03 露見
「よお、今日も仲良くもつれあってんな、お前ら」
サキと同じぐらい口の悪いサイトーが、汗をふきながら近づいてくる。
瓜子はサイドポジションでユーリにのしかかられ、何とか体勢を入れ替えようと四苦八苦している最中だった。
「お前らのおかげで、女子の総合部門もちっとは活気が出てきたみたいだな。……しかしなあ、寝技の稽古ってのはそんなに楽しいもんかねぇ?」
「楽しいですよぉ。サイトー選手も、混ざりますぅ?」
「ふん。女同士で組んずほぐれつなんて性に合わねえや。立ち技のスパーが御入り用の際はお申しつけくださいませ、だ」
ユーリとサイトーの貴重な会話シーンである。
それはいいのだが、やっぱりユーリの身体は重くて、上に乗られるだけで息が切れてしまう。
「それにしても、サキのやつはまだサボりかよ? 立松っつぁんの説教も効果なしだったか。……この前の試合は勝てたからいいようなものの、やっぱり動きにキレはなかったし、へぼい右フックでダウンくらってたし、そろそろシャレになんねえよなあ」
「そうですねぇ。ユーリもすっごくさびしんですよぉ」
「試合直前の追い込み期間に顔を見せないなんて、普通じゃねえよな。あいつ、何かあったのかよ?」
「あれぇ? 立松コーチから聞いてなかったんですかぁ? サキたんは、ちょっと実家がバタバタしてるらしいですよぉ」
ユーリの返事に、サイトーは「実家?」とけげんそうに眉をひそめた。
「はい。何でも妹さんが入院されたそうで、その看護が大変らしいっす」
これぐらいのことは、話してもかまわないだろう。
というか、それぐらいのことしか瓜子たちも聞いてはいないのだ。
サイトーは何やら思わしげな顔つきで黙りこみ、その代わりとばかりに立松コーチがリング上から大声を張り上げてきた。
「よし、それじゃあ今日はここまでだ! 各自ダウンをして、解散!」
時刻は夜の十時ジャスト。自由練習の夜の部も、無事にお開きと相成った。
本日はなかなか盛況で、MMA部門とキック部門を取り混ぜて二十名以上の選手たちが閉館時間まで居残っていた。いずれもプロ選手か、プロを目指す若手の選手たちである。
ようやくユーリの重圧から解放された瓜子は、入念にストレッチをして、水分とプロテインを摂取してから、後片付けと清掃作業に従事する。本日は、MMA部門の道場生が清掃を受け持つ曜日であった。
そうして最後の仕事を終えてから、ユーリと二人で更衣室に向かう。キック部門には数多くの女子選手が存在するが、MMA部門にはプロアマ関係なく瓜子たちしか選手は存在しないのである。
キック部門の女子選手たちも、露骨にユーリを嫌ったりはしていないものの、摩擦が生じないよう意識的に距離を取っているふしがある。キックの選手としてもトレーニングを積んでいる瓜子はいくぶん板挟みの格好となってしまっているが、今のところ大きな問題は生じていない。
ともあれ、余人の目がないほうが、ユーリものびのびできるのだろう。二人きりの更衣室でシャワーを済ませたユーリは、下着姿のまま誰をはばかることなく「うーん!」と満足げな声をあげた。
「今日もいい汗かいたなぁ! うり坊ちゃん、寝技の逃げ方がメキメキ上達してきたねぇ?」
「仕掛けてくれれば、まだ逃げられるっすけどね。何にもしないでただ上に乗られるのが一番きついっす。……ユーリさんって、本当に六十キロ未満なんすか?」
「ししし失礼な! ユーリが体重詐称しているとでも? この鍛えぬかれたボディの、どこにムダ肉があるというのだねっ!」
頭をふいていたタオルを放り出し、下着姿でマッスルポージングをとる。
どれがムダ肉でどれが筋肉なのか、いまだに瓜子には見当がつかない。
