02 開会式
そうしてその日も滞りなく段取りが進められて、気づけば開会式の時間である。
入場口の裏手のスペースに整列した瓜子は、本日も最後列から試合の順番を再確認することになった。
プレマッチにはまたアマチュア選手の試合がふたつ組まれており、それに続く本選の第一試合は、兵藤アケミの同門である香田真央選手と中堅選手による無差別級の一戦だ。これは香田選手にとってプロ昇格をかけた査定試合であったが、無差別級は層が厚いため、いきなり中堅選手との対戦になってしまったのだという話であった。
そしてその後に続くのは、アトム級の四連戦である。
これは、パラス=アテナが企画した、本年下半期の大きなイベントの幕開けとなる。その内容は――アトム級暫定王者決定戦というものであった。
アトム級の現王者は、言うまでもなく雅選手である。
しかし雅選手は昨年十一月における犬飼京菜との対戦で肋骨を折られてしまい、それから現在まで負傷欠場している身であった。それでパラス=アテナからの出場オファーものきなみ断ることになり、ついに暫定王者が決められることになったのだ。
アトム級暫定王者は、来月から開催されるトーナメント戦によって決せられる。本日行われるのは、そのトーナメントの出場権利をかけた予選試合に他ならなかった。犬飼京菜や前園選手などトップファイターである四名はすでに出場が確約されているため、本日の試合の勝者が残りの四枠を埋めることになるのだ。
その予選試合である四試合には、すべて瓜子にとって馴染みの深い選手が絡められていた。すなわち、同門であるサキと愛音、武魂会の小柴選手、そして赤星道場の大江山すみれである。かつてのストロー級王者であるサキはもちろん、プロに昇格したばかりの愛音と大江山すみれ、階級を落としたばかりの小柴選手にも、それだけの大きなチャンスが与えられたわけであった。
(まあ、アトム級はそれなりに人数が多いけど、トップファイターを除けば後は横並びみたいだもんな。そこで一勝でもあげられれば、出場資格は十分ってことか)
本日、サキと小柴選手はそれぞれ中堅選手、愛音と大江山すみれはそれぞれ若手の選手が当てられている。ウェイトの軽いアトム級においてはKOで決着がつくことも稀であるため、KO勝利でプロ昇格を勝ち取った愛音と大江山すみれにはそれなり以上の期待がかけられているのだろうと思われた。
興行の前半戦はそこまでで、後半戦はすべてトップファイターがらみの試合となる。
第六試合は、オルガ・イグナーチェヴァ vs マキ・フレッシャー。
第七試合は、ユーリ・ピーチ=ストーム vs まじかる☆まりりん。
第八試合は、亜藤要 vs バニーQ。
第九試合は、小笠原朱鷺子 vs 高橋道子。
第十試合は、猪狩瓜子 vs オリビア・トンプソン。
それが、本日のマッチメイクであった。
ユーリの試合がここまで前半に設定されたのは、実にひさびさのことであろう。ユーリは実力がともなっていない時代から、しょっちゅうセミファイナルを飾っていたのだ。しかしまあ、今回もエキシビションのグラップリング・マッチであることを鑑みれば、可能な限りは後半に設定されたのだろうと思われた。
それに続くのは、ついに灰原選手とトップファイターによる一戦だ。
メイとイリア選手を相手に連敗を喫している亜藤選手であるが、それは相手が悪かったというしかない。また、トップファイターを相手に連敗を喫しているからこそ、若手の中から這いのぼってきた灰原選手の踏み台になってたまるかという思いであることに疑いはなかった。
そして、小笠原選手と高橋選手の一戦というのは――はっきり言って、小笠原選手の調整試合という側面が強いのだろう。高橋選手もかつては無差別級の四番手であったが、小笠原選手を相手に勝利したことはなかったし、ここ最近はマキ・フレッシャー選手とオルガ選手に連敗を喫している。なおかつ、小笠原選手がかつてマキ・フレッシャー選手に勝利していることを考えれば、両者の実力差もいっそう明白であった。
しかしまた、小笠原選手は前回の復帰戦ですでに大村選手に勝利している。それも、頑丈さで知られる大村選手に一ラウンドKO勝利である。そんな小笠原選手の相手が務まるのは、もはや高橋選手かオルガ選手しかいないのだろうと思われた。よってこれは、最大の難敵であるオルガ選手と対戦する前に、高橋選手との試合で調子を整えていただこうという、運営陣のそんな思惑が透けて見えていた。
(そもそも高橋選手は、いきなりオルガ選手にぶつけられてたもんな。その時点で、当て馬同然の扱いだったんだ)
なおかつ今回は、高橋選手に勝利したマキ・フレッシャー選手がオルガ選手にぶつけられている。それはつまり、マキ・フレッシャー選手がトップファイターであると見なされた証拠であり――高橋選手が試金石にされている証拠でもあるはずであった。
言ってみれば、それは鞠山選手と同じような扱いであるのだろう。トップファイターには勝利できないが、中堅以下の選手には負けることがないということで、鞠山選手は長らく「中堅の壁」と称されていたのだ。しかし、無差別級は選手層が薄く、中堅以下の選手というのが数えるていどしか存在しないため、高橋選手はただひたすらトップファイターに踏みつけられるばかりになってしまっているわけであった。
(でも、鞠山選手はイリア選手を倒したことで、ついにトップファイターに仲間入りした。しんどい話だけど、現状を打破するには試合で勝つしかないんだ)
瓜子はこれまで、高橋選手と交流を深める機会がなかった。しかし、ただ一度だけ――《レッド・キング》との対抗戦で、瓜子がマリア選手に勝利した後、高橋選手の真情に触れる機会があったのだ。
