ACT.1 NEXT・ROCK FESTIVAL、再び 01 入場
『アクセル・ロード』のプロモーション用の撮影を終えてから、一週間と四日の後――六月の最終日曜日である。
その日がおよそ一年ぶりとなる、『NEXT・ROCK FESTIVAL』の当日であった。
『NEXT・ROCK FESTIVAL』は、MMAの試合とロックバンドのライブステージを交互に行うという、なかなかに実験的なイベントだ。しかしこれだけ定期的に開催されるということは、それなり以上の人気を博しているのだろう。また、《アトミック・ガールズ》との共催で行われた昨年の興行などは特に好評で、格闘技チャンネルにおける放映の視聴率も過去最高であったのだと、瓜子はそのように聞かされていた。
なおかつ、『トライ・アングル』が結成に至ったのも、このイベントがきっかけであったのだ。
アイドルファイターとしての人気を見込まれて音楽部門への出場をオファーされたユーリは、『ワンド・ペイジ』や『ベイビー・アピール』のステージにゲスト出演することになり――そしてそれを契機として、『Yu-Ri』名義の新曲の演奏を両バンドに依頼することになり、ついには『トライ・アングル』の結成にまで至ったのだった。
また、瓜子にとっては長年の憧れであった『ワンド・ペイジ』と実際に対面する機会となったのだから、個人的にも思い出深いイベントとなる。
そして現在では『ベイビー・アピール』のメンバーにも強い思い入れを抱き、僭越ながら交流を深めさせていただいている。CDや映像ソフトに付随する撮影地獄に関してだけは、いまだに大きな負担を覚えずにいられない瓜子であるが、それにしてもユーリたちが再び『NEXT・ROCK FESTIVAL』のステージに立てるというのは、大きな喜びに他ならなかったのだった。
もちろんこのたびは、個々のバンドではなく『トライ・アングル』としての出場をオファーされている。しかも、二台のドラムセットを準備することは難しかったため、西岡桔平がドラムを叩く編成と、ダイがドラムを叩く編成で、二回のステージをこなしてほしいという依頼であったのだ。『トライ・アングル』の活動に大きな喜びを見出すことになったユーリは、「合計で一時間も歌えるねぇ」と嬉しそうにしていたものであった。
《アトミック・ガールズ》七月大会の開催までは一ヶ月を切っており、瓜子もユーリもそれぞれ出場する予定になっている。
もちろんそちらの本業をおろそかにするつもりはないが、副業でも力を惜しまないというのがユーリと瓜子のスタンスであるし、そして、そんな大義名分を持ち出すまでもなく『トライ・アングル』の活動には自然に気合が入ってしまう。
そうして瓜子とユーリは全身全霊でその日の仕事を果たすべく、『NEXT・ROCK FESTIVAL』の会場へと乗り込むことに相成ったわけであった。
◇
「あー、うり坊ちゃんだぁ。ひっさしぶりぃ」
会場に到着するなり、瓜子はのほほんとした声に呼びかけられることになった。
ひょろりとした長身の女性が、軽い足取りでこちらに近づいてくる。誰かと思えば、それは『モンキーワンダー』の女性ドラマー、ぐっちーこと原口千夏であった。キツネを思わせる容貌で、セミロングの髪を上のほうでくくりあげ、両サイドを短く刈り込んだ、なかなか個性的なルックスであるが、その実は気さくで朗らかな女性である。
「年末のイベント以来だから、半年ぶりのご対面だよねぇ。花ちゃんさんにセッティングしてもらって、うり坊ちゃんと遊んでみたいなーって思ってたんだけど、こっちもライブツアーで忙しかったからさぁ。ようやく再会できて、嬉しいなぁ」
細い目をいっそう細めて、にこにこ笑う。彼女は旧友の佐伯と少し似たところがあったので、瓜子もそれなりに親しみを覚えていた。
