03 百花繚乱、再び(上)
『トライ・アングル』のレコーディングから三日後、七月の第一金曜日である。
《アトミック・ガールズ》七月大会が九日後に迫ったその日、瓜子はまたもや撮影地獄を迎えることになった。
六月の頭にはライブDVDの特典グッズのためにひと肌ぬいだところであるし、来週からはセカンドシングルの特典グッズやミュージック・ビデオのために何肌もぬぐ予定が立てられている。これほど立て続けに羞恥を抱えるのは稀なことであったのに、さらに追い打ちをかけるべくこのような案件が舞い込んでしまったのだ。
それは、格闘技マガジンからの要請であった。
この夏にまたMMA女子選手の特集号を発刊するので、人気投票の上位十名に撮影の依頼が届けられたわけであった。
「自分は前世で何か悪いことでもしたんすかねぇ……今度、神社でお祓いでもしてこようかと思います」
「ふみゅ。もう水着の撮影など二ケタは経験しているはずですのに、うり坊ちゃんの落ち込みっぷりは揺るぎないですにゃあ。うり坊ちゃんを骨髄に徹すほど溺愛しているユーリちゃんも、お胸が痛んでならないのです」
「……だったらどうして笑顔なんすか?」
「だってぇ。うり坊ちゃんのかわゆい水着姿にはわくわくが止まらないんだものぉ」
そんな風にのたまうユーリの髪をくいくいと引っ張りながら、瓜子は力なく撮影スタジオのビルに踏み入っていくことになった。
サキも人気投票で10位の座を獲得していたが、当然のように今回の依頼を断っている。昨年も、赤星弥生子と小笠原選手と雅選手の三名は、水着の撮影依頼をお断りしていたのだ。そういう選手らは、練習風景や和服姿のピンナップなどで代用されるのである。
しかし瓜子は、このたびも断ることができなかった。
昨年の瓜子は千駄ヶ谷に圧迫されて、泣く泣くこの依頼を引き受けることになったわけであるが――本年は、格闘技マガジンの編集長その人から拝み倒されることになったのである。
「猪狩選手の人気は、いまやユーリ選手に迫る勢いです! そして、ユーリ選手が『アクセル・ロード』に参戦するというのなら、今後は猪狩選手こそが日本の女子MMAを牽引する立場になるはずです! いや、現時点でも猪狩選手は、その役割を立派に果たしているのでしょう! どうか女子MMAの未来のために! 猪狩選手のお力をお借りしたく思います!」
要約すると、そのような感じである。
まあ実際は、三十分近くも懇々と諭されることになったわけであるが――折しも瓜子は、自分がストロー級の王者として《アトミック・ガールズ》の看板を守っていくのだと奮起しているさなかであった。そんな瓜子の心に、編集長の言葉は容赦なく突き刺さってしまったのである。
そして、とどめとなったのは、立松の言葉であった。
編集長が帰った後、瓜子がひとりで激しく思い悩んでいると、立松が優しさと厳しさの入り混じった面持ちで声をかけてきたのだ。
「なあ、猪狩。俺個人はな、お前さんを気の毒に思ってるんだよ。お前さんは桃園さんや邑崎みたいに好きこのんでアイドルみたいな活動をしてるわけじゃないんだろうから、自分の望まない形で期待をかけられるっていうのは、ものすごくしんどいことだろうと思う。でもな……お世辞ぬきで、お前さんは時代を築く選手のひとりだ。ただ試合に勝ってきたっていうだけじゃなく、お前さんにはスター選手に欠かせない華ってやつがあるんだよ。その見てくれや人柄やがむしゃらなファイトスタイルのすべてをひっくるめて、人を強烈にひきつけてるんだ。今のお前さんは、桃園さんと同じぐらいの影響力を持ってるんだろうと思うぜ」
「はあ……そうしたら、ユーリさんみたいに水着姿をさらさなくっちゃいけないわけっすかね……?」
