06 ロシアの新鋭と暴牛番長
サキの陣営が控え室に戻ってきた際は、再びの大騒ぎであった。
まあ、騒いでいるのはおもにプレスマン道場の関係者である。小笠原選手とオルガ選手の陣営は節度というものをわきまえていたし、それ以外には交流の深い陣営も存在しないのだった。
「とりあえず、こっちもこれで折り返しだな。サキも邑崎もノーダメージだから、心置きなく残りの試合に集中させていただこう。サイトー、そっちは頼んだぞ」
「おうよ。このはねっ返りどもは、まかせておきな」
サキと愛音の担当であったサイトーは、セコンドの役目もここまでであった。瓜子の担当は立松とジョンとメイ、ユーリの担当は柳原とメイという布陣であるのだ。ユーリはあくまでエキシビション・マッチであったため、サブトレーナーの柳原が面倒を見る手はずであったのだった。
第五試合まで終了したため、会場内は十五分間のインターバルである。その時間からユーリはゆっくりウォームアップを始めて、インターバルが明けると同時に入場口に向かうことになった。
「頑張ってくださいね、ユーリさん。勝ち負けなしのエキシビションですけど、くれぐれも怪我だけはないように気をつけてください」
「はいはぁい。たとえエキシビションでも、相手がまりりん選手であればワクワクの極致なのです」
グラップリング・マッチであるために、ユーリはバンデージもグローブも装着していない。その白い拳を瓜子のグローブにタッチさせてから、ユーリは控え室を出ていった。
モニターでは、マキ・フレッシャー選手が入場を始めている。沙羅選手と犬飼京菜と大和源五郎を引き連れているためか、その姿はこれまでよりもいっそうの迫力をともなっているようであった。
いっぽうオルガ選手は、父親たるキリル氏と通訳の若い選手を連れているだけの布陣だ。この若者は、オルガ選手たちが普段お世話になっている深見塾の門下生であった。
「さてさて。あのプロレスラーさんは、ドッグ・ジムでどんなトレーニングを積んできたんだろうね」
軽めのウォームアップを始めながら、小笠原選手は笑いを含んだ声でそんな風に言っていた。
小笠原選手にとっては、かつて自分が打ち負かしたマキ・フレッシャー選手と、これから勝負しようとしているオルガ選手の対戦なのである。オルガ選手の実力を測るためにも、これは見逃せない一戦であるはずであった。
マキ・フレッシャー選手は身長百六十二センチ、体重七十キロ。金色の髪で力士のように厳つい顔立ちをした、現役の女子プロレスラーである。
いっぽうオルガ選手は身長百七十四センチ、体重六十六キロ。地元のロシアで実績を積んだ、まぎれもないトップファイターだ。
普通に考えれば、マキ・フレッシャー選手に勝ち目はないように思える。彼女はこれまで、プロレスで培ったフィジカルと技術だけでMMAの試合に臨んでいたのである。昨年六月に行われた『NEXT・ROCK FESTIVAL』の試合においても、小笠原選手に手も足も出なかったのだ。
しかし彼女は三月の試合で高橋選手を下していたし、ここ最近はドッグ・ジムで稽古を積んでいたという。普通はそんな短期間の稽古で実力が上がるわけもなかったが、それがドッグ・ジムとなるとなかなか予想の難しい部分があった。
(まあ、外部の選手にジークンドーや古式ムエタイの技術を教えるとは思えないし、マキ選手自身もそんなことは望んでないように思うけど……とにかく、地力だけで高橋選手に勝てるようなお人なんだから、なかなかおっかない存在だよな)
だからきっと、小笠原選手もこのように期待に満ちた眼差しでモニターの様子をうかがっているのだろう。選手層の薄い階級で戦う小笠原選手は、自分のライバルたりえる存在が登場することを熱望しているのだった。
ケージの中央で向かい合ったオルガ選手とマキ・フレッシャー選手は、実に対照的なたたずまいだ。長身で均整の取れた体格をしたオルガ選手は氷のように冷たい面差しであり、どっしりと固太りした体型のマキ・フレッシャー選手は猛々しい笑みをたたえている。現在の実力差は不明なれども、とにかく印象的な風貌をした両名であるため、客席には期待と熱気に満ちみちた歓声が吹き荒れていた。