「おかげさまで、この前の試合では相手の身体が軽く感じてしかたがなかったっすよ。ユーリさんに乗られると、男子選手に乗られるより重く感じるんすよねえ」
「うぬぬ。それはユーリの重心のかけかたがお上手だからだよっ! ユーリだって試合の直後なんだから、六十キロはこえてないはずっ!」
「ムキにならないでください。……そして、とっととその裸体を隠してほしいっす」
「ふーんだっ! ちょっとスレンダーだからってイバっちゃってさぁ! なんだいこのかわゆらしいヒップラインはっ! にくたらしいっ!」
「さわらないでください! ……百五十二センチで五十二キロ前後の女を、世間じゃスレンダーとは呼ばないっすよ。むしろ百六十七センチで六十キロ未満のユーリさんのほうが、数字的には細身なんじゃないんすか?」
「……数字的には、という一文に悪意を感じる」
ぶちぶちとぼやきながら、ユーリはシャワーで濡れた髪をドライヤーで乾かし始める。
そんなユーリを横目で眺めつつ、瓜子はロッカーの内側に設置された鏡の前に立ちつくした。
筋肉は、脂肪より重い。よって、一般女性よりも数字的には重い(らしい)瓜子も、外見的にはちょうど標準体型に見えるぐらいだろう。なおかつ、重みの大半は骨の密度に回されているのではないかと揶揄されるぐらいなので、瓜子は体重よりも細く見えるタイプなのだろうと思う。
しかし、ユーリは――よくわからない。そのやわらかい肉が本当に筋肉ならば体重が軽すぎる気がするし、また、肉感的だが腰のくびれたモデル体型なので、六十キロ近くもあるとは思えない、という見方もできる。何にせよ、外見的には非の打ちどころもないプロポーションだ。
(……こんな美人で、こんなにスタイルのいい娘さんが、弱っちいくせにファイター面してたら、そりゃあムカつくよな……)
瓜子だって、かつてはユーリを嫌っていた。
それは、ユーリが真面目にトレーニングをしているとは思えないような身体つきをしており、なおかつ外見通りの情けない試合っぷりをさらしていたからだ。
しかし、すべては誤解だった。
ユーリは誰よりも熱心にトレーニングを積んでいたし、筋肉が筋肉に見えないのはちょっとした特異体質にすぎなかったし、努力の結果が試合に反映されないのは、ただひたすらに戦略がマズいせいだった。
誤解は、解けたのである。
もはやユーリを弱いと罵ることは、どこの誰にもできないだろう。
だが───
ユーリは、名ばかりの格闘家でないということを証明した。それで瓜子のように認識をあらためた者は少なくないと思うが、しかし───それでいっそうの怒りと憎しみをかきたてられる者もまた、少なくはないのではなかろうか?
瓜子は、そんな風に思ってしまう。
「よーっし、お支度完了!」
着替えを済ませたユーリが、笑顔で瓜子を振り返る。
有名ブランドの、シンプルだが小洒落たタンクトップ。デニムのショートパンツに、でかいバックルの革ベルト。白い喉咽もとにはシルバーのネックレスが光り、耳にはピアス風のイヤリング。
日中は日焼け対策で夏用のカーディガンとレギンスも身につけていたが、暑いのでボストンに仕舞いこんでしまったのだろう。
長い髪はゆるくまとめて右肩に垂らし、カラフルなキャップと黒ぶち眼鏡で申し訳ていどに人相を隠している。が、そんなものでは隠しきれない魅力と色香で、帰り道にも嫌というほどの視線を集めてしまうに違いない。
ユーリは、美人だ。
どんなときでも、色気とフェロモンに満ちあふれている。
それにつけ加えて、着飾ることが大好きである。ファッションセンスも並ではない。仕事と稽古の合間をぬって、エステや美容院にも通いたおしている。接触嫌悪症なのだから、エステなどは地獄の苦しみであるらしいのだが、それでも歯をくいしばって、ユーリはおのれの美容に磨きをかけているのである。