「それは、個人の資質ってやつだな。たとえば来栖さんなんかは質実剛健な人間であることが求められてたが、あれは特殊な例なんだと思う。よきにつけ悪しきにつけ、女子選手には華やかさってもんが求められるからよ。桃園さんばかりじゃなく、ベリーニャ選手や弥生子ちゃんなんかも水着姿をさらしてたことは知ってるだろう? あれだって、野郎連中の助平心をかきたてるだけじゃなく、同じ女の憧れや共感なんかを生んでるはずなんだよ。桃園さんがベリーニャ選手に、邑崎が桃園さんに憧れてたのが、いい例だな」
「でも……自分にそんな影響力があるとは思えないんすけど……」
「それが、そうでもねえんだよ。いや、俺も寝耳に水だったんだが、世間ではお前さんに憧れて格闘技を始めた人間ってのがぽつぽつ出始めてるらしいんだよな」
「ええ!? そんな、まさか!」
「そいつを俺に教えてくれたのは、恥ずかしながら不肖のボンクラ娘なんだけどな。例のSNSってやつで、そういう評判らしいんだよ。まあ現段階では、ボクササイズを始めただとか、そういうささやかな話がほとんどみたいだが……中には本気でキックやMMAや柔術なんかのジムに通い始めたって話も出てきているらしい。ボンクラ娘いわく、桃園さんってのは何もかもが規格外すぎて自分に重ねることも難しいが、お前さんは身近な感じがするから憧れる人間が多いんじゃないかって話だな」
そんな話を聞かされて、当時の瓜子は絶句したものである。
「でな、そういう連中はお前さんの試合だけじゃなく、見てくれや水着姿なんかにもずいぶん魅力を感じてるみたいなんだよ。お前さんを真似して髪を切っただとか、お前さんと同じ水着を買っただとか、そんな話も山ほどあがってるらしい。だからって、お前さんに何を強要するつもりもないが……ただ、お前さんにはそれだけの影響力があるんだ。自分が業界を活性化させるぐらいの人間になりおおせたんだっていう自覚は、持っておいたほうがいいだろう。その上で、自分の納得のいくように活動してくれよ」
そうして瓜子は三日三晩思い悩み、格闘技マガジンからの依頼を引き受けるという決断を下したわけであった。
最終的には、すべて自分の判断である。よって、誰を責めることもできない。瓜子は自らの羞恥心と使命感をはかりにかけて、行動の指針を定めたのだった。
「だからこれは、誰にぶつけようもない愚痴なんすよ。ユーリさんは、広い心で受け止めてくれますよね?」
「もっちろぉん! 泣きたいときは、ユーリの胸で泣くがよいさ! うり坊ちゃんの覚悟とともに、ひしと抱きしめてあげませう!」
そんな不毛なる言葉を交わしながら撮影スタジオに踏み入っていくと、そこに待ち受けていたのは大御所カメラマンたるトシ先生であった。
「あら、騒がしいと思ったら、やっぱりアンタたちだったのね。他のみんなはとっくに着替えを始めてるから、アンタたちも急ぎなさぁい」
「押忍……本日もよろしくお願いいたします……」
「相変わらず、しみったれたお顔ねぇ。こっちだって多忙なスケジュールの隙間をぬってこの依頼を受けてあげたんだから、しっかり気合を入れなさいよぉ?」
そんな風に語るトシ先生は、いつになくご機嫌な様子であった。昨年などは心から不本意そうな顔をしていたものだが――トシ先生は撮影の途中で、女子選手のファイターらしい姿を撮影することに大きな意義を見いだしたようであるのだ。
「今回もなかなか粒がそろってるみたいだから、腕が鳴るわねぇ。……あ、こら! どこに行くのよ! 着替える前に、普段着を撮っておくんでしょ!」
「あ、急ぎなさいって、そういう意味っすか。……ユーリさん、お先にどうぞ」
「はいはぁい」と、ユーリはライトに照らされる壁の前に立つ。すでに世間はかなりの気温であるが、日焼け予防で麦わらのハットと夏用のカーディガンとレギンスを着用した姿だ。ただし、基本はタンクトップとショートパンツであるので、色香とフェロモンのほどに変わりはなかった。
