02 極悪バニーとアイアン・レスラー
控え室に戻ってきたユーリは汗も涙もきれいにぬぐって、ただひたすら無邪気な笑顔であった。
ウォームアップを開始していた瓜子が「お疲れ様です」と拳を差し出すと、「うん」と自分の拳を押し当ててくる。それ以上の言葉は、必要なかった。
残る試合は、三試合である。
小笠原選手は入場口へと向かったが、瓜子は廊下に出ず、控え室でウォームアップをさせていただいた。第八試合は、灰原選手と亜藤選手の一戦であったのだ。
《アトミック・ガールズ》のロゴがあちこちにプリントされたレオタードとロングスパッツの姿で、灰原選手が花道を闊歩する。その足取りはいつも通りの力強さで、顔にも不敵な笑みが浮かべられていたものの、その目はいくぶん赤くなっているように感じられた。
(灰原選手は小柴選手に次ぐぐらいの、感激屋さんだもんな。……まあ、あたしもあんまり人のことは言えないけど)
灰原選手はウサギの耳のように結わった髪を揺らしながら、意気揚々とケージに上がり込む。先刻のエキシビション・マッチとその後のインタビューで会場はこれ以上もなく温められていたため、灰原選手に向けられる歓声もかなりの勢いになっていた。
まあ、格闘技マガジンの人気投票でも、9位から6位に急上昇した灰原選手であるのだ。事前のお膳立てがなかろうとも、その人気はいまや《アトミック・ガールズ》でも指折りのはずであった。
そして赤コーナー側の花道からは、亜藤選手が入場する。
卓越したレスリング能力を持つ、歴戦のトップファイターである。ここ最近は負けが込んでしまっているものの、かつてはイリア選手をも負かしたことのある選手であるのだから、その実力は折り紙付きであった。
(亜藤選手はイリア選手のトリッキーな技をかいくぐって、グラウンドで塩漬けにすることができたんだもんな。それだけで、大した実力のはずだ)
その後、本年のリベンジ・マッチにおいては敗北を喫してしまったが、あれはイリア選手のほうが実力を上げたということなのだろう。瓜子もこの身でその成長を体感しているのだから、それは確かなことだ。
青と黒のカラーリングであるタンクトップとショートスパッツを纏った亜藤選手は、余裕たっぷりの面持ちでケージインする。ふてぶてしさと試合度胸では、彼女も灰原選手に負けていなかった。
『第八試合、ストロー級、五十二キロ以下契約、五分三ラウンドを開始いたします! ……青コーナー。百五十六センチ。五十二キログラム。四ッ谷ライオット所属……バニーQ!』
灰原選手は右腕をぶんぶんと頭上で振って、観客たちを煽りたてた。
『赤コーナー。百五十五センチ。五十一・九キログラム。ガイアMMA所属……亜藤、要!』
亜藤選手は灰原選手の姿を見据えつつ、右腕だけでガッツポーズを作る。この一戦に対する期待感からか、彼女にも灰原選手と同じ熱量の歓声が届けられていた。
両者は不敵な表情を保持したまま、ケージの中央で向かい合う。
数値的にはほとんど差のない両者であったが、体格はまるきり違っていた。灰原選手は女性らしさと力強さの同居する肉感的な体格で、亜藤選手は筋肉質のがっしりとした体格だ。また、灰原選手のほうが頭身が高いため、そのぶんシャープに見えるようであった。
灰原選手はきわめて肉付きがよろしく、この階級ではかなりパワーもあるほうであったが、亜藤選手はそれよりも力強く思えてならない。また実際、彼女はパワーと頑丈さで知られる選手であった。日本人選手としてはかなり骨格もしっかりしており、首や腰の太さなどは男子選手さながらであったのだ。
瓜子がプロデビューした当時、サキが王者として君臨していた時代、トップファイターとして名を馳せていた選手は五名存在する。イリア選手、山垣選手、後藤田選手、時任選手、そしてこの亜藤選手である。
その中からイリア選手を除いた四名は、五十二キロ以下級の黄金世代と称されている。彼女たちは年齢もキャリアもさほど差がなく、来栖舞や兵藤アケミや鞠山選手や雅選手が築きあげた《アトミック・ガールズ》にさらなる彩りを与えた、第二世代であったのだった。
ただし、彼女たちは実力が伯仲しているがゆえに、突出した存在がいなかった。なおかつ、第一世代の王者や外国人選手の牙城を突き崩すのが、なかなかに難しく――そこに、第三世代たるサキやイリア選手が登場してきたのだ。
イリア選手も年齢は彼女たちと変わらないぐらいであったが、ダンスを本職としている彼女は格闘技を始めるのもプロデビューも遅かった。しかしそのような遅れを帳消しにするほどの快進撃でトップファイターの包囲網を突き破り、あっという間に王座をかっさらってみせたのだ。
