04 最終日
その後も合同合宿稽古は、問題なく進められていった。
三日目と四日目の平日は五名ものメンバーが離脱してしまったため、いささかならず物寂しいところであったものの、卯月選手のおかげもあって、充実した稽古を積むことができたのだ。
この合宿稽古が終了したならば、すぐさま《アトミック・ガールズ》五月大会の開催二週間前となり、調整期間に突入してしまう。それで悔いが残らないようにと、そちらの出場選手たちはいっそうの気合で稽古に臨んでいるようである。ただし、試合の予定がないメンバーに関しても、気合のほどではまったく負けていなかった。
そうして訪れた、合宿稽古の最終日――瓜子たちは、その日に珍客を迎えることになった。
かねてより陣中見舞いを希望していた、『トライ・アングル』の面々である。彼らは夜の打ち上げに参加するべく、けっきょくこの最終日に見学することに相成ったのだった。
「うわ、マジで卯月選手だ! 俺、《アクセル・ファイト》の試合は毎回チェックしてますよ!」
鍛錬場にどやどやとなだれこんでくるなり、そんな風に声をあげたのは、『ベイビー・アピール』のドラマーたるダイであった。この中でもっとも格闘技観戦に熱心であるのは、彼と西岡桔平であったのだ。
時刻は午後の一時半で、瓜子たちはウォームアップを開始したところである。そんな中、元気な声で彼らを出迎えたのは、やはり灰原選手であった。
「ほんとにこんな時間から来たんだね! 打ち上げの開始は、たぶん八時過ぎになっちゃうと思うよー?」
「かまわねえさ! トレーニングの見学だって、打ち上げと同じぐらい楽しみにしてたんだからな!」
タツヤが笑顔で応じると、リュウや西岡桔平も同じ表情でうなずいた。
そのかたわらで、山寺博人はそっぽを向いており、陣内征生は目を泳がせている。なんと本日も、漆原を除く全員が集結してしまったのである。ここ最近で《アトミック・ガールズ》のファンになったらしい陣内征生はともかくとして、山寺博人までもが見学におもむいてくると聞かされた際には、瓜子も耳を疑ったものであった。
「絶対に稽古の邪魔はしないんで、どうぞよろしくお願いします! ……それであの、夜になったら写真とかサインとかお願いできますか?」
他の面々が騒いでいる間にも、ダイは卯月選手にそんな言葉を投げかけていた。
卯月選手は内心の読めない細い目で、ダイの恐縮しきった髭面を見返す。
「申し訳ありませんが、写真の類いはお断りしています。こちらはマネージメント部のスタッフと取り決めた話ですので、どうぞご了承ください」
「そ、そうですか。それじゃあ、サインは……?」
「サインを断るという取り決めはしていません。……よろしければ、そちらのサインもいただけますか?」
「え? 俺のサインなんて、どうするんです?」
「ユーリさんの参加されている『トライ・アングル』のミュージック・ビデオというものは、動画で拝見していました。俺は音楽の素養など欠片もないのですが、あれらの楽曲には大きく心を動かされたのです。可能であれば、この場にいらした全員のサインを頂戴したく思っています」
ダイが言葉を失うと、灰原選手がその間に「えーっ!」と声を張り上げた。
「あんた、『トライ・アングル』のファンだったの? そんな話は、これまで一回もしてなかったじゃん!」
「取り立てて、語る必要は感じていませんでした。合宿稽古を終えたのちには、ライブDVDというものも購入させていただく予定です」
そんな風に告げてから、卯月選手はウォームアップに励む瓜子たちのほうに視線を戻した。
「ですが、すべては本日の稽古を終えてからです。見学の方々は邪魔にならない場所でお控えください」
「はい。どうぞよろしくお願いします」
『トライ・アングル』の良心たる西岡桔平が一礼し、他のメンバーたちを壁際のスペースにまで導いていった。
すると灰原選手が、瓜子にこっそりと呼びかけてくる。
「それにしても、あの不愛想なヒロ坊まで出向いてくるとはねー。あいつやっぱり、うり坊狙いなんじゃないの?」
「やめてくださいよ。悪い冗談です」
「でもさー、あいつがうり坊にかまうのって、ぶきっちょなアプローチに見えてしかたないんだよねー。それでうり坊のほうは昔っからのファンだったんだから、もしかしたらの展開もありえるんじゃないのー?」
