02 アイドリング
『アクセル・ロード』の一件が落着すると、ようやく日常が返ってきた。
副業の仕事とMMAの稽古に忙殺される、瓜子とユーリの日常である。
六月は《アトミック・ガールズ》の興行が存在しない中休みの時期であったが、もちろん多忙さに変わりはない。しかしこの生活もあと三ヶ月でいったん取りやめられることになるのかと思うと、瓜子は胸の奥底に鈍い痛みを覚えずにはいられなかった。
しかしユーリは《アクセル・ファイト》との正式な契約がかなったとしても、日本で暮らすのだと公言している。そして、絶対の絶対に瓜子と一緒に暮らし続けるのだと声も高らかに主張していたため、瓜子も何とか胸の痛みを呑み下すことができていた。
「仮に、海外で年に五回ほど試合をする事態に至ったとしませう! それで、二週間の調整期間をあちらで過ごすとなると、合計で十週間となるわけです! そう考えれば、うり坊ちゃんと離ればなれで暮らすのも、一年の内の二ヶ月ちょいなのですから――ユーリは、悶死寸前であるのです!」
「いや、悶死したら駄目っすよ」
「寸前だから、問題ないのです! たとえ悶死したとしても、ユーリはゾンビのごとく試合にのぞみ、そしてうり坊ちゃんのもとに舞い戻ってくるのです!」
ユーリは時おりそんな言葉を撒き散らすことで、何とか精神の均衡を保っているようであった。
負の感情を意識の外に追い出すという特技を持つユーリであるが、やはり三ヶ月間もそれを継続するのは至難の業であるのだろう。しかしそれでも決して涙を見せたりはしなかったので、瓜子もユーリの強靭さを見習うばかりであった。
なおかつ、ユーリが負の感情を押し隠して日々を過ごすというのは、瓜子との不和をなかったように振る舞っていた二年前と同じような行いであるのかもしれないが――もちろん瓜子もこのたびは、ユーリの本心を見失うことはなかった。そうして身を裂くような不安や悲しみを押し隠せるというのは、ユーリの強さであり美点であるのだ。もしもユーリが九月までの三ヶ月間を泣き伏して暮らすことになっていたら、瓜子のほうこそ心がくじけてしまっていたはずであった。
「それにしても、『アクセル・ロード』で優勝する前提で騒いでやがるんだから、豪気な話だわな。おめーらが思ってるほど、シンガポールの連中は甘くねーぞ?」
サキなどは、そんな風に語らっていた。
瓜子はシンガポールのMMA事情などまったくわきまえていなかったのだが、どうやらあちらでも数年前から独自の国内大会が発足されて、たいそうな盛り上がりようであるという話であったのだ。中規模や小規模の団体が乱立する日本と異なり、大規模な団体がひとつどっしりと腰を据えたことにより、国内外の有力な選手が集結して、激しくしのぎを削っているとのことであった。
「きっとそいつは、よその国でも同じことなんだろうなー。競技人口なんかは日本のほうが多いんだろうが、メインになる興行が一本化されることで上手く回ってるんだろうよ」
「なるほど。日本なんかも女子選手に関しては《アトミック・ガールズ》に一本化されてる印象だったんすけど……でも、宇留間選手や鬼沢選手みたいに有望な選手が、知らないところで活躍してたわけですもんね」
「そーゆーこった。なおかつ、シンガポールでは海外選手の招聘に熱心だから、そっちの面でも場数を踏んでる。甘く見てると、痛い目を見るだろーぜ」
瓜子もユーリも、決してシンガポールの選手陣を甘く見たりはしていない。そもそも『アクセル・ロード』においてはシンガポールの選手陣が即決されて、日本と韓国ではかりにかけられていたのだから、その時点であちらのほうが有望視されているということであったのだ。
しかし瓜子は、ユーリを筆頭とする日本の選手陣の健闘を祈っていたし、信じていた。ユーリたちであれば決してぶざまな姿を見せることはないと、固く信じているのだ。今の瓜子が目にできるのはユーリの稽古する姿だけであるが、他の面々も来たるべき日に備えて最大限の力を尽くしているはずであった。
そして、ユーリの『アクセル・ロード』参戦を契機として、プレスマン道場にはこれまで以上の熱気がわきかえることになった。