その日の高橋選手はマキ・フレッシャー選手に完敗し、ひどく気落ちしていた。しかし、控え室に戻った瓜子の手を取って、瓜子を見習ってさらなる稽古を積もうと思う、と――気迫に満ちた顔つきで、そのように言っていたのだった。
あのときの高橋選手の力強い眼差しと、熱い手の感触は、今でも瓜子の心にくっきりと残されている。
たとえどれだけの苦境に立たされても、高橋選手は勝利を目指すことをあきらめたりはしない。瓜子は、そのように信じることができていた。
(もちろんあたしは、小笠原選手を応援する立場だけど……でも、高橋選手の負けを望んでるわけじゃない。《アトミック・ガールズ》に出場する選手は、みんな同じ目的のために頑張る仲間みたいなもんなんだ)
瓜子がそのように思案していると、目の前に立っていた小笠原選手がひょいっと振り返ってきた。
「なんか、視線を感じるなぁ。アタシ、猪狩を怒らせるようなことしたっけ?」
「え? 何も怒ったりしてないっすよ。自分はただ……気合を入れていただけです」
「あっそう。その気合は、アタシの背中じゃなくオリビアとの試合にぶつけてね」
そう言って、小笠原選手は屈託なく微笑んだ。瓜子が思わず微笑を誘発されるような、魅力的な笑顔である。
その間に、出場選手は次々に花道へと姿を消している。ユーリもまた、瓜子のほうにひらひらと手を振ってから扉の向こうに消えていった。
亜藤選手と小笠原選手がそれに続き、最後は瓜子の番である。
瓜子が花道に足を踏み出すと、熱気に満ちみちた歓声と拍手が降り注いできた。
どのような会場においても、こういった熱気に勝り劣りはないように感じられる。ただし、瓜子がこれほどの歓声を浴びるようになったのは、この一年ていどの話であるはずであった。
(一年前の七月大会は……そうか、《カノン A.G》の騒ぎになる直前だから、四大タイトルマッチだ。メイさんと初めての試合をしてから、もう一年も経つんだな)
瓜子はその試合で、ストロー級の――いや、当時はライト級であった五十二キロ以下級の、暫定王者になることができた。瓜子は一歩ずつ着実に実績を積んできたつもりであるが、やはり何らかの契機となったのはその試合なのだろうと思われた。
瓜子がそれまでの一年間で相手取ってきたのは、小柴選手、サキ、灰原選手、鞠山選手、イリア選手、ラニ・アカカ選手の六名だ。
デビュー戦では小柴選手のほうが気負ってしまっていたし、二戦目のサキには手も足も出なかった。その後、ユーリやサキとの不和を何とか解消することのできた瓜子は、それまで以上の熱意で稽古に取り組み――それで昨年から、連勝を重ねることがかなったのだった。
そして瓜子は、蹴っても殴ってもビクともしないラニ・アカカ選手を相手取ることで、集中力の限界突破とも言うべき不思議な感覚の手がかりをつかみ――それに続くメイとの試合で、ついにその本領を発揮することができたのだ。
瓜子にとっても、契機となったのはあの試合であった。尋常でない力量を持つメイと戦うことで、瓜子もまた自分の限界を超えることができたのだ。試合の映像を見返すまでもなく、瓜子はその試合を境に大きくレベルアップしたはずであった。
それから一年の時を経て、いま瓜子はこの花道を歩いている。
ユーリやサキを押しのけて、自分などがメインイベンターとして花道を歩いているのだ。
瓜子がそれで気後れせずに済んでいるのは、これまで試合をしてきた相手選手たちのおかげなのだろうと思われた。
瓜子が本腰を入れる前に自爆してしまった一色選手やラウラ選手はさておくとして――メイやイリア選手、鞠山選手やマリア選手の存在が、瓜子を支えてくれている。それらの選手がまぎれもなく実力者であったからこそ、それに打ち勝てた瓜子はかけがえのない自信と覚悟を持つことがかなったのだった。
灰原選手や小柴選手は、その中に含まれない。瓜子と対戦したときの彼女たちは、まだ瓜子を脅かすほどの実力ではなく――そしてそれから、飛躍的に実力をつけることになったのだ。階級を変更してしまった小柴選手はさておくとして、灰原選手などは次に対戦したときこそ、メイやイリア選手に匹敵する存在感を瓜子の胸に刻みつけてくれるはずであった。
『それでは開会の挨拶を、猪狩選手にお願いいたします!』
瓜子がケージの外側に立ち並ぶなり、リングアナウンサーがそのように告げてきた。
瓜子はメインイベンターで、なおかつ赤コーナーの陣営であったため、開会の挨拶を担うことになったのだ。同じ条件であった前々回の興行では兵藤アケミが引退する身として挨拶をしていたので、瓜子がこの役目を負うのは初めてのことであった。
瓜子がスタッフからハンドマイクを受け取ると、歓声がわずかばかり静められる。
瓜子はひとつ深呼吸してから、今の思いを言葉にしてみせた。
『本日はご来場、ありがとうございます。みなさんのおかげで、今回も《アトミック・ガールズ》で試合をすることができます。自分たちはこれからもみなさんと楽しい時間を分かち合えるように、せいいっぱい頑張りますので……どうぞよろしくお願いします』
揺り戻しのように吹き荒れる大歓声の中、瓜子はマイクを下ろして四方に礼をした。
ユーリも小笠原選手も、笑顔で拍手をしてくれている。その間に立った亜藤選手は皮肉っぽい顔で肩をすくめていたが、瓜子はべつだん気にならなかった。たとえ性格が合わなかったり、対立するような立場であったとしても――かつての《カノン A.G》の関係者のような存在でない限り、誰もが同じ志のために生きる同志のようなものであったのだった。