト》も創成期にはグローブ着用のルールが存在しなかった。それで数多くの選手が、相手の顔面を遠慮なく素手で殴っていたのだが――おおよそは、自分の拳を壊す結果になっていた。そうして《アクセル・ファイト》の名を世界中に知らしめることになった最初のトーナメント戦において、打撃技に頼らないジルベルト柔術の選手が危なげなく勝ち抜き、ほとんどノーダメージで優勝してみせたわけである。
その後、《アクセル・ファイト》はスポーツとしてのMMAを確立するために、オープンフィンガーグローブの着用をルールに取り入れた。斯様にして、人の顔面を素手で殴るというのは、危険な行為であるのだ。
そんな中、フルコン系の空手だけは、頑なにグローブの着用を導入していない。「いかなる防具も着用せず、素手で殴り合う」という古きからのルールにこだわり続けているのだ。
見ようによっては、それは偏狭なルールであったことだろう。「顔面を殴る」というのは打撃系格闘技において重要なファクターであるはずなのに、それをルールで禁じているのだ。そんな稽古をいくら積んでも、ボクシングやムエタイの選手には絶対にかなわない――と、一時期はそんな誹謗にさらされていたのだと、瓜子はそんな風に伝え聞いていた。
また、日本の総合格闘技においても、創世記はグローブを着用していなかった。顔を叩く際には拳ではなく掌打にしなければならないと定められていたのだ。
しかし、フルコン系の空手の多くの流派では、その掌打さえもが禁じられている。首から上を手で攻撃することが、全面的に禁止されているのである。
結果、フルコン系の空手は特異なファイトスタイルを生むことになった。
顔面をいっさいガードせず、至近距離でひたすらボディを殴り合うのが主流となってしまったのだ。それもまた、口の悪い人間には「押しくら空手」だの「タフマンコンテスト」などといった言葉で揶揄されることがあるとのことであった。
むろん、中には蹴り技を主体にするアウトファイターも存在するのだと聞いている。顔面を蹴ることは許されているので、遠い距離を保ちながらハイキックを狙うという、そういう選手も少なくはないようであるのだ。
また、至近距離でボディを殴り合いながら、ここぞというタイミングで蹴りを狙う選手も多いことだろう。顔面を殴ることが禁じられているのだから、試合に臨む選手はそれ以外の手法で相手を叩きのめすすべを練り抜いているはずであった。
ともあれ――フルコン系の空手というのはそういう競技であり、オリビア選手が所属しているのはその最大派閥である玄武館に他ならなかった。
ゆえに、オリビア選手は顔面の防御が甘いとされている。
もちろんMMAに挑戦するにあたって、オリビア選手もさまざまな稽古を積んでいるのだが、土台となるのは幼少期より学んできたという玄武館の技術であるのだ。なおかつ彼女は現役の門下生で、MMAよりも玄武館の試合を重んじているのだから、稽古の比重もそちらに寄っているはずであった。
ただし、彼女はこの階級でもっとも長身の選手となる。それで彼女は卓越したリーチとコンパスを活用することで、自らの弱点をカバーしているのだった。
それにまた、玄武館ならではのウィークポイントが存在するならば、ストロングポイントというものも存在する。
それは、打撃の重さと肉体の頑丈さであった。
玄武館の選手は、素手でボディを殴り合うことを日常としているのだ。グローブの重量やクッション性に頼らず、生身の拳で相手を叩きのめすための稽古と、それに耐え得る頑強な肉体の構築に心血を注いでいるわけである。それもまた、MMAやボクシングやムエタイには存在しない競技特性であるはずであった。
オリビア選手がその特性をどれだけ磨き抜いているかは、瓜子も合宿稽古で思い知らされている。
オリビア選手ほど打撃が重く、そして頑丈な肉体をした選手は――少なくとも、この階級には見あたらないのである。ウェイトで大きくまさる小笠原選手ですら、肉体の頑丈さはオリビア選手に譲ることだろう。そうしてオリビア選手は《アトミック・ガールズ》でも数々の勝利を積み上げて、いつしか『日本人キラー』という異名を授かることになったわけであった。
(しかもオリビア選手はオーストラリアの生まれで、もともと日本人より頑丈な身体をしてるもんな。言ってみれば、ラニ選手をひと回り大きくしたようなもんだ)
瓜子はかつてハワイのラニ・アカカ選手に苦戦を強いられている。同じ階級であるラニ・アカカ選手でさえ、瓜子の攻撃をものともしなかったのだ。
オリビア選手は、そのラニ・アカカ選手よりもひと回りは大きい。しかも、肉体の頑丈さを売りにする玄武館の所属である。そして、唯一のウィークポイントである顔面のディフェンスについても――これだけ身長で劣る瓜子には、最初から攻撃の幅が狭められているのだった。
オリビア選手とは、それだけの強敵であるのだ。
そして一階級下である瓜子にとっては、厄介さの度合いが格段に増してしまうわけであった。
(でも……弥生子さんは、こんなもんじゃすまない体格差の相手にだって、いつもKOか一本で勝ってるんだ)
そんな風に考えると、瓜子の胸に熱い感覚が走り抜けていく。
そんな瓜子と対峙しながら、オリビア選手はどっしりとした大樹のように揺るぎなく、そして静かなたたずまいを見せていたのだった。