02 別れの季節
その後、音楽用のステージにおいては『トライ・アングル』のリハーサルが行われたわけであるが――その出来は、決して上々と言えるものではなかった。
まあ、ライブ直前のリハーサルというのは、あくまで音の聴こえ具合などを確認するのが主旨であるし、とりわけ『トライ・アングル』は本番まで本気を出さないという傾向にある。しかし、そういった要素を鑑みてもなお、彼らの演奏には普段の調和や勢いというものが感じられなかった。ずぶの素人である瓜子には、それがどういった原因から生じる違いであるのかも見当がつかないのだが――とにかく、「ただ音が鳴っている」というようにしか聴こえなかったのだった。
「どいつもこいつも、リハで気合を入れる余力がないからさぁ。本番ではビシッと決めてみせるから、心配しないで見守っててくれよな」
リハーサルの後、タツヤはねぼけまなこでそのように語らっていた。
『ベイビー・アピール』の面々は昨日が仙台のライブであり、今日の朝方に六時間近くもかけて車で駆けつけた身であるのだ。よって、どれだけ疲れていても不思議はなかったが、やっぱり瓜子は不安な気持ちをかきたてられてならなかった。
しかし瓜子は自分の不安など押し殺して、滅私奉公する覚悟である。
瓜子はあくまでユーリ個人のマネージャー補佐であったが、千駄ヶ谷や他のマネージャー陣が期待してくれるなら、全力でそれに応える所存であった。
「開場時間まで、あと二時間ちょっとっすね。今の内に、何か食べておきますか? ご要望があれば、なんでも買ってきますよ」
「あー、それだったら、瓜子ちゃんの手料理が食べたいなぁ」
「て、手料理っすか? こちらの楽屋は火気厳禁らしいので、それはちょっと難しいんすけど……」
「だったら、カップラーメンでも何でもいいよ。瓜子ちゃんが作ってくれたら、なんでもご馳走に感じられるからさ」
タツヤやダイはまだ眠たそうな笑顔で、そのように語らっていた。
なんというかもう、子供の面倒を見ているような心地である。しかし、これほど立派なミュージシャンたちに頼られるというのは、誇らしい気持ちがしなくもなかった。
「それじゃあとりあえず、コンビニに行ってきます。食べたいものやドリンクのリクエストがあったら、お願いします」
そうしてメンバーの要望をメモ帳に書きしたためたのち、瓜子が単身で楽屋を飛び出すと、通路に立ちはだかっていた小柄な人影とぶつかりそうになってしまった。
「あんたが単独行動とは、珍しいだわね。ついにピンク頭との淫らな関係にピリオドが打たれたんだわよ?」
「淫らじゃないし、ピリオドも打たれてません。鞠山選手は、これからリハーサルっすよね」
本日も、鞠山選手は『モンキーワンダー』のステージにゲスト出演するのである。そして鞠山選手のかたわらには、はにかむように笑う小柴選手の姿もあった。
「小柴選手も、お疲れ様です。もしかして、小柴選手も飛び入りでライブに参加したりするんすか?」
「と、とんでもありません! わたしはあくまで、鞠山さんの荷物持ちですので!」
そのように語る小柴選手は、鞠山選手が普段から愛用しているスーツケースを引いている。愛音を筆頭とする女子選手の面々はお客としてチケットを購入していたが、小柴選手は鞠山選手の付き人という名目で入場することになったのだ。
「『トライ・アングル』のリハは、客席から拝見してただわよ。今日はなかなかの絶不調みたいだわね」
「ええまあ、みなさんスケジュールが過密なもんで。でも、本番ではばっちり決めてくれるはずっすよ」
「そう願いたいだわね。あんな調子でライブをやられたら、せっかくのイベントが台無しなんだわよ」
ふてぶてしい微笑を残して、鞠山選手は通路の向こうに立ち去っていく。
瓜子は気合を入れなおしつつ、それとは反対の方向に駆け出した。