そんな中、試合は粛々と開始される。
マキ・フレッシャー選手はこれまでと同じように、ずかずかと無造作に前進した。
ただ、これまでよりもしっかりとガードを固めているように感じられる。そしてマキ・フレッシャー選手は、相手の間合いに踏み込む寸前でぴたりと動きを止めた。
オルガ選手は灰色の瞳で相手の姿を見据えつつ、誘うように少しだけ後ずさる。
しかしマキ・フレッシャー選手は同じ距離を前進するだけで、自分から手を出そうとはしなかった。
オルガ選手は前後にステップを踏み始め、牽制の左ジャブを放つ。
それを前腕でガードしつつ、マキ・フレッシャー選手も相手に合わせてステップを踏んだ。
この時点で、もうこれまでのマキ・フレッシャー選手でないことがわかる。彼女は誰が相手でも、とにかく前進して距離を潰すのを信条としていたのだ。
だが、オルガ選手も慌てた様子はない。正攻法の戦いであれば、オルガ選手のフィールドであるのだった。
(だから、マキ選手はラフファイトに持ち込んだほうがペースを握れそうだけど……高橋選手は、それでもあっさり跳ね返されてたからな)
高橋選手もマキ・フレッシャー選手も、ウェイトにおいてはオルガ選手にまさっている。しかしオルガ選手はロシア人らしく頑強な骨格をしているため、数キロていどの体重差など帳消しにできるほどのフィジカルを備え持っているのだ。
(ユーリさんはウェイトが軽い分、小回りとスピードで対抗することができたけど、マキ選手はどう対抗するつもりなんだろう)
瓜子がそのように思案したとき、オルガ選手がステップの合間に左ローを放った。左ジャブと同じく、相手を牽制するための軽い攻撃だ。
しかし――それと同時に、マキ・フレッシャー選手が大きく踏み込んだ。
丸い身体が、正面からどすんとオルガ選手に衝突する。そしてマキ・フレッシャーは選手そのまま突進して、オルガ選手をフェンスにまで押し込んだ。
さすがのオルガ選手も虚を突かれて、踏ん張ることができなかったのだろう。なおかつ、十二センチもの身長差があったため、マキ・フレッシャー選手のほうが重心が低いのだ。むしろ、倒れずにフェンスまで辿り着けただけ、オルガ選手は立派なものであった。
しかし、マキ・フレッシャー選手の攻勢はそこで終わらなかった。
オルガ選手の背中がフェンスにぶつかるなり、マキ・フレッシャー選手がずんぐりとした身体をおもいきりのけぞらせたのだ。
その肉厚な両腕は、フェンスにぶつかる前からオルガ選手の腰をクラッチしている。
ここでも重心の低さが活きたのだろう。あれだけ腰の重いオルガ選手が呆気なく宙に浮かされて、そのまま頭からマットに叩きつけられてしまった。
マリア選手を彷彿とさせる、豪快なフロントスープレックスである。
それが炸裂した瞬間、小笠原選手がひゅうっと口笛を吹き鳴らした。
「そういえば、アイツの得意技は殺人スープレックスだって書いてあったんだよね。ま、MMAの試合では披露されてないから、アタシも見るのは初めてなんだけどさ」
「あ、あんなアンコ型の体形なのに、ものすごいスープレックスでしたね」
「うん。プロレスラーにとって、スープレックスってのは基本なんじゃないの? あたしは門外漢だから、よくわかんないけど」
それは、瓜子も同様である。しかしとにかく、マキ・フレッシャー選手の奇襲が大成功を収めたことに間違いはなかった。
オルガ選手もとっさに腕で頭をかばったらしく、意識は失われていない。しかし体勢は、マキ・フレッシャー選手のサイドポジションだ。ロシアの強豪からこのポジションを奪取できただけで、賞賛に値するはずであった。
なおかつ、殺人スープレックスの功績はそれに留まらなかった。
マキ・フレッシャー選手の巨体を跳ねのけようともがくオルガ選手の頭から、マットにぽたぽたと赤いものが滴り始めたのだ。スープレックスの衝撃で、頭のどこかが裂けてしまったようであった。