いっぽう瓜子は、『トライ・アングル』の物販グッズであるキャップとTシャツ、それにハーフパンツにスニーカーという身軽な格好だ。顔や手足の先だけ日焼けしてしまうのはみっともないので最低限の日焼け止めだけは塗るようになっていたが、それ以上のケアなどはするつもりもなかった。
「瓜子ちゃんも、ちょっとは垢抜けてきたみたいねぇ。今日は色の組み合わせも悪くないじゃない」
「はあ。最近は、手持ちの服からユーリさんに選んでもらってます」
「賢明な判断ね。それじゃあ、着替えとメイクを済ませてきなさい」
瓜子は盛大に溜息をこぼしながら、ユーリとともに更衣室を目指した。
目隠しのカーテンをくぐってそちらに踏み込むと、見慣れた面々が元気な声をあげている。灰原選手に鞠山選手に沙羅選手――昨年も、この時間をともに過ごした面々だ。
しかし瓜子は、そこに入り混じった異分子の存在に驚きの声をあげることになった。
「わっ! 弥生子さんに犬飼さんじゃないっすか! どうしてお二人が、こんなところにいるんすか?」
「何を騒いでるんだわよ。あんたは人気投票の結果を見てないんだわよ?」
すでに着替えを済ませているらしい鞠山選手は、白いガウン姿でそんな風にのたまわった。
「い、いえ、それはもちろん拝見してますけど……でも弥生子さんなんかは、去年の撮影を断っていたでしょう? それに、ちょっと前にメールでやりとりしましたけど、撮影に参加するなんて言ってませんでしたし……」
赤星弥生子は凛然とした面持ちのまま、「うん」としか言わなかった。彼女はまだ到着したばかりであるらしく、なんの変哲もないTシャツとジャージの姿である。
いっぽう犬飼京菜は、小さな身体を大きなガウンで包み込んでいる。そして、お顔を真っ赤にしながらキャンキャンと騒ぎ始めたのだった。
「あ、あたしの目的はドッグ・ジムの名を売ることなんだから、こんなチャンスを棒に振るわけがないでしょ! あんたに文句を言われる筋合いはないよ!」
「いや、何も文句があるわけじゃないっすけど……犬飼さんは、ご立派ですねぇ」
「な、何をしみじみ溜息なんてついてるのさ! あんたたちも、さっさと準備しなよね!」
そうして犬飼京菜は、逃げるように更衣室を出ていってしまった。
それを見送った沙羅選手は、「ははん」と鼻を鳴らす。そちらも白いガウンを羽織っていたが、その合わせ目からは立派な胸と鮮やかなグリーンのビキニが覗いていた。
「京菜はんは一念発起して今回の企画に参加する覚悟を決めたんやから、あんまいじらんといたってや。水着姿をさらしまくっとるうり坊とは、年季が違うんやからな」
「じ、自分だって、好きでさらしてるわけじゃないっすよ。……なんか、犬飼さんとはいいお酒を飲めそうです。飲まないっすけど」
「ほなら、メイクルームで待っとるで。弥生子はんも、またのちほどなぁ」
沙羅選手も退室すると、今度はガウン姿の灰原選手が肩をすくめた。
「去年と比べると、ピエロとマリアがいなくなって、大怪獣とわんころが増えたって感じかぁ。ま、誰が来ようと、この一年でお肌をケアしまくったあたしの敵じゃないけどね! 今日こそあのちょびひげカメラマンをぎゃふんと言わせてやるんだから!」
「大した鼻息だわね。わたいが返り討ちにしてやるだわよ」
そのように応じる鞠山選手とともに、灰原選手も更衣室を出ていく。
後に残されたのは、瓜子とユーリと赤星弥生子だ。そうすると、赤星弥生子は凛々しい面持ちのまま瓜子を見つめてきた。
「この前のメールでは、猪狩さんに事情を打ち明け損なっていた。もしも気分を害してしまったなら、お詫びをさせてもらいたい」
「い、いえ。自分が詫びられる筋合いはないっすけど……でも、どうして今年は参加することにしたんすか? 弥生子さんも、水着の撮影とかは気が進まないんでしょう?」