そうして最寄りのコンビニで必要な物資を購入し、両手にいっぱいのビニール袋をさげて舞い戻ると――次に遭遇したのは、格闘技部門に出場する女子選手の面々である。その中から「よう」と気安く笑いかけてきたのは、沙羅選手に他ならなかった。
「ストロー級の二冠王が、パシリかいな。なかなか世知辛い姿を見せつけてくれるやないの」
「押忍。今日は選手じゃなく、スタッフの立場ですからね。ルールミーティングは終了ですか?」
本日、《アトミック・ガールズ》の代表として出場するのは、沙羅選手とオリビア選手である。そして沙羅選手のセコンドとしては、犬飼京菜と大和源五郎とダニー・リーが同行していた。
「沙羅選手は五月から連戦で大変っすね。『アクセル・ロード』に支障がないように、頑張ってください」
「ははん。先月も今月も雑魚が相手やから、心配はご無用やわ。うり坊を見習うて、秒殺KOでも決めたるわ」
そのように語る沙羅選手のかたわらで、犬飼京菜はつんとそっぽを向いている。瓜子も急ぐ身であったが、そのあからさまに不機嫌そうな態度が気になってしまった。
「犬飼さんも、おひさしぶりです。あの、何か怒ってますか?」
「京菜はんは、うり坊まで出稽古に来えへんようになったことをすねてるだけやわ」
「す、すねてなんかない! こいつらの気まぐれに腹を立ててるだけだよ!」
怒りと羞恥心で顔を赤くする犬飼京菜の頭に、大和源五郎が苦笑しながら手を置いた。
「沙羅と桃園さんは『アクセル・ロード』で対戦する可能性が出てきたんだから、こればっかりはしかたねえだろうがよ? しかも沙羅はあれこれ手の内を隠してるんだから、桃園さんの不利になるばっかりだしな」
「……でも、こいつは関係ないじゃん」
すると、沙羅選手が「ははん」と笑いながら瓜子の頭を小突いてきた。
「せやけど、うり坊にしてみりゃあ白ブタはんと三ヶ月のお別れなんやからなぁ。今は一分一秒でも離れるのが惜しいんやろ」
「そ、そういうわけじゃないんすけど……ユーリさんだけじゃなく、サキさんや邑崎さんが犬飼さんと対戦する可能性もありますからね。しばらくは出稽古を控えるように、コーチ陣から言いつけられたんすよ」
「せやせや。物足りない分は、蔵人の坊にかまってもらいや」
「あ、あんなやつ、スパーでは何の役にも立たないじゃん!」
ドッグ・ジムの面々は相変わらずの騒がしさであったが、それでもやっぱり以前よりはとげとげしさが減じられたように感じられる。それを嬉しく思いながら、瓜子は頭を下げてみせた。
「それじゃあ仕事があるんで、自分は失礼します。沙羅選手もオリビア選手も、頑張ってくださいね。……犬飼さんたちも、またいずれゆっくりと」
そうして瓜子が関係者用の通路に飛び込むと、最後のとどめとばかりにイリア選手が待ちかまえていた。
「あ、猪狩さん。ようやくご挨拶できましたねぇ。買い出しに行かれてたんですかぁ」
まだピエロのメイクをしていないイリア選手は、のっぺりとした無個性な顔で笑いかけてくる。
「今年はみんなバンドのほうの楽屋に入り浸りで、こっちの楽屋はボクたちだけなんですよねぇ。なんだかちょっぴり寂しいですぅ」
「そうっすか。今ちょっと忙しいんで、またのちほどご挨拶をさせていただきますね」
「あ、ひとつだけいいですかぁ? 実は、『オーギュスト』が三人のまま活動再開することになったんですよぉ。残りの二人は、けっきょく脱退しちゃったわけですねぇ」
「え? それじゃあ……格闘技のほうは、どうするんすか?」
「しばらくは新しい『オーギュスト』のプロモーションが忙しいんで、試合をするヒマはなさそうですねぇ。けっきょく猪狩さんにはリベンジできないままで、残念な限りですぅ」
そんな風に語らいながら、イリア選手はのほほんと笑っている。
「でもこの一年間、楽しかったですよぉ。猪狩さんは、これからも頑張ってくださいねぇ。草葉の陰から応援してますんでぇ」
言いたいことを言いたいだけ言って、イリア選手はひょこひょこと立ち去ろうとした。
瓜子は得も言われぬ感慨にとらわれながら、「あの!」と大きな声をあげてしまう。
「『オーギュスト』の活動、頑張ってください! ……でも、また時間ができたら、格闘技のほうもお願いしますね!」
イリア選手は歩を止めぬまま、ただ瓜子のほうに横顔を見せてきた。
嬉しそうな、寂しそうな――瓜子がこれまで目にしたことがないような、イリア選手の内心がこぼれた笑顔である。
瓜子はそちらに頭を下げてから、今度こそ『トライ・アングル』の楽屋を目指した。
(なんか、最近は……別れの季節って感じがしちゃうな)
ユーリはあと二ヶ月ほどで、北米に旅立ってしまう。
それに起因して、多賀崎選手と灰原選手は出稽古を取りやめることになった。
瓜子たちもまた、ドッグ・ジムへの出稽古を自粛することになった。
それにきっと、今年は赤星道場の合宿稽古にお邪魔することもできないのだろう。
瓜子としては、この一年ていどで積み上げてきた人間関係が、一気に離散してしまったような心地であった。
(でも……そんなのは、表面的なことなんだ)
ユーリたちは、『アクセル・ロード』で対戦する可能性が生じたからこそ、距離を取ることになったのだ。
いや、ユーリだけではない。瓜子にとっては灰原選手や鞠山選手が、サキにとっては犬飼京菜や大江山すみれが同じ立場にあたるのである。
ならばそれは、ともに稽古をすることができなくなる代わりに、試合の場で向き合う可能性が生まれたということで――ある意味では、より密接な関係になったのだとも言えるはずであった。
(あたしたちは、強くなりたいっていう同じ目標のために頑張ってるんだからな)
そんな思いを胸に溜めながら、瓜子は楽屋のドアをノックした。
「お待たせしました! 美味しいごはんの到着ですよ!」
楽屋でくつろいでいたメンバーが、きょとんとした顔でこちらに向きなおってくる。その代表として口を開いたのは、リュウであった。
「ど、どうしたんだよ、瓜子ちゃん? なんか、ヤケクソみたいな笑顔だけど……」
「そんなことないっすよ! さあ、すぐに準備しますからね!」
マネージャー陣が借りてきてくれた湯沸かしポットを使って、瓜子はカップラーメンを作りあげていく。
すると、ユーリが楚々とした足取りで近づいてきた。
「うり坊ちゃん、ほんとに大丈夫? お外で悲しいことでもあったにょ?」
「そんなことは……なくもありませんでしたけど。でも、大丈夫です。大丈夫だって、自分で決めたんです」
ユーリはふにゃんと笑いながら、「そっか」と目を細めた。
「うり坊ちゃんがそう決めたんなら、大丈夫だね。ユーリは、うり坊ちゃんを心から信頼しているのです」
「ええ、まかせてください。……まあ、ユーリさんがいてくれるから大丈夫なんすけどね」
「にゅわー! その不意打ちは、ヒレツなのです!」
ユーリは色っぽく身をよじりながら、瓜子の髪を引っ張ってきた。
その甘い痛みに耐えながら、瓜子は新たなカップラーメンの包みを破り捨てる。確かに瓜子の内側には、悲しみや寂寥感に似た感情が渦巻いてしまっていたが――それを上回る期待や喜びも間違いなく存在したのだった。
今の瓜子は、孤独からもっとも縁遠い場所にいる。
プレスマン道場に移籍するまで、瓜子が心から信頼できるのはコーチの赤坂と旧友たる佐伯とリンの三名のみであったのだが――今ではそれが、数えきれないほどの人数に膨れ上がっているのだ。
こんなにたくさんの人々が、同じ思いを抱いて、同じ世界に生きている。
そんな風に考えるだけで、瓜子の胸は温かい気持ちに満たされてやまなかったのだった。