ユーリの付添人としてテレビ局や撮影スタジオに出向くことはしょっちゅうだが、瓜子はいまだにユーリよりも華やかなオーラを持つ芸能人とは出くわしたことがない。
ユーリはやはり、天性のスターなのである。
優れた容姿も、超絶的なスタイルも、抑制しようもない色香とフェロモンも、すべては天から与えられた才能であり、ユーリはそれを忠実に磨きこんでいるにすぎない。
(そんな女が、格闘家としてもぞんぶんに強いなんて、そんな理不尽な現実は許せない! ……って思う人は、そりゃあ大勢いるだろうなあ)
瓜子だって、何も感じないわけではない。何せ瓜子は四六時中、この色っぽい娘さんと行動をともにしているのだ。自分の頭上を通りすぎて、男どもの視線はユーリにのみ集中する。それで何も感じないほど、瓜子も朴念仁ではない。
しかし、ユーリを羨ましいとは思わないし、色香にひかれた男たちにわさわさと言い寄られてしまう身の上は、むしろ気の毒にさえ見える。やっぱり美人は得だなあと思ったのは、ものすごく正直に心情を吐露してしまうと、ユーリがリング上でレオポン選手に告白されたときぐらいだった。
それはたぶん、レオポン選手がユーリの外見のみならず、ファイターとしても深い尊敬と共感を得た上で、ユーリに魅了されたからなのだろう。
そして、そのときでさえ、瓜子は嫉妬などするよりも、ユーリが正しく認められたという誇らしさと、それに、どんな相手の思いも受け止めることはできないユーリの因果な体質への切なさで、胸がいっぱいになってしまった。
単純に、相性の問題なのだろうか。腹立たしく思うことは多くても、瓜子はユーリを憎んだり恨んだりしたことは、一度としてない。羨望したり、嫉妬したりすることもない。
しかし───そうでない人間はたくさんいるだろう、と思うのだ。
ものすごい美少女で、言語道断なプロポーションと垂れ流しのフェロモンを有し、それでいて、格闘家としても強い。そんな恵まれた人生が許せるはずもない、という憎しみにとらわれてしまう人間が。
出る杭は打たれる。沙羅選手はそんな風に言っていた。
ユーリが弱ければ、軽蔑し、嘲るだけで、気持ちも済む。
だが、その非凡な強さまでもを証明してしまった現在は、ユーリを見直す人間が増えるのと同時に、これまで以上にユーリを憎み、疎ましく思う人間も増えるのではないだろうか。
《アトミック・ガールズ》の舞台裏を垣間見てしまった瓜子には、そんな風に思えてしかたがなかった。
「うむぅ……うり坊ちゃんは、ユーリを誘惑しているのかしらん?」
「……は?」
黒ぶち眼鏡の向こう側から、ユーリが奇妙な目つきで瓜子を眺めていた。
何とも表現し難い目つきだが、あえて言葉をひねりだすなら、ユーカリの葉を見つめる空腹のコアラみたいな目つき、といったところだろうか。
「だってぇ、そんな悩殺なお姿のまま、ぼんやり立ちつくしているのですもの。神聖なる道場内でふしだらな行為におよぶのは気が進まないのでガマンしておりますけれども、ユーリもそろそろ限界ですわよ、うり坊ちゃん?」
「な、何をわけのわからんことを言ってるんすか! それ以上、近づかないでください!」
瓜子は着替えの途中であることも失念して、下着姿のまま物思いにふけってしまっていたのだった。
慌てて新しいTシャツに首を通しながら、瓜子は前蹴りでユーリを威嚇する。
「だ、だいたい誘惑だのふしだらだのって言い草は何なんすか! ユーリさんは、同性愛者じゃないんすよね?」
「うむ。しかしうり坊ちゃんのぬくもりを渇望するこの思いは、一般的に恋愛感情と呼ばれるものとそう大差はないんじゃないかと最近になって思いいたったのだよ。……恋愛感情か、あるいは性的欲求なのかもしらん」