そしてその後は、ひとたびイリア選手に敗れたサキが猛追して、リベンジを果たし、次なる王者に輝いた。
そのように考えると、それはひとつ上の五十六キロ以下級と似たような構図であったのかもしれない。そちらでも古きの時代から第二世代たる沖選手や魅々香選手が活躍していたにも拘わらず、第一世代の王者を倒す役割を第三世代たるタクミ選手こと秋代拓海に奪われてしまったのだ。
沖選手や魅々香選手と同じように、亜藤選手たちも名うてのトップファイターとして知られながら、いまだ戴冠の経験がない。《アトミック・ガールズ》を創立した第一世代と、新たな波たる第三世代にはさまれて、辛酸をなめることになってしまったのだ。
そんな中で、今もなおもっとも大きな期待をかけられているのは、この亜藤選手なのではないか――と、瓜子はそんな風に考えていた。
時任選手は膝の故障で一年以上も欠場することになり、復帰後も鞠山選手と小柴選手に敗れてしまった。
山垣選手は四名の中で最後にサキの王座へと挑戦した身であったが、そこで敗北し、さらにメイとの対戦で一年ばかりも負傷欠場することになった。復帰戦では中堅選手に危なげなく勝利することができたので、あとは今後の結果次第であろう。
後藤田選手は一色選手に敗れてしまったものの、あれはルール改正直後の試合であったため、実力のすべてではないはずだ。その証拠に、本来であれば今回の大会で瓜子の王座に挑戦する予定であったのだから、運営陣にも相応の期待がかけられているはずだが――ただし、彼女は第二世代の最年長であり、すでに三十歳を過ぎている。うがった見方をするならば、加齢で実力が落ちる前にタイトルマッチが組まれたのかもしれなかった。
そして、亜藤選手である。
彼女は山垣選手と同じく二十七歳で、第二世代の最年少となる。年齢だけで言えば、イリア選手よりも一歳だけ若いのだ。なおかつ、第二世代の中でイリア選手にひとたびでも勝利できたのは、彼女ひとりであった。
そして彼女もメイに敗れていたが、持ち前の頑丈さで大きな負傷はしなかった。そして《カノン A.G》の時代には、ベリーニャ選手とのグラップリング・マッチが組まれていた。あれは彼女の所属ジムに忖度した結果であったのかもしれないが、それでも期待をかけていない選手にそのようなマッチメイクを施すことはないように思われた。
ともあれ――彼女はまぎれもなく黄金世代のトップファイターであり、ここ数年においてはサキとメイとベリーニャ選手、そしてイリア選手とのリベンジ・マッチでしか敗れていない。《フィスト》においてはラウラ選手の王座に挑戦して敗れていたが、それも判定勝負の惜敗であった。
灰原選手が対戦するのは、そういう相手であるのだ。
この二試合後に出番を控えている瓜子も、ウォームアップに励みつつ、なかなかモニターから目を離せるものではなかった。
『ファイト!』というレフェリーの声とともに、試合開始のブザーが鳴らされる。
灰原選手は元気いっぱいにぴょんぴょんとステップを踏み始め――それと相対する亜藤選手は深いクラウチングのスタイルで、ケージの中央に進み出てからはぴたりと動きを止めていた。
どっしりとした、壁のような姿である。
灰原選手は同じペースでステップを踏んでいたが、やはり迂闊には手が出せない様子であった。
亜藤選手との対戦でもっとも警戒すべきは、やはりテイクダウンであろう。あのイリア選手でさえ、いったんグラウンドで上を取られたならば、もう二度と立ち上がることができなかったのだ。
亜藤選手の所属するガイアMMAは何よりレスリングを重んじており、彼女はその代名詞のごとき存在であるのだ。テイクダウンとポジションキープの能力の高さは、この階級で随一のはずだった。
(しかも亜藤選手は打たれ強い上に、いざとなったらガンガン攻撃を仕掛けてくる。組み合いになったら絶対に負けないって自信があるから、打撃戦でもむちゃくちゃ思い切りがいいんだ)
そういう部分は、マリア選手やラウラ選手に通ずるものがあるだろう。ただし、それらの選手がアウトタイプであるのに対して、亜藤選手はまごうことなきインファイターである。とにかく、近距離での打撃戦と組み合いに特化したスタイルであるのだ。
かつてのサキは、亜藤選手を決して近距離まで近づけず、遠距離から翻弄して、最後にはつばめ返しを決めてみせた。同じくアウトタイプのラウラ選手もKOまでは狙えなかったものの、遠距離から自分の攻撃だけを当てて判定勝利を獲得するに至った。