「ありえませんよ。ファンだからこそ、プライベートでは関係を持ちたくありません」
なおかつ、山寺博人は妻帯者であるのだ。それが世間に隠匿されているものだから、灰原選手もこのような懸念を抱いてしまうのだろうと思われた。
ともあれ、稽古に集中である。『トライ・アングル』のメンバーだって大勢の人間の前でリハーサルなどに取り組んでいるのだから、瓜子も彼らに恥ずかしい姿は見せられなかった。
「今日は合宿稽古の最終日なので、各自、思い残すことのないように。また、最後まで気を抜かず、集中して取り組んでもらいたい」
来栖舞の号令によって、午後の稽古が開始された。
まずは恒例となった、立ち技と寝技のサーキットだ。その時点で見物人の何名かは感嘆の声をあげていたが、それぐらいで文句をつける人間はいなかった。
そうして完全に身体が温まったならば、個別稽古に移行する。
まずは、インファイト対策とアウトスタイル対策の、同時進行である。インファイターとアウトファイターで対戦して、それぞれの技量を磨きつつ、相手のスタイルを攻略しようという稽古内容だ。
インファイターに組分けされたのは、瓜子、メイ、多賀崎選手、小柴選手、鞠山選手で、アウトファイターに組分けされたのは、サキ、愛音、灰原選手、小笠原選手、オリビア選手となる。ただし鞠山選手だけは、アウトファイターに対して自身もアウトスタイルで臨むという特別な内容になっていた。
また、小笠原選手やオリビア選手は決してアウトファイターではないのだが、秀でたリーチを持つ両者が逃げに徹すると、つかまえるのはひと苦労であるのだ。アウトスタイル対策が必要な面々には、実にありがたいスパーリングパートナーであった。
手余りとなったユーリと魅々香選手は、ひたすらレスリングとグラップリングの稽古だ。ユーリとそのような稽古に取り組むのは地獄そのものの過酷さであるのだが、魅々香選手は何日も前から不屈の闘志でこの時間を乗り越えていたのだった。
瓜子たちは防具もフル装備で、三分五ラウンドの立ち技スパーを開始する。組み技ありで、どちらかがテイクダウンに成功したならスタンドに戻って再開という段取りである。
言うまでもなく、瓜子にとって楽な相手というものは存在しなかった。
あえて言うならば愛音は怖い存在ではないものの、あちらも瓜子の手の内を知り尽くしているため、仕留めるのは非常に難しい。それに、愛音のステップワークとて、もはやアマチュア選手のレベルではないのだ。こんなにしょっちゅうスパーを重ねていなければ、愛音ももっと怖い存在になっているはずであった。
(それに邑崎さんは、攻撃のリズムが少し変わってきたよな)
それはきっと、初日に卯月選手から受けた指導の賜物なのだろう。持ち前のスピード感を維持しながら、愛音にはかつてなかった落ち着きが感じられた。それでいっそう油断のならない相手に成長したのである。
灰原選手はアウトファイターの側に割り振られるぐらいステップワークが磨き抜かれたし、サキの動きも鋭さを増すいっぽうだ。自分はどれだけ稽古相手に恵まれているのかと、瓜子はもう何ヶ月も前からそんな思いを噛みしめっぱなしであったのだった。
「それはこっちの台詞だけどね! うり坊やメイっちょが相手になってくれたら、奥村なんてこれっぽっちも怖くないよ!」
インターバル中、灰原選手はそんな風に言っていた。
「確かにな」と相槌を打ったのは、指導役の来栖舞だ。
「猪狩くんたちと奥村では、まったくレベルが違っているだろう。ただし、攻撃のリズムというのは選手それぞれであるのだから、決して油断は許されない。慢心すれば、手痛いしっぺ返しをくらうことになるだろう」
「わかってますって! 油断も慢心もしないで、一ラウンドKO勝利を目指しまーす!」
灰原選手は、こういう強気な気性がいい方向に働いているのだろう。よって、来栖舞もそれ以上はたしなめようとしなかった。
他の面々も充足しきった面持ちで、水分補給に勤しんでいる。見学者たちの視線に集中を乱されることなく、いい稽古を積めているのだろう。瓜子自身、それは同様であった。
そうして最終日の稽古も、粛々と進められていき――おおよそ折り返しとなる午後の四時過ぎに五分間のインターバルが告げられたとき、見物人の中からタツヤが声をあげたのだった。
「ちょっとごめん! もう二時間以上はぶっ続けで稽古をしてるけど、休憩を取ったりはしないもんなんすか?」
汗だくの頭を二枚目のタオルでかき回していた小笠原選手は、笑顔でそちらを振り返った。
「だから、今がちょうど中休みだよ。これまでも、間にちょいちょいインターバルを入れてたでしょ?」
「で、でも、一分とか三分とかそんなもんでしたよね? こんな調子で、五時間の稽古を続けるんですか?」
「うん。あんまりインターバルが長いと、身体が冷えちゃうからね。もちろん事故がないように、疲れた人間は自由に休んでいいことになってるけど……今回は誰も音をあげないまま、最終日になっちゃったね」
「信じられねえ……だからユーリちゃんは、二時間以上のステージをこなしてもけろりとしてるんだなぁ」
タツヤの後方では、ダイたちも感服の面持ちになっている。
すると今度は、リュウがユーリに声をかけてきた。
「あのさ、実は俺、一発でいいからユーリちゃんの破壊力を体感したかったんだけど……やっぱり迷惑かなぁ?」
「ほえ? それって、キックミットでキックを受けるとか、そういうお話ですかぁ? それぐらいなら、いつでもどこでもかまいませんけれど」
「でも、たった五分しかインターバルがないなら、少しでも休んでおきたいだろ?」
「いえいえぇ。キック一発のカロリー消費など、たかが知れておりますのでぇ」
ユーリがふにゃんとした笑顔で答えると、どこからともなく卯月選手が忍び寄ってきた。
「であれば、怪我のないように細心の注意を払うべきでしょう。音楽活動に支障の出るような負傷をされては、一大事ですので」
「じゃ、俺たちが後ろからリュウの背中を支えてやりましょうかね?」
ダイが気安く声をあげると、卯月選手は「いえ」と無表情に却下した。
「それでは力の逃げ場が失われ、体内にダメージが溜まる恐れが生じます。俺が指導しましょう」
キックミットを装着したリュウに、卯月選手が姿勢の取り方を指南する。他の女子選手たちも思い思いに身を休めつつ、この見世物を見物していた。
「そう。足は無理に踏ん張らず、膝にクッションをきかせてください。ただし、肘と肩はしっかり固定して、キックが当たるまでは決してミットを動かさないように」
「こ、こんな感じですか? 踏ん張ってないと、後ろに吹き飛ばされそうな気がするんですけど……」
「吹き飛ばされれば、衝撃を逃がせます。俺がフォローしますので、心置きなく吹き飛ばされてください」
そんな恐ろしげな言葉を聞かされても、リュウは逃げ出そうとしなかった。
ユーリはにこにこと笑いながら、片目をつぶって距離を測っている。
「こっちは準備オッケーでぇす。リュウさんのほうは大丈夫ですかぁ?」
「よ、よし! どんと来い!」
「どんと行きまぁす」
ロングスパッツに包まれたユーリの右足が、ふわりと空を切る。
右の脛がミットに叩きつけられて、バシンッと鋭い音色が響いたが、リュウは何とか倒れずに済んでいた。
「うわ、重てえ! マジで男なみの破壊力だ! ……でも、今のって手加減してたよな?」
「はぁい。本気の三歩手前ぐらいですぅ」
「よし! それじゃあ、全力でお願いするよ! その一発で、満足だから!」
リュウがぐっと腰を落とすと、卯月選手が背後から声をかけた。
「足が、力んでいます。腰から下は、脱力してください」
「りょ、了解です!」
「ではでは、行きまぁす」
ユーリの右足がさきほどと同じ軌道で、倍ぐらいのスピードで振り上げられた。
鋭さと鈍さをあわせもった音色が鳴り響き、リュウは「うわあっ!」と後方に倒れ込む。その背中を、卯月選手が優しくキャッチした。
「完璧です。腕と肩にも、異常はありませんか?」
「は、はい。なんとか……うわ、マジで腕が痺れちまったよ」
卯月選手の手でキックミットを外されたリュウは、満面の笑みでユーリを振り返った。
「ありがとうな、ユーリちゃん。これだけでも、見学をさせてもらった甲斐があったわ。……こんなキックをモロにくらったら、そりゃあ秋代も一発KOだよなぁ」
「うにゃあ。それは言いっこなしなのですぅ」
すると、リュウを押しのけるようにして、タツヤとダイが身を乗り出してきた。
「あのさ! 俺たちは、瓜子ちゃんのパンチを受けてみたいんだけど!」
「え、自分っすか?」
瓜子はいくぶん当惑しながら、この場の責任者である小笠原選手のほうを振り返った。
「別に、インターバルの時間をどう使うかは、個人の勝手だよ。ちなみに、残り時間は二分ちょいね」
「押忍。それじゃあ、大急ぎで」
瓜子は拳サポーターを装着し、十六オンスのボクシンググローブに手をのばそうとした。
すると卯月選手が、別なるグローブを差し出してくる。これまでの稽古でさんざん使ってきた、八オンスのオープンフィンガーグローブだ。
「彼らが猪狩さんの破壊力を体感したいというのなら、こちらを装着するべきであるかと思います」
さらに卯月選手は、パンチングミットではなくキックミットをタツヤに差し出した。
「あなたがたは、こちらを。サイズの小さいパンチングミットでは受けるほうにも技量を要求されますし、手の平や指の骨を痛める危険も生じます」
「了解です! 至れり尽くせりで、感謝してます!」
キックミットを装着したタツヤが、瓜子の前に立ちはだかる。
瓜子は無難に、手加減をしたワンツーを繰り出してみせた。
「うわあ、やっぱ目の前にすると、すごい迫力だな! こっちは大丈夫そうだから、全力でお願いするよ!」
「押忍。自分のパンチ力なら、吹っ飛ばされることもないでしょうしね」
タツヤはひょろりとした体格であったが、それでも体重は六十キロ以上だろう。それを吹き飛ばせるようなパワーを持つのは、ユーリとオリビア選手と小笠原選手ぐらいのものであった。
それで瓜子は、全力のワンツーを叩き込んでみせたわけであるが――最後の右ストレートをミットで受けたとたん、タツヤが「いてーっ!」と悲鳴をあげたのだった。
「すっげー骨に響いた! こんな分厚いミットごしなのに、マジかよ!」
「感想は後にしとけよ! 時間がなくなるだろ!」
ダイがミットを強奪して、瓜子の前に進み出る。
瓜子が同じ調子でパンチを放つと、ダイもまた最後の右ストレートで悲鳴をあげることになった。
そして、いつの間にかダイたちの後ろに並んでいた西岡桔平も、キックミットを装着した。
瓜子は恐縮しながら、同じようにパンチを振るってみせる。
「ああ、本当に骨まで響きますね。この破壊力が、十試合連続KO勝利っていう記録を叩き出したわけですか」
この段に至って、瓜子はようやく理解した。十六オンスのボクシンググローブでは瓜子の拳の硬さもほとんど効力を失ってしまうため、卯月選手はこのように取り計らったのだ。
(それ以外の手段であたしの実力を示すとしたら、ラッシュをかけるしかないけど……それはさすがに、危なすぎるもんな)
瓜子がひとりで納得していると、新たな人物が進み出てきた。
その姿に、瓜子はぎょっとする。それは、山寺博人であったのだ。
「ヒ、ヒロさんもっすか? ヒロさんはこういうお遊びに興味はないかと思ってました」
「……うるせえな。時間がなくなるぞ」
山寺博人がキックミットを装着して、腰を落としている。その姿は、タツヤたち以上にシュールそのものであった。
瓜子はひとつ呼吸を整えてから、手加減したワンツーと本気のワンツーをミットに叩き込んでみせる。
それを受けた山寺博人は、不機嫌そうに顔をしかめた。
「……いてえよ、馬鹿」
「ば、馬鹿って何すか。ヒロさんが勝手に志願したんでしょう?」
そこで、タイマーのブザーが鳴らされた。
笑顔で立ち上がった小笠原選手が、パンッと手を打ち鳴らす。
「それじゃあ、インターバルはおしまいね。見学のみなさんも、お疲れ様でした」
山寺博人は卯月選手にキックミットを渡して、無言のまま引き下がっていく。その先では、タツヤたちが「いてーいてー!」とはしゃいでいた。
「思わぬ体験学習だったけど、これでまたあの人らも格闘技に対する興味が上乗せされたんじゃない?」
小笠原選手が、笑顔でそのように呼びかけてくる。
瓜子もまた、笑いながら「そうっすね」と答えてみせた。
そうして瓜子たちは残り二時間強となった最後の稽古をやりとげるために、気持ちを引き締めなおすことになったのだった。