まず特筆するべきは――柳原を筆頭とする、男子選手の陣営であろう。ユーリがついに北米進出のチャンスをつかんだということで、彼らも大いに発奮することになったのだ。
「何せ、これまで北米で結果を残せたのは、後にも先にも早見さんだけだったからな。俺たちも、負けてはいられないよ」
そのように語る柳原は、同門の選手が大成したという誇らしさと、同じ選手として後れを取ったという口惜しさと、そして個人的にユーリの勇躍を喜ぶ気持ちが、複雑に入り混じっているようであった。
いっぽう女子選手については、ユーリの熱烈な信者である愛音が発奮しているのは当然として――メイと客分のオルガ選手が、ひそかに闘志をたぎらせていた。
ただ、メイに関しては、間接的な発奮と言うべきだろうか。彼女が見据えているのは、あくまで自身と瓜子の北米進出についてであった。
「僕、本当は、少し心配していた。ウリコとユーリ、北米進出より、今の生活を守るほうが大事なんじゃないかって……でも、ユーリ、『アクセル・ロード』の参加、決断したから、すごく嬉しかった」
と、メイはこっそり瓜子にだけ、そのように真情を明かしていたのである。
そしてオルガ選手のほうは、さらに錯綜した立場となる。彼女はチーム・フレアに加担してしまった責任を取るために、《アトミック・ガールズ》に協力しているわけであるが、最終目的はやっぱりユーリへのリベンジであったのだ。
しかし彼女も、まったく気落ちはしていなかった。ユーリが北米に進出するならば、自分もそれを追いかけるだけだと、メイの通訳でそのような内心を語らってくれたのだ。
「もともと自分も、最終的には《アクセル・ファイト》との契約を目指すつもりだった。ユーリ、『アクセル・ロード』で優勝したら、自分も祖国や北米で実績を積んで、《アクセル・ファイト》との契約、目指す。ユーリ、『アクセル・ロード』で優勝できなかったら……《アトミック・ガールズ》で対戦して、リベンジしてから、祖国に戻る。……オルガ、そう言っている」
「なるほど。でも、《アトミック・ガールズ》には小笠原選手もいますからね。どうぞお忘れなく。……って、伝えていただけますか?」
「忘れていない。トキコ・オガサワラ、対戦の日、楽しみにしている。……オルガ、そう言っている」
ならば、幸いな話である。このままでいけば、小笠原選手とオルガ選手の一戦は《アトミック・ガールズ》におけるビッグ・マッチになるはずであった。
そんな感じで、プレスマン道場における稽古は順調に進められていたわけであるが――副業の仕事のほうでは、瓜子が何度目かの試練を迎えることに相成った。六月下旬には四月に行ったライブツアーの映像ソフトが発売される予定であったため、またその特典グッズのために瓜子と愛音が引っ張り出されることになったのである。
ライブツアーで大成功を収め、初めての地上波テレビ出演でも大きな話題を呼んだ『トライ・アングル』には、大変な期待が寄せられている。そして『トライ・アングル』の運営陣もファンたちの期待に応えるべく、めいっぱいに奮起して、これまで以上の特典グッズを作製することに踏み切り――結果、瓜子の心労は比例的に増大したわけであった。
「ですが、みなさんの尽力の甲斐あって、映像ソフトの予約数はこれまでで最高の数字を叩き出すことがかないました。これは八月にリリースされるセカンドシングルの売れ行きをも、大きく後押ししてくれることでしょう」
撮影地獄を終えて数日後、千駄ヶ谷からはそのような言葉をいただくことになった。
が、ライブDVDが売れれば売れるほど、瓜子のあられもない姿が多くの人々の目にさらされるわけである。『トライ・アングル』の躍進を願う瓜子にとっては、猛烈に甘いアメと猛烈に痛いムチを同時に授与されたような心地であった。
そして、撮影と言えばもう一件、特筆すべき事態が勃発した。
北米から、『アクセル・ロード』に出場する女子選手たちを撮影するための一団が到着したのである。
七月初旬には『アクセル・ロード』の情報が解禁されるため、そのプロモーションのために出場選手の画像や映像が必要なのだという話であった。
◇
そうしてやってきた、六月の第三水曜日――
瓜子はユーリとともに、撮影現場に向かうことに相成った。