いっぽうメイは、亜藤選手をも上回るインファイトの強さで正面突破してみせた。しかしあれは、メイのフィジカルと回転力あってこその戦法であろう。
灰原選手もまた、そういった先達たちの試合を研究し尽くしているはずだが――今のところは間合いの外で跳びはねるばかりで、まったく近づこうともしなかった。
「あの灰原選手が、やりにくそうにしているのです。これがトップファイターの壁なのです?」
「はん。あれだけじっくり待たれたら、さすがの金耳ウサ公もやりづれーだろ。ババア加減は同程度でも、キャリアは雲泥の差なんだからなー」
試合を終えた愛音とサキはモニターのそばのパイプ椅子に陣取って、そんな言葉を交わしていた。
そういえば、灰原選手も二十歳を過ぎてから格闘技を始めた遅咲きの部類であったため、年齢は亜藤選手と一歳しか変わらないのだった。
「あのレスリング女は見るからに鈍くさそうな見てくれをしてやがるが、踏み込みの鋭さはピカイチなんだよ。迂闊に近づけば、タックルの餌食だろうなー」
「ふむふむ。灰原選手もアウトファイターとしてなかなかのレベルに達したように思うのですけれど、それでも歯が立たないのです?」
「クソガキのおめーになかなか呼ばわりされてるレベルじゃ、話にならねーだろうなー。数年前には、ピエロ女も全ラウンドでテイクダウンを奪われてたんだからよ」
すると、モニター上におかしな動きが見受けられた。
亜藤選手の周囲を回っていた灰原選手がフェンス際まで退き、ファイティングポーズを解除して、大きく深呼吸をしたのである。
まるで、亜藤選手からの接近を誘っているかのようだ。
もちろん亜藤選手はケージの中央に陣取ったまま、自分から動こうとはしなかった。
レフェリーは粛然たる面持ちで、『ファイト!』と両名をうながす。
灰原選手は大きく両腕を上げて客席を煽ってから、仕切り直しとばかりにステップを踏んだ。
その姿に、サキが「ふふん」と鼻を鳴らす。
灰原選手のステップが、変化していた。歩幅や角度が不規則で、マリア選手がここぞという場面で見せるステップを思わせる挙動であった。
亜藤選手はぎゅっとガードを固めつつ、自らも前後にステップを踏み始めた。
灰原選手の好きにさせるべきではないと判じたのだろう。それぐらい、灰原選手のステップは躍動感に満ちていた。
灰原選手は左右に揺さぶりをかけながら、じわじわと亜藤選手に接近していく。
亜藤選手は上下に頭を振りながら、細かくタックルのフェイントを入れていた。
試合時間は、すでに一分を過ぎている。荒っぽいインファイトを得意にする両名が、それだけの時間を間合いの測り合いに費やしているのだ。
黙々とウォームアップに励みながら、瓜子は両名の気迫をひしひしと感じ取っていた。
初めてトップファイターと対峙する灰原選手と、連敗の末に格下の選手とぶつけられた亜藤選手――絶対に負けられないという両者の気迫が、モニター越しにもはっきりと伝えられていたのだった。
(これは……ファーストコンタクトで、勝負の流れが決まるかもしれない)
瓜子がそんな風に考えたとき、ついに灰原選手が相手の間合いに踏み込んだ。
ほとんどリーチに差がないため、相手の間合いは自分の間合いとなる。そこで先に手を出したのは、灰原選手であった。
前に出した左手が、真っ直ぐに亜藤選手の顔面を狙う。まずは堅実な、左ジャブである。
しかし、その頃にはすでに亜藤選手が頭を下げていた。
そして、灰原選手の懐に飛び込もうとしている。鋭い踏み込みからの、両足タックルだ。
その顔面に、灰原選手の右拳が叩きつけられていた。
灰原選手は、左ジャブと右アッパーのコンビネーションを繰り出していたのだ。
並の選手であれば、そこで倒れ伏していただろう。打たれ強い選手であれば何とか踏み止まって、後方に逃げたはずだ。
しかし亜藤選手は打たれ強い上に、歴戦のトップファイターであった。
ゆえに、亜藤選手は勢いを減じないまま、灰原選手の両足を捕らえようとした。
灰原選手の肉感的な足に、亜藤選手の指先がかけられる。
前側の左足はもちろん、奥側の右足にもしっかりと指先がかかっていた。
その指先を振り払うようにして、灰原選手の右膝が動く。
ただし、後ろに逃げるのではなく、前側への移動だ。
灰原選手は右足を抱えられるより早く、膝蹴りを繰り出したのだった。
右アッパーを耐えた亜藤選手の顔面に、今度は右膝が叩きつけられる。
しかしすでに距離が詰まっているため、威力は半減であっただろう。亜藤選手は、それでも倒れようとしなかった。