「あ、そうそう! ハチベエに聞いたんだけど、うり坊ちゃんはなんか格闘技で二冠王になったんでしょ? こんなにちっちゃいのに、すごいよねぇ。今日は試合に出たりしないのぉ?」
「はい。実は出場のオファーがあったんすけど、先月も来月も試合を控えてたから、けっきょくお断りすることになりました」
瓜子がそのように答えると、原口千夏は瓜子の顔をまじまじと見つめてから、やがて薄い胸もとに手をやってほっと息をついた。
「あー、うり坊ちゃんが普通に話してくれて、よかったぁ。あたし、うり坊ちゃんに嫌われちゃったんじゃないかって、ずっとドキドキしてたんだよねぇ」
「え? どうしてっすか?」
「だってあたし、年末の打ち上げでついつい調子に乗っちゃったでしょ? 普段は初対面のコにあんな姿をさらしたりしないから、次の日はもう自己嫌悪でどっぷりだったんだよぉ」
彼女は、異性と同性の両方を恋愛の対象として見ることのできる人間であるそうなのだ。そして年末の打ち上げでは、酔いにまかせて瓜子にしつこく誘いをかけていたのだった。
「あれはまあ、酔った勢いだったんでしょうしね。今はおかしな雰囲気も感じませんし、あれぐらいでぐっちーさんを嫌ったりしないっすよ」
「ほんとぉ? バイってだけで嫌がる女の子も少なくないんだよねぇ。うり坊ちゃんは、そういうの気にしないタイプなのぉ?」
「はあ……そんなのは、個人の自由でしょうからね」
ユーリの大切な友人であるアキくんこと清寺彰人やその恋人であるトシ先生も、同性愛者であるのだ。そういった人々と親交を深めた現在、瓜子が彼女に差別感情を抱くいわれはなかった。
すると原口千夏は、「うーん」と悩ましげに身をよじる。
「うり坊ちゃんにそんな風に言ってもらえると、嬉しくてたまらないんだけど……その反面、誘いをかけたら嫌われちゃいそうなのがもどかしいなぁ」
「ええまあ、そこは男女関係なく、節度のあるおつきあいをさせていただけたらと……」
「あー、その困ったお顔もかわゆいなぁ。あたし、どうしたらいいんだろぉ」
すると、原口千夏の背後から出現した小柄な人影が「こら」と声をあげた。金色のショートヘアに赤や紫のカラーをちりばめた、どこかタヌキを思わせる容姿の女性――『ワンダーモンキー』のヴォーカリスト、みよっぺこと定岡美代子である。
「顔をあわせるなり、猪狩さんを困らせるんじゃないの! 年末の反省はなんだったの?」
「だってやっぱり、すっごくかわゆいんだもぉん。みよっぺだって、ユーリちゃんとの再会でテンション上がってるくせにぃ」
「あ、あたしはぐっちーと違うから!」
と、定岡美代子はいくぶん顔を赤くしながら、かしこまった感じでユーリに一礼した。
「きょ、今日はよろしくお願いします! またユーリさんと同じ日にステージに立てるのを、ずっと楽しみにしていました!」
「いえいえ、こちらこそぉ。どうぞよろしくお願いしまぁす」
ずっと無言でこれらのやりとりを見守っていた千駄ヶ谷が、「では」と鋭く声をあげた。
「みなさん、会場に急ぎましょう。もう間もなく、『トライ・アングル』のリハーサルの刻限ですので」
「あ、そうですよねぇ。こんな入り口で引きとめちゃって、ごめんなさぁい」
そうして『ワンダーモンキー』の二名を加えた一行は、ともにライブ会場へと乗り込むことになった。
場所は昨年と同じく、日本国技会館だ。一万名強の収容人数を誇る立派な会場であるが、なんと今回はチケットもすぐさま完売したのだと聞いている。それには『トライ・アングル』の人気の影響が大きいのではないかというもっぱらの評判で、瓜子もひそかに誇らしく思っていたのだった。
ただ今回、『トライ・アングル』はひとつの懸念事項を抱いている。
かつてスタッフ陣が心配していた通り、新曲の練習に注力していたため、ライブの練習に十分な時間を割くことがかなわなかったのだ。ユーリなどは二ヶ月ぶりのステージであるのに、たった一回のスタジオ練習しか準備されなかったのだった。