これは副業ではなく本業にまつわる案件であるから、本来は瓜子が同行する筋合いはない。しかし、瓜子がマネージャー補佐としての立場を明らかにして交渉した結果、《アクセル・ファイト》の関係者も快諾してくれたため、のこのことついていくことに決めたのだ。たとえ過保護と言われようとも、瓜子は可能な限りユーリと行動をともにしたいと願っていたのだった。
そうして向かった先は、都内某所の撮影スタジオである。
『アクセル・ロード』の内容はいまだトップシークレットであったため、撮影スタジオはワンフロアがまるまるレンタルされて、スタジオの関係者もいっさい立ち入りを禁じられる物々しさであった。
瓜子たちがそちらのフロアに乗り込んでいくと、現場では北米から駆けつけた撮影班のスタッフが慌ただしく下準備に勤しんでいる。その中から、いかにも東洋系の風貌をした人物が笑顔で近づいてきた。
「ようこそ。ユーリ・モモゾノですね? コウイシツにスタッフがタイキしていますので、サツエイヨウのコスチュームにキガえをおネガいします」
おそらくは、日系のアメリカ人であるのだろう。かつてスカウトにやってきたハリス氏と同程度の、流暢な日本語である。
そちらの指示に従って更衣室に向かってみると、今度は白人の女性が待ち受けている。そこで手渡されたのは、目にも鮮やかなブルーの試合衣装であった。
更衣室では、数名の女子選手たちが着替えを始めている。その中に多賀崎選手の姿を発見した瓜子は、思わず胸を撫でおろすことになった。
「多賀崎選手、おひさしぶりです。今日はどうぞよろしくお願いします」
こちらを振り返った多賀崎選手は、「ああ」と口もとをほころばせる。
「猪狩も一緒だったんだね。あんたたちの顔を見ると、ほっとするよ」
多賀崎選手はプレスマン道場での出稽古を取りやめていたため、顔をあわせるのは壮行会以来の半月ぶりとなる。しかしその顔にはこれまで通りの穏やかな表情がたたえられていたため、瓜子のほうこそ胸が締め付けられるぐらい嬉しかった。
「さっきまでは御堂さんも一緒だったんだけど、あっちはあたし以上にこういう場が苦手みたいでさ。相乗効果で、余計に緊張してきちゃったんだよ」
「押忍。自分も撮影は大の苦手っすよ。こっそり見守ってるんで、頑張ってくださいね」
すると、多賀崎選手の向こう側で青いウェアに袖を通していた人物が、「んー?」と顔を突き出してきた。
「ああ、誰かて思うたらアイドルコンビか。どうりで甘ったるいニオイがすると思うたわ」
それは、『アクセル・ロード』の参加選手で唯一面識のなかった人物、天覇館福岡支部の鬼沢いつき選手であった。
男のように厳つい顔つきで、短い髪は金色に染めあげている。逞しい上腕に刻みつけられているのは、和柄のタトゥーだ。武道精神で知られる天覇館には珍しい、彼女はアウトローな容姿の選手であった。
「あんたはそっちんビッチ女にひっついて、あちこちで脱ぎまくっとーっちゃろ。それで撮影が苦手だなんて、笑わせるね。女相手にぶりっ子したっちゃ、なんの得にもならんちゃろうに」
「……初対面の相手に、ずいぶん失礼な物言いっすね。自分はともかく、ユーリさんに失礼な口を叩くのはご遠慮願えますか?」
「そっちこそ、先輩選手に対する態度がなっとらんね。そげんアイドル面で凄まれたって、ビビる人間なんじゃいやせんばい」
鬼沢選手はにやにやと笑いながら、肩をそびやかして更衣室を出ていった。
「……あいつがあんな調子で絡んでくるから、御堂さんも逃げ出すことになったんだよ。どうもあいつは、天覇館の名物選手らしいね」
多賀崎選手が、溜息まじりに説明してくれた。
瓜子はむかむかと煮えたつ腹をなだめながら、「そうっすか」と応じてみせる。
「こっちでもコーチ陣が情報収集してくれたんで、あの選手が天覇館の大会を主軸にしてるって話はうかがってました。でも、天覇館のイメージダウンになりそうなお人柄みたいっすね」
「ああ。もともとは、《黒武殿》で男相手に喧嘩マッチをしてたらしいからね。それで更生して、天覇館に入門したみたいだけど……あれで本当に更生できてるのかねぇ」
《黒武殿》とは赤星道場ともゆかりの深い、地下格闘技の興行である。そして彼女はその時代に《レッド・キング》にも出場しており――まだ若手選手であった頃の青田ナナを血祭にあげていたのだった。