ただし、前進の動きはさすがに鈍っている。
灰原選手は両手で亜藤選手の肩を突っ張り、捕獲されかけていた左膝を後方に逃がした。
そして――その左膝を、再び前方に突き上げた。
突進の構えであった亜藤選手の顔面に、今度は左膝が叩きつけられる。
右アッパーに左右の膝蹴りという連打をくらって、ようやく亜藤選手の突進が止められた。
しかし、亜藤選手は倒れない。恐るべき頑丈さである。
亜藤選手は鼻血をこぼしながら、猛然と身を起こした。
その顔面に、灰原選手の右肘がぶつけられる。
灰原選手もまた、亜藤選手が倒れないことを想定して、まだ攻撃の動きを連動させていたのだ。
しかし灰原選手も、まだまだ肘打ちは稽古中の段階である。
よって、頑丈なる亜藤選手はその攻撃でも倒れない。
ただし、たび重なる頭部への痛撃で、次なる動きは取れずにいた。
その間に、灰原選手は一歩だけ後方にステップを踏む。
密着した状態から、近距離の位置に移動した格好だ。
パンチを打つには、もっとも効果的な位置取りである。
その位置から、灰原選手は右フックを繰り出した。
ほとんど棒立ちであった亜藤選手の顔面に、その拳がクリーンヒットする。
亜藤選手はぐらりとよろめいたが、まだ倒れない。
そして恐ろしいことに、すぐさま反撃の右フックを繰り出してきたのだった。
灰原選手は、バックステップでその攻撃を回避する。
そしてすぐさま間合いを詰めて、今度はショートレンジの左フックを叩きつけた。
この攻撃も、クリーンヒットである。
KOパワーを持つ灰原選手が、左右のフックをクリーンヒットさせたのだ。
しかし亜藤選手は、まだ倒れない。
そして、力強く左足を踏み出し、灰原選手の足もとに腕をのばした。
灰原選手は再び亜藤選手の両肩を突っ張り、今度はサイドへと回り込む。
そして、前屈の姿勢にある亜藤選手のこめかみに、右ストレートを打ち下ろした。
これもまた、クリーンヒットである。
しかし亜藤選手は、ゾンビのごとく灰原選手に向きなおった。
その顔面に、灰原選手が左フックを叩き込もうとする。
しかしそれは、右腕でガードされてしまった。亜藤選手には、まだそのような余力が残されていたのだ。
灰原選手は決死の形相で、右腕を振りかぶろうとする。
そのとき――フェンスの向こう側で、多賀崎選手が何か叫んだようだった。
「落ち着け!」とでも言ったのか。
あるいは、「打ち合うな!」といった言葉であろうか。
ともあれ、灰原選手は右腕を振りかぶったまま、バックステップした。
そして、これまで灰原選手の頭部が存在した空間を、亜藤選手の左拳が走り抜けていった。
これだけの猛攻を受けた人間とは思えない、鋭い左のショートフックである。
灰原選手が右拳を繰り出していたならば、それよりも早く顔面を叩かれていたことだろう。
九死に一生を得た灰原選手は、左拳を振り抜いた亜藤選手の顔面に、あらためて右拳を繰り出した。
真っ直ぐの、右ストレートだ。
左頬をまともに打ち抜かれた亜藤選手は、ぐらりと倒れかかり――それでも何とか、踏み止まった。
灰原選手は一瞬だけ驚嘆の表情を垣間見せてから、さらに右腕を振りかぶろうとする。
その右拳は、レフェリーの背中を叩くことになった。
横合いから飛び込んだレフェリーが、自らの身で亜藤選手を守ったのだ。
しかし亜藤選手はレフェリーの腕をすりぬけて、けっきょくマットに倒れ伏すことになった。
その身を仰向けに返し、首もとを支えつつ、レフェリーは左腕だけを頭上に振る。
試合終了のブザーが鳴らされて、大歓声が渦を巻いた。
『一ラウンド、三分十四秒! 右ストレートにより、バニーQ選手のKO勝利です!』
灰原選手は自分の両膝に手をついて、ぜいぜいと息をつきながら、そのアナウンスを聞いていた。
さすがにフェンスによじのぼる余力もなかったのだろう。ラスト一分ていどの攻防では、肉体も精神も限界まで酷使していたはずであった。
「終わってみれば、ノーダメージでKO勝ちか。こいつはいよいよ、タイトル挑戦が現実味を帯びてきやがったなー」
サキに皮肉っぽい視線を向けられて、瓜子は「押忍」と笑顔を返してみせた。
「ウォームアップの最中なのに、これっぽっちも目が離せなかったっすよ。灰原選手と対戦する日が、楽しみでなりません」
「はん。ウキウキしやがって。ドM根性も、ここに極まれりだな」
サキに何と言われようとも、それが瓜子の本音であった。
そしてモニター上では、多賀崎選手に肩車をされた灰原選手が両腕を突き上げながら、勝利の雄叫びをほとばしらせていたのだった。