マキ・フレッシャー選手はオルガ選手の身にのしかかったまま、まずはポジションキープに徹している。そしてフェンスの向こう側からは、沙羅選手や大和源五郎が助言を送っているようであった。
「アイツはいかにも重そうだけど、それでもオルガが動きを封じられるとはね。こいつは想像以上の大健闘だよ」
「ああ。抑え込みだって、レスリングの基本だからな。もともとレスラーだったやつが大和さんに手ほどきされたんなら、かなりのレベルに達してるだろうさ」
立松もまた、血の気が騒いでいるようであった。
が――試合はそこで、急展開を迎えた。
オルガ選手がおもいきり身をよじって、マキ・フレッシャー選手の右足を両足でからめ取る。サイドポジションが、ひと息でハーフガードに戻された。
そうしてマキ・フレッシャー選手がその足を抜き取ろうとわずかに上体を上げた瞬間、オルガ選手が再び身をよじり、相手の身体を突き放して、さらに上下を逆転させてみせたのである。
それは恐ろしいほどの力感に満ちた、スイープの技術であった。
さらにオルガ選手は上になるなり相手の足をまたぎ越し、すぐさまマウントポジションを奪取する。
そして相手の腰にまたがったならば、怒涛の勢いでパウンドを振るい始めた。
その勢いで、オルガ選手の頭から噴き出た血が宙を舞う。
しかしまた、血に濡れたオルガ選手の顔は、仮面のように冷徹そのものである。ただし、灰色の瞳だけが炎のように燃えさかっていた。
マキ・フレッシャー選手は頭を抱え込んでいたが、オルガ選手はそのガードの上から両方の拳を叩き込んでいく。日本人の男子選手よりも大きな拳がマキ・フレッシャー選手の腕を打ち、時にはその隙間から顔面を叩いた。
マキ・フレッシャー選手はブリッジで相手をはねのけようとしたが、オルガ選手はびくともしない。
そうしてマキ・フレッシャー選手の顔面からも血が飛び散ったところで、レフェリーが背後からオルガ選手を羽交い絞めにした。
オルガ選手はぴたりと動きを止め、レフェリーを抱きつかせたまま立ち上がる。レフェリーは額の汗をぬぐってから、両腕を交差させて試合の終了を宣告した。
一ラウンド二分四秒、パウンドによりオルガ選手のTKO勝利である。
その短い試合で、両者は顔面を血に染めてしまっている。マキ・フレッシャー選手は打ち上げられた鯨のように横たわったままであったが、セコンド陣が駆けつけるとその手からタオルを奪い取って、自分で顔の血をぬぐっていた。
「まあ、終わってみればオルガさんの貫禄勝ちだったが……しかしあのレスラーさんも、しっかり爪痕を残せたようだな」
「ええ。アタシもリベンジ・マッチが楽しみですよ」
小笠原選手は、わずかに汗ばんだ顔で不敵に微笑んだ。
そんな中、モニター上では大和源五郎に支えられたマキ・フレッシャー選手が、のそりと身を起こす。まだ右の目尻から血が垂れていたが、その厳つい顔には勇猛な笑みがたたえられていた。
いっぽうオルガ選手は勝利者インタビューを後回しにして、リングドクターに頭部の傷をチェックされている。その間も、真っ赤な血が顔から咽喉もとに滴っていた。勝利したのはオルガ選手であるが、傷が深いのもオルガ選手のほうであった。
マキ・フレッシャー選手はオルガ選手のほうにぶんぶんと腕を振ってから、ケージの下に下りていく。客席からは、その分厚い背中に盛大な歓声が届けられていた。実質、彼女は一発のスープレックスを成功させたに過ぎないが、それだけで絶大なるインパクトであったのだろう。
リングドクターに傷口を診察されながら、オルガ選手は横目でマキ・フレッシャー選手の背中を見送っている。その灰色の瞳には、試合中と変わらぬ闘志の炎が燃やされているように感じられた。
「香田に続いて、面白いやつがのしあがってきたね。これだったら……たとえ桃園が抜けることになっても、しばらくは楽しめそうかな」
小笠原選手が、ぽつりとそんな風につぶやいた。
小笠原選手は、普段通りの穏やかな笑顔に戻っていたが――そこには少しだけ、寂しそうな表情が垣間見えているように思えてならなかった。