しかしそれは三年も前の話であり、それ以降は《レッド・キング》に出場していない。本当は赤星弥生子とも対戦する予定であったのだが、彼女は福岡という遠方の選手であった上に、素行不良で所属のジムを追い出されることになったのだ。それから更生して天覇館に入門したのだと、瓜子もそのように聞いていたのだが――現時点では《レッド・キング》の試合映像しか入手できておらず、現在の実力は未知数であった。
「鞠山さんに聞いたところ、天覇の試合で反則をしたことはないって話だけどね。それでもやっぱり、かなりのラフファイターみたいだよ。あんなやつと同じ合宿所で過ごすなんて、想像しただけでうんざりだ」
「あははぁ。ユーリはああいう悪意たっぷりのお人のほうが、気軽におつきあいできますけれどねぇ」
色香にあふるる肢体をさらしつつ、ユーリがふにゃふにゃとした笑顔でそんな風に言いたてると、多賀崎選手はびっくりまなこでそちらを振り返った。
「あんた、マジで言ってるの? ……まさか、あんなやつがあたしや御堂さんよりつきあいやすいなんて言わないだろうね?」
「え? いや、それはその……多賀崎選手や魅々香選手ですと、ユーリのお馬鹿な発言で嫌われてしまうのではないかという不安感が生じてしまいますため……あまりお気軽に口を開けないのですぅ」
ユーリがもじもじとしながら答えると、多賀崎選手は困ったような顔で笑った。
「そんな色っぽく身体をくねらせながら、そんな言葉を吐かないでよ。……まったく、猪狩の苦労がしのばれるね」
「押忍。多賀崎選手に共感していただけたら、心強い限りです」
「にゅわー! ユーリをダシにしてお二人が仲良くするのは、とても理不尽なのですー!」
そうしてユーリが騒いでくれたために、鬼沢選手からもたらされた悪い空気も完全に払拭できたようであった。
ユーリはぶちぶちとぼやきながら、試合衣装を身につける。それでユーリと多賀崎選手が並んで立つ姿を見た瓜子は、大きな感慨にとらわれることになった。
「なんか……お二人が『アクセル・ロード』に挑戦するんだっていう実感が、ふつふつとわいてきたっすよ」
二人が身につけたのは、青地に白いラインが入ったハーフトップとファイトショーツである。そしてその胸もとと腰の右側には、『アクセル・ロード』の名が英字でプリントされていたのだった。
そうして隣のメイク室に移動してみると、先行していた選手たちが外国人のメイク係に顔や髪をいじられている。そしてその措置を終えたメンバーは、自らの手でオープンフィンガーグローブを装着していた。
その場に集められたのは、非常要員であるマリア選手を除く八名だ。
ユーリ、多賀崎選手、魅々香選手、沙羅選手、沖選手、青田ナナ、宇留間選手、鬼沢選手――これが、『アクセル・ロード』にエントリーされた日本陣営の精鋭たちであった。
その全員が、同一の青い試合衣装に身を包んでいる。
きっとシンガポールでは、赤い試合衣装を纏った選手たちが撮影されているのだろう。
これからおよそ三ヶ月後、十六名がかりのトーナメント戦が開始され――そこで決勝戦まで勝ち上がった二名だけが《アクセル・ファイト》の公式大会に出場し、そしてそこで勝利した一名だけが、《アクセル・ファイト》と正式に契約を交わすことがかなうのだ。
今さらながら、瓜子は胸が詰まる思いであった。
(こんなにすごい顔ぶれがそろってるんだから、どこで負けても不思議はないけど……でもあたしは、ユーリさんが優勝するって信じてますよ)
もしもユーリが優勝したならば、来年からも何かと不自由な生活を送ることになる。
しかしたとえそうだとしても、瓜子がユーリの敗北を願うわけにはいかなかった。
ユーリはその身の熱情に相応しい栄光をつかみとるべきであるのだ。
だから瓜子は胸中に渦巻く寂寥や不安の気持ちをねじふせて、心の底からユーリの勝利を願うことができるのだった。
「ジュンビはよろしいですか? それではまず、ゼンタイシャシンからサツエイします」
八名の選手たちがメイク室を出ていくと、さきほどの人物がにこやかに声をかけてくる。
そうしてその日の撮影は開始され――ユーリを含む八名の選手たちは、来たるべき決戦の日に向けて静かにアイドリングを始めることに相成ったのだった。