05 終焉
瓜子は今度こそ、全身に冷水をあびせかけられたような心地であった。
ユーリが持ち前の頑丈さで、ようやく相手のリズムを崩しかけた瞬間――赤星弥生子の双眸が、血の色に染まったのである。
ユーリはさらに前進して、左のフックを振るおうとした。
そのときには、もう赤星弥生子の身がアウトサイドに跳んでいた。
そして、鉈のように重そうな右アウトローが、ユーリの左足に振り下ろされる。
ユーリは上体をぐらつかせながら、なんとか赤星弥生子のほうに向きなおろうとした。
そのときには、さらに大外に回り込んだ赤星弥生子が右ストレートを繰り出していた。
赤星弥生子の右拳が、ユーリの左こめかみに突き刺さる。
たまらず、ユーリは膝から崩れ落ちた。
赤星弥生子の動きが、人間離れした鋭さに変じている。
大怪獣タイムが発動されたのだ。
信じ難いことに、ユーリがマットに膝をつく頃には、赤星弥生子はその背後にまで回り込んでしまっていた。
ユーリの無防備な背中に、赤星弥生子が躍りかかる。
その右肘が、鈍器のように振り下ろされた。
反則となる後頭部を避けて、今度はユーリの右のこめかみに痛撃が加えられる。
ユーリは、棒のように倒れ込んだ。
そして赤星弥生子もまた、ほとんど同時にユーリの背中に覆いかぶさっていた。
バックマウントを取った赤星弥生子は、凄まじい勢いでパウンドを振るい始める。
二ラウンド目の猛攻とも比較にならないような、暴風雨そのものの勢いである。
ユーリはかろうじて頭部を抱え込んでいたが、その両腕がパウンドの一撃ごとに頼りなくたわんで、へし折れるどころか爆散してしまいそうだった。
しかしユーリはそれだけの攻撃をくらいながら、まだ意識を保っている。
その証拠に、ユーリは亀のように丸くなったまま、決して背中をのばそうとしなかった。そしてついには左手をマットにつき、立ち上がろうという素振りを見せたのだった。
しかし、自分だけ時間の流れから解き放たれたかのように、相手より先んじて動くことができるのが、大怪獣タイムの真骨頂である。
ユーリの左腕がガードを解除すると同時に、赤星弥生子はそこから側頭部に強烈なパウンドを撃ちこみ、さらにそのまま自分の左腕をユーリの咽喉もとに潜り込ませた。
チョークスリーパーを狙っているのだ。
赤星弥生子の左腕はすみやかにユーリの咽喉もとを通過して、ユーリの右肩をわしづかみにした。
あとは右腕でホールドすれば、チョークスリーパーが完成されてしまう。
その瞬間――ユーリの身体が、火山の噴火を思わせる勢いで起き上がった。
そしてその勢いのまま、背中に乗った赤星弥生子の身体をマットに叩きつける。
そうして仰向けになると同時に、ユーリは竜巻のように身をひるがえしていた。
胴体を両足でクラッチされ、咽喉もとに左腕を回された状態で、強引に身体を反転させてみせたのである。
ユーリが上で、赤星弥生子と正対する形になった。
しかしその頃には、赤星弥生子が両足を振り上げて腕ひしぎ十字固めを狙っていた。
ユーリは顔にかけられそうになった赤星弥生子の右足を振り払い、中腰の姿勢を取る。
すると赤星弥生子は、ユーリのお株を奪うように三角締めへと切り替えた。
ユーリはすぐさま体重をかけてその攻撃を押し潰すと、頭を抜いてサイドに回り込もうとした。
その頃には、赤星弥生子もまた腕ひしぎの体勢を取ろうとしている。
しかしユーリもそれを許さず、しっかりと腕をロックしながら、相手の頭をまたぎ越した。
ユーリも赤星弥生子も一瞬として動きを止めようとしない、それは流麗なる寝技の攻防であった。
去りし日の、ユーリとベリーニャ選手の対戦――あるいは、ユーリと卯月選手のスパーリングを想起させる光景である。
赤星弥生子は、すべてにおいてユーリの先を行っているように感じられる。
しかしそれはほんのわずかな差であり、なおかつ、ユーリは赤星弥生子よりもまさっている点――寝技における反応速度の鋭さと、パワーが存在した。
先手を取るのは常に赤星弥生子であるが、ユーリはぎりぎりのところで踏ん張っている。ユーリがこれまでに培ってきた寝技の技術と筋力と柔軟性が、ユーリを敗北から救っているのだ。
瓜子はほとんど忘我の状態で、その光景を見つめていた。
いつしか周囲では、多くの人々が歓声やら何やらをあげている様子であったが――それがどのような言葉であるのかも聞き取れない。二匹の竜がもつれあうような死闘のさまに、瓜子は魂を奪われてしまっていた。
しかしそれも、時間にすれば十数秒のことであったのだろう。
赤星弥生子が下からユーリの胸もとを蹴り飛ばし、後方回転して立ち上がったところで、夢のような時間は終了した。
ユーリはぜいぜいと息をつき、ぶるぶると両膝を震わせながら立ち上がる。
そして、それを迎える赤星弥生子は――ユーリよりも激しく肩を上下させていた。
試合の残り時間は、三十秒足らずである。
赤星弥生子が大怪獣タイムを発動させたのは、残り時間が一分を切った頃であったから――三十秒ていどが経過して、大怪獣タイムのリミットとなったのだ。
赤星弥生子は、完全にスタミナを使いきっている。
しかしユーリもまた激しく消耗している上に、数度にわたる頭部への攻撃によって足がふらついていた。
瓜子の周囲からも、観客席からも、咆哮のように歓声が吹き荒れている。
それに衝き動かされるようにして、ユーリが前進した。
そこに、赤星弥生子の前蹴りが繰り出される。
まるで力の入っていない、死にかけた老人のような動きだが――タイミングだけは、絶妙だ。
しかしみぞおちを蹴られたユーリは苦しげに身を折りつつ、ほとんど倒れかかるようにして右フックを繰り出した。
そちらもまた虫の止まるような動きであったが、赤星弥生子はまともにくらってしまう。
そして両者は、ノーガードで殴り合うことになった。
まるでユーリのデビュー戦のような、稚拙な殴り合いである。
しかし、攻撃が重ねられるごとに、どんどん勢いが乗っていき、最後には瀕死の獣が相争っているような光景が現出した。
おたがいの拳が容赦なく顔面を撃ち、赤いしぶきを四散させる。両方の目尻の傷口が開いた赤星弥生子は、赤い目から血の涙を流しているような有り様であった。
いっぽう、ユーリは――右目の上がぼこりと膨れあがり、右目の下に大きな青痣の浮いた、怪物のごとき面相である。
しかし、左側のカメラから映されるユーリの横顔にはひとつの傷もなく、元の美しさを保ったままであった。そして凄惨な殴り合いに没頭しながら、ユーリはまるで笑っているかのようであった。
赤星弥生子は決死の形相で、右の拳を振りかぶる。
その右フックをまともにくらったユーリは、膝から崩れ落ちた。
悲鳴じみた喚声がわんわんと反響し、瓜子でさえもがユーリの敗北を確信した。
だが――
マットに両膝をついたユーリは、そのまま赤星弥生子の胴体にしがみついた。
それはあまりに弱々しい姿で、ユーリはもはや意識を失っているのではないかと思えるほどであったが――次の瞬間、ユーリの身が再び活火山のような勢いでのびあがったのだった。
腰のあたりを抱えられた赤星弥生子の身は、天を突くように高々と持ちあげられる。
そうしてユーリは再び竜巻のように身をひねり、赤星弥生子の身を背後のマットに叩きつけた。
かろうじて頭をかばった赤星弥生子は、そのままぱたりと両腕をマットに落とす。
まだ赤星弥生子の腰をホールドしていたユーリは、亀のように鈍重な動きでサイドポジションに移行し、右腕を振り上げた。
きっとユーリはマニュアル通りに、十発のパウンドを叩き込もうとしたのだろう。
しかし、その右腕は途中でレフェリーにつかみ取られることになった。
ユーリはきょとんとした顔で、レフェリーを振り返る。
レフェリーは首を横に振り、ユーリの肩を二度ほど叩いてから、両腕を頭上で交差させた。
それとほとんど同時に、試合終了のブザーが鳴らされる。
その間、大の字になった赤星弥生子はぴくりとも動いていなかった。
何か、エアポケットに落ち込んだかのような静寂が世界を包み込み――次の瞬間、それは天地を揺るがすような大歓声に叩き壊された。
そして、激流のように渦を巻く歓声の向こう側から、アナウンスの声がうっすらと聞こえてくる。
『三ラウンド、四分五十九秒! フロントスープレックスによるレフェリーストップで、ユーリ・ピーチ=ストーム選手のTKO勝利です!』
ユーリは立ち上がる力も残されていないらしく、ぺたんと座り込んだままレフェリーに右腕を掲げられている。
そのかたわらに仰向けで倒れ込んだ赤星弥生子は、ただ胸もとだけを激しく上下させながら、じっと天を仰いでいた。
赤星弥生子は、意識を失ってはいない。その証拠に、彼女はうっすらと目を見開いていた。
毛細血管が破裂して、その目は真っ赤に染まってしまっている。
そして左右の目尻から流れる血が、赤い涙のようにこめかみに伝