彼女ももっと若かりし頃には、名を売るために水着姿をさらしていた。瓜子がそれを聞いたのは、赤星弥生子と初めて出会った大阪大会においてである。そこで瓜子は赤星弥生子の人間くさい表情を垣間見て、それが心をひかれるひとつのきっかけとなったのだった。
「さまざまな事情が入り組んでいるので、それを説明するには長きの時間が必要となってしまうのだが……まず私は、人気投票というもので第3位になってしまった。それで、今回の雑誌の表紙を飾ってほしいと依頼されることになったんだ」
「あ、はい。去年もベストスリーの三人で表紙を飾ることになりましたね。そっちは試合衣装でしたけど」
「うん。それで……表紙を飾っているくせに、水着姿をさらしていなかったら、落胆する人間も多いのじゃないかと……ハルキやタカアキが、そんな風に騒ぎだしたんだ」
「そ、そんなのは外野の勝手な言い分っすよ! 弥生子さんが無理をする必要はありません!」
「うん。だけど今回、赤星道場の選手で人気投票の中に食い込めたのは、私ひとりだった。そんな私には、道場の名を売るための責任というものが生じるだろうし……何より、猪狩さんが羞恥心をこらえてでも参加しているというのに、自分だけが逃げ隠れするのは……あまりに不甲斐ないと思ってしまったんだ」
そんな風に言いながら、赤星弥生子は口もとをほころばせた。
凛々しい顔が、それで一気にあどけなくなる。そしてそこには、小さからぬ恥じらいの色も見て取れた。
「まあ、私なんかが水着姿をさらしたって、なんの魅力もないことはわかりきっているが……それでも、猪狩さんたちの引き立て役ぐらいにはなれるだろう。それでは赤星道場の名を落とすばかりかもしれないが、格闘技業界という大きなくくりで考えれば、決して無駄ではないんじゃないかと……大仰な物言いで恐縮だが、そんな考えに行き着いたんだ」
「そうっすか……それじゃあ自分も弥生子さんも犬飼さんも、みんな同じような気持ちでこの撮影地獄に向き合う覚悟を固めたってことっすね。なんだか……涙がこぼれそうなぐらい、心強く思います」
瓜子が万感の思いを込めてそんな風に応じると、赤星弥生子はいっそうあどけない感じで微笑んだ。
「猪狩さんの真情が、ひしひしと伝わってくるような心地だよ。猪狩さんがそんな嬉しそうな顔をしてくれるだけで、私は自分の決断を後悔せずに済みそうだ」
「押忍。みんなで力を合わせて、何とかこの苦難を乗り越えてみせましょう」
そうして瓜子と赤星弥生子が一心におたがいの姿を見つめ合っていると、ユーリが「あにょう」とTシャツの裾を引っ張ってきた。
「ひとりウキウキで乗り込んできたユーリちゃんとしては、疎外感がとてつもないのです。そろそろこちらにも愛情のおすそわけをお願いできないでしょうか?」
「はい。ユーリさんは、灰原選手や沙羅選手あたりと盛り上がればいいんじゃないっすかね」
「むにゃー! ここに来るまではちょっぴりユーリに甘えモードであったのに、理不尽のキワミであるのです! うり坊ちゃんの出方しだいでは、ユーリは羅刹と化す所存なのです!」
「冗談っすよ」と、瓜子はユーリの髪をつまんでみせた。
ユーリはとたんに笑み崩れて、瓜子の髪をつまみ返してくる。すると、赤星弥生子が珍しくももじもじとし始めた。
「なるほど。これが立松さんやハルキの言っていた、甘いオーラというやつか。確かにこれは……見てはいけないものを見てしまったような心地になるようだ」
「やだなぁ。自分たちは、そんなんじゃないっすよ?」
「うん。だけど、君たちが深い絆で繋がれているということに間違いはないようだ」
と、赤星弥生子はとても穏やかな感じに微笑んでくれた。
そうして瓜子は、かつてないほど和やかな気持ちで撮影地獄に臨むことがかなったわけであった。