「ああ、みなさんおそろいで。ちょっと押し気味なんで、俺たちの出番は十五分後ぐらいになりそうですよ」
会場の客席まで出向いてみると、入り口の付近にたたずんでいた西岡桔平が笑いかけてくる。ステージでサウンドチェックをしているのは、昨年も音楽部門でトリを飾っていた『ザ・フロイド』の面々だ。そのコラボ相手である『オーギュスト』は現在も活動休止中であったが、今回はイリア選手を含む三名だけが参加するとのことであった。
「お疲れ様です。他の方々は、すでに到着されているのでしょうか?」
千駄ヶ谷が先刻よりもさらに鋭い声音で問い質すと、西岡桔平は「ええ」と微笑んだ。
「みんな、楽屋で休んでます。『ベイビー・アピール』の面々は仙台から車で駆けつけたんで、ずいぶんお疲れの様子ですね」
「山寺氏も、楽屋に?」
「はい。あいつもあいつで最近は睡眠不足だったもんで、昨日はジンの家に泊まり込んだんですよ。今はベイビーのみなさんと一緒に、仲良くおねんねです」
『ベイビー・アピール』は全国ツアーの真っ最中、山寺博人は新曲の歌詞の考案という難事を抱えて、多忙の極みなのである。それもこれも、セカンドシングルのリリースを二ヶ月も早めた代償であったのだった。
「ついでにジンも、楽屋でへたばってます。ヒロは、寝起きが最悪ですからね。その面倒を見るだけで、繊細なジンには大仕事なんでしょう。それがわかってるから、普段はヒロもジンを頼ったりはしないんですけど……今日ばかりは、遅刻できないと思ったんでしょうね。この状況でリハまでトバすことになったら、致命傷になりかねませんから」
「そうですか。みなさんの尽力には頭が下がる思いです」
「いえいえ。俺はなんにもしてないんで、ジンたちをねぎらってやってください。うちは子供の面倒で手一杯で、ヒロの面倒を見ることもできませんからね」
そんな風に言いながら、西岡桔平は申し訳なさそうに眉を下げる。
その姿に、瓜子はいよいよ不安をかきたてられてしまった。
「そんなコンディションでライブに臨むのは、初めてのことっすよね。自分なんかが口を出すのは、おこがましい限りなんですけど……本当に大丈夫なんでしょうか?」
「大丈夫ですよ。ユーリさんだって、眼帯をしてまでライブをやりとげてくれたじゃないですか」
と、西岡桔平は穏やかな笑顔を復活させた。
「それに、新曲のアレンジもようやく固まりましたし、ヒロも昨日で歌詞が完成したそうです。来週のレコーディングも、これでバッチリですよ。今はみんなへたばってますけど、意気は揚々であるはずです」
「うにゅう。ユーリはひとり元気いっぱいで、申し訳ない限りなのです! みなさんがお疲れの分は、ユーリがステージで暴れまくる所存であるのです!」
ユーリがそのように宣言すると、西岡桔平はいっそう温かい笑みをたたえた。
「それなら、今日のステージもバッチリです。俺はユーリさんの次に元気なはずなんで、一緒にみんなを引っ張ってやりましょう」
「キッペイ様にそのように言っていただけたら、心強さも倍増であるのです! あとはうり坊ちゃんがかわゆい笑みを振りまくだけで、他のみなさんも元気しゃかりきでありましょう!」
「じ、自分にそんな影響力はないっすよ。……でも、死力を尽くしてサポートする覚悟です」
そんな言葉とともに、瓜子はおもいきり気持ちを引き締めることにした。
本当に大変であるのはステージに立つメンバーたちであるのだから、瓜子が不安に陥っているひまなどはないのだ。メンバーたちが不調な分は、むしろ瓜子のほうこそが奮起しなければならなかった。
「では、メンバーの方々に活力をもたらすために、猪狩さんが水着姿で業務に取り組むというのは如何でしょう?」
千駄ヶ谷のそんな言葉が、メイの繰り出す鋭い右フックのような鋭さで瓜子のこめかみを撃ち抜いた。