じり、と不穏に腰を落とし、長い腕をレスリング風にひろげ始める。
「パンツ姿で蹴りを放つそのかわゆらしさが、またたまらん。うり坊ちゃん、今宵はちょいと危険な一線を踏みこえてみんかね? 新しい世界がひろがるかもしれんぞよ?」
「絶っっっ対にゴメンっす! 新しい世界にはひとりで旅立ってくださいっ!」
「ちぇーっ。けちんぼー」
春先にユーリからプレゼントされたデニムに足を通し、大騒ぎしながらようやく更衣室を出る。
すると、だいぶん人影の少なくなった道場で、なぜかサイトーが待ち受けていた。
「おっせえなあ。帰り支度にどんだけ時間がかかってんだよ。まさか、神聖な道場でふしだらな行為におよんでたんじゃねえだろうな?」
「バ、バカなことを言わないでほしいっす! そんなわけあるはずないじゃないっすか!」
「だってお前ら、異様に仲がいいんだもんよ。……ま、そんなことより、話があるんだわ」
サイトーも、とっくに私服姿である。黒いTシャツに迷彩柄のハーフパンツで、トレーニングウェアとあまり印象は変わらない。
「……オレはさあ、気になったことはその日のうちに片付けておかねえと気がすまねえ性分なんだ。隠し事だ何だってのも、腹にはためておけねえ。だから、話していいことなのかもよくわからねえんだけど、オレがスッキリするために話させていただく」
「はあ。いったい、どうしたんすか?」
何かサイトーの機嫌を損ねることでもやらかしてしまっただろうか。瓜子は少し緊張して背筋をのばした。
そんな瓜子と、相変わらずとぼけた表情をしたユーリの姿を見比べながら、サイトーはゆっくりと語りだす。
「サキのやつに、兄弟はいねえ。あいつには家族ってもんが存在しねえんだから、妹なんているはずもねえんだ」
「……はい?」
「あいつは捨て子で、施設育ちなんだよ。だから妹なんているはずもねえし、そもそも帰るべき家もねえ。実家がバタバタしてて、入院した妹の面倒をみてるなんてのは、何から何まで嘘っぱちってことだな」
瓜子は、とっさに返事をすることもできなくなってしまっていた。
思考停止だ。何も考えられない。
サキが……捨て子?
施設育ち?
ユーリと瓜子に、嘘をついた?
どうして? 何のために?
「……オレはあいつの入門当時からのつきあいだからな。何だかんだで、もう五年ぐらいにはなるのか。それほど気が合うってわけでもねえけど、まあ大雑把な性格が似てたから、他の連中よりはよくつるんでたほうだと思う。あいつの詳しい素性なんて、オレぐらいしか知らねえんだろうな」
「…………」
「だけど、そっちのアイドルちゃんが一年前にやってきてからは、今まで見たことがないぐらい熱心に面倒をみてやってたからよ。ちっとおかしな組み合わせだけど、ようやく気の合う相手を見つけられたのかって、オレも肩の荷をおろした気分だったんだ。……だから当然、オレが知ってることぐらいはとっくに聞いてるもんだと思ってたぜ」
「……はあ」
困惑顔で、ユーリは小首を傾げている。
ユーリは、いったい何を、どう感じているのだろう。
「ま、そんなわけでな。あいつがお前さんたちに隠し事をしたり嘘をついたりしてるってのがムカついた。だからこうやって、よけいなおしゃべりをさせていただいた。隠し事をバラされてムカついたんなら蹴り殺しに来いって、サキの大馬鹿に伝えといてくれや。……それじゃあな」
そう言って、小柄な大先輩はさっさときびすを返し、道場を出ていってしまった。
瓜子はやはり、何も考えられない。
それからどれぐらいの時間が経過したのか。瓜子は突然やわらかく肩をゆさぶられて、現実世界に引き戻された。
「うり坊ちゃん、横浜に行こう」
あっけらかんとした表情で、ユーリは短くそう言った。