05 サムライ・キック
瓜子たちが見守る控え室のモニターに、サキの対戦相手となる選手の姿が映し出された。
こちらはプロキャリア十戦ていどの、中堅選手である。キックの試合を何戦か経験したことのある、生粋のストライカーという話であった。
ただしこれまでの戦績を確認したところ、パウンドで二回ほどTKO勝利を勝ち取っている。サブミッションの腕前までは不明であったものの、相手からテイクダウンを奪ってポジションキープする能力に不足はない、ということだ。外見も、身長が低い代わりにずんぐりとした体形で、いかにも粘り強そうな印象であった。
(でも、今のサキさんって怪我のことを除けば、穴らしい穴もないもんな。そもそもサキさんに、不得意な相手とか存在するのかなぁ)
サキは凄腕のストライカーであるため、同じストライカーが相手であれば後れを取ったことがない。イリア選手は、まあ唯一の例外だ。
そして相手がレスラーやグラップラーであるならば、立ち技の技術に大きな差が生じるため、おおよそは組み技や寝技に持ち込まれることなく勝利を収めることができる。
では、いずれの技術にも長けたオールラウンダーが相手であればどうかというと――サキはあれだけしぶといハワイのラニ・アカカ選手をもKOで下しているのだから、生半可なオールラウンダーでは相手にならないはずであった。
さらに言うならば、サキは緻密かつ優雅なファイトスタイルであるくせに、本来の気性はきわめて荒々しい。よって、山垣選手のような相手にラフファイトを仕掛けられても、それ以上の荒々しさで跳ね返すことが可能であるのだ。
サキは数年前に五十二キロ以下級の王者になって以来、たった一度しか敗北していない。しかしその相手は十キロばかりも体重でまさるベリーニャ選手であったのだから、なんの参考にもならないだろう。さらに言うなら、その前の試合では二十キロ以上も重い兵藤アケミをKOで下してみせたのだ。
そして、戴冠前に敗北した直近の相手は、イリア選手である。これまたトリッキーの権化であるようなイリア選手であるのだから、誰にも真似はできないはずであた。
そんなサキに、この階級でいったい誰が勝てるというのか。
瓜子がわずかなりとも可能性を感じるのは、暴風雨のごとき勢いを持つ犬飼京菜と、苛烈な打撃技と粘質的な寝技をあわせ持つ雅選手ぐらいのものであった。
(それでも、油断だけはできないからな)
瓜子たちが注視するモニターの中で、選手紹介のアナウンスが為された。
ケージに立ったサキは、今日も憎たらしいぐらいの自然体だ。会場にわきかえる声援に手を上げて応じることもなく、サキはかったるそうに突っ立っていた。
相手選手との身長差は、ちょうど十センチ――つまり相手は、瓜子と同じ背丈であった。瓜子よりも肉厚に見える体格をした相手選手は、下からすくいあげるようにサキのすました顔をにらみつけていた。
レフェリーからグローブタッチをうながされても、相手はそれを無視して後方に下がってしまう。サキを相手に気後れしている様子は皆無であるようであった。
(誰にとっても、これは王座挑戦のかかった大一番なんだからな。気合が入って当たり前だ。……頑張ってください、サキさん)
瓜子が祈る中、試合開始のブザーが鳴らされた。
サキは右側の側面を相手に向けた半身の構えで、右拳はだらりと垂らし、左拳を腰のあたりに溜めた、カンフーを思わせる独特のスタイルだ。
それに対する相手選手は頭部のガードをがっちりと固めて、極端な前傾の姿勢を取っていた。第一試合の香田選手を思わせる、堅い防御のスタイルである。
「頭だけじゃなく、肘でレバーも守ってるね。さっきの香田と一緒で、とにかく接近戦に持ち込んでやろうって考えなのかな」
小笠原選手の言葉に応じるように、相手選手はぐいぐいとサキに接近してきた。一発や二発の打撃をくらっても、とにかく組みついてやろうという気迫に満ちている。彼女もまたストライカーであるはずだが、サキを相手に打撃戦をするつもりはないようだった。
(まあ、組み技や寝技に自信があるなら、気持ちはわからなくもないけど……サキさんを相手に愚直な前進っていうのは、どうなんだろう)
たとえこれだけガードを固めていても、サキであればその間隙を突けるはずだ。小さなグローブの隙間から鼻っ柱を叩くか、がらあきのみぞおちを前蹴りやサイドキックで狙うか、あるいはフックやハイキックで側頭部を狙うか――瓜子でも、それぐらいの想像を広げることができた。
しかし、瓜子の想像は当たらなかった。
サキはふわりと相手の横合いに回り込み、前足による右のアウトローを繰り出したのだ。
前傾の姿勢であるために、相手の前足にはおもいきり体重がかけられている。そこを狙ってのアウトローであった。
相手は一瞬つんのめってから、サキのほうに向きなおる。しかしその頃には、サキも間合いの外に逃げていた。
仕切りなおしとばかりに、相手選手はまた前進する。
しかしサキは体重を感じさせない軽妙なステップでサイドに回り込み、再びの右アウトローを放った。
今度は相手も強引に左足を上げて、その衝撃を半減させる。どれだけ不安定な姿勢を取っても、サキのほうから組みついてくることはないと考えているのだろう。サキもまた、攻撃を当てた後はすみやかに距離を取っていた。
「でも、サキはローだって強烈だからね。もう相手は足もとに意識を持っていかれてるんじゃないのかな」
小笠原選手は、そんな風に語っていた。
小柴選手もさきほどの試合では、下段と中段で相手の注意をそらした上で、見事な上段蹴りを炸裂させることがかなったのだ。もともとハイキックを得意とするサキであれば、それよりも華麗なKO劇を期待できるはずであった。
しかし相手選手も、まだまだガードをゆるめようとしない。これだけ身長差があれば、サキのハイキックとそこから展開する『つばめ返し』は何より怖いことだろう。相手選手はいっそう身体を小さく固めながら、さらなる勢いで前進しようとした。
そこでサキが繰り出したのは、三度目となるアウトローだ。
相手選手はぴくりと左腕を動かしかけたが、やはりガードは固めたまま、左足を上げることでローをカットした。
今回と前回はしっかりカットできているのに、しかし左膝のすぐ上あたりはすでに青紫色に変色している。それぐらい、サキのローは強烈であるのだ。
相手はほとんど走るような勢いで前進した。
意識を集中していた瓜子は、そこにこれまでと異なる気迫を察知する。次にローを打たれたら、こちらもカウンターでパンチを叩き込む――そんな意気込みが、手に取るように感じられた。
するとサキは、アウトサイドではなくインサイドに回り込んだ。
そうして射出したのは、奥足からの左インローである。
相手選手は完全に虚を突かれた様子でその攻撃をまともにくらい、カウンターを返すこともかなわなかった。
そして、自らの勢いに負けたかのように、前のめりに倒れ込んでしまったのだった。
サキは何事もなかったかのように、倒れた相手選手から距離を取っている。
レフェリーが無慈悲に『スタンド!』と呼びかけると、相手選手はいくぶん身体を震わせながら起きあがった。
左足の外側ばかりでなく、内側までもが青紫色になってしまっている。たった一発のインローで、それだけのダメージをくらってしまったのだ。
何とか立ち上がった相手選手は決死の形相で、ぎゅっとガードを固めた。
半身の姿勢で待ちかまえていたサキは、前側に垂らした右拳をゆらゆらと左右に振っている。奥側で腰に溜められた左拳も、いかにも獲物を狙っている風情であった。
(珍しいな。サキさんは、パンチで勝負を決めるつもりなのかな?)
もちろんサキは手技も巧みであるが、やはり最大の持ち味は足技である。ハイキックからかかと落としに繋げる『つばめ返し』に、レバーを狙う三ヶ月蹴り、みぞおちか下顎を狙う前蹴り――それらのすべてに、KOパワーが秘められているのだった。
しかし、今のサキからは上半身に強い気迫が感じられる。
右拳によるフリッカージャブか、左拳によるストレートか、あるいはフックかアッパーか――傍で見ている瓜子でさえ、ぞくぞくと背中が粟立つほどであった。サキの正面に立った相手選手などは、その何倍もの圧力を感じていることだろう。
しかし相手選手は、賞賛に値する覚悟でもって前進した。
サキのパンチが当たる距離であれば、自分にも組みつくチャンスが生まれる。そのように信じての、愚直な突進であるようであった。
果たして――サキはわずかにアウトサイドに踏み込みつつ、ふわりと右拳を持ち上げた。
相手はいっそうガードを固めながら、サキの懐に飛び込もうとする。
しかし、サキの右拳より早く、虚空を駆けるものがあった。
サキの右足である。
サキのしなやかな右足が、これまでと異なる軌道を描いて、相手の左足に叩きつけられた。
ジョン直伝の、上から打ちおろすアウトローである。
斜め上から相手の左足を狙うこの技は、足先を上げても衝撃を逃がすことが難しい。
なおかつ、右拳に気を取られた相手は、足先を上げることすらできていなかった。
結果、サキの右足は薪を割る鉈のように、相手の左足にめりこんだ。
完全に無防備な状態でその攻撃をくらった相手選手は、再びマットに突っ伏すことになった。
サキは先刻と同じ挙動で、悠然とバックステップを踏む。
相手選手は――傷ついた左足を抱え込んで、悶絶していた。
『スタンド!』という声をかけることなく、レフェリーは両腕を頭上で交差させる。
誰の目にも、彼女が試合続行不可能であることは明白であったのだった。
『一ラウンド、二分二十三秒! 右ローキックにより、サキ選手の勝利です!』
大歓声の中、サキの右腕がレフェリーによって高く掲げられる。
そしてこちらの控え室では、小笠原選手が肩をすくめていた。
「どんな決め技を狙うかと思ったら、裏の裏をかいてロー尽くしか。つくづく人を食ったやつだねぇ」
「押忍。でも、四発のローで試合を終わらせるって、すごくないっすか?」
瓜子がそのように言いたてると、こちらを向いた小笠原選手が苦笑を浮かべた。
「猪狩って、ほんとにサキのファンなんだね。普段はそんな気配を感じないから、ちょいと憧れてるていどなのかなって思ってたよ」
「な、なんすか? 自分はそんな、取り乱してないつもりですけど」
「でも、アンタは内心がおもいっきり顔に出るタイプだからねぇ」
小笠原選手のそんな言葉に、瓜子は頬に血をのぼらせることになってしまった。
ともあれ――アトム級における査定試合は、これにて終了したのだ。サキは後輩たる愛音に後れることなく、暫定王者決定トーナメントに出場する資格を勝ち取ることがかなったわけであった。