「や、やだなぁ。そんな冗談、千駄ヶ谷さんらしくないっすよ?」
瓜子が引きつった笑顔を向けると、そこには果てしなく凍てついた顔が待ち受けていた。
「……まさか、本気で言ってるんすか?」
「ええ。それでメンバーの半数ていどは、大いに気力をかきたてられるものと予測されます」
瓜子が言葉を失っていると、ユーリや西岡桔平が困惑顔で援護の声をあげてくれた。
「あにょう、『ベイビー・アピール』の方々はそれで元気もりもりやもしれませぬが、舞台裏のごちゃごちゃした空間をビキニ姿で徘徊するのは、うり坊ちゃんの珠のお肌に危険が及ぶのではないでしょうか?」
「そうですね。それに今日は色んな格闘技ジムの関係者が入り乱れています。猪狩さんのファイターとしての格に、傷がついてしまうと思いますよ」
二人の優しさに涙腺を刺激されながら、瓜子は「いえ」と言ってみせた。
「も、もしそんなことで、ライブが成功する可能性が1パーセントでも上がるんなら、自分も覚悟を決めて――」
「素晴らしい」と、千駄ヶ谷が冷たい声音で瓜子の言葉を断ち切った。
「それだけの覚悟があれば、きっと水着姿などさらさずとも大きな力になることができるでしょう。貴女の尽力に期待しています」
「え? それじゃあ水着っていうのは……?」
「貴女が水着姿などをさらしていたら、山寺氏や陣内氏の集中を乱す恐れが生じます。また、貴女の持つ魅力というものは、身に纏っているものに左右されるほど安いものではないのでしょう。どうぞ自信をお持ちください」
瓜子がへなへなと脱力しそうになると、ユーリは珍しくも非難するような目で千駄ヶ谷を見た。
「千さんのお言葉はいつでも氷のムチのごとき破壊力でありますけれども、今のはあまりに意地悪でありますよぉ。何故にうり坊ちゃんをいぢめようとするのか、釈明をお願いいたします!」
「申し訳ありません。私もこれは『トライ・アングル』にとって最大の試練であると認識し、つい不安になってしまったのです。それで猪狩さんがどれだけの覚悟をお持ちであるかを確認し、少しでも安心を得たかったのです」
氷の仮面のごとき無表情を保持しながら、千駄ヶ谷は自分の胸もとに手を置いた。
「自分の心を安らがせるために猪狩さんにいらぬ心労を負わせてしまい、心より申し訳なく思っています。どうかお許し願えるでしょうか、猪狩さん?」
「はあ……敬愛する上司のお力になれたのなら、何よりっすよ」
瓜子としては、そんな言葉を返すしかなかった。
すると背後から、残念そうな溜息がこぼされる。
「なんだぁ、うり坊ちゃんの水着姿は拝見できないのかぁ。期待しちゃって損しちゃったぁ」
言うまでもなく、溜息と声の主は原口千夏である。
瓜子はじっとりとそちらをにらみつけることになった。
「……ぐっちーさん、そういうコメントを聞かされると、自分の好感度は急直下っすよ」
「わあ、うそうそっ! うり坊ちゃんは、普段着でも十分にかわゆいよぉ」
そんな間の抜けたやりとりをしていると、楽屋に繋がる通路のほうから『ベイビー・アピール』と『ワンド・ペイジ』のマネージャーたちが飛び出してきた。
「あー、いたいた! 猪狩さん! そろそろうちらの出番なんで、楽屋のメンバーたちを起こしてあげてくれませんか?」
「え? 自分がっすか?」
「はい。猪狩さんに起こしてもらえたら、みんな寝覚めも最高なんじゃないかと思うんで」
そんな風にのたまうマネージャーの両名は、どちらもきわめて無邪気な顔をしていた。
再び言葉を失う瓜子の肩を、千駄ヶ谷がぽんと叩いてくる。
「どうぞよろしくお願いいたします、猪狩さん。もちろん水着に着替える必要はありませんので」
「い、言われなくてもわかってますよ!」
そうして瓜子はマネージャー陣の要請に応えるべく、メンバーたちが眠りこける楽屋を目指すことになった。
かくしてその日の戦いは、ついに幕を切って落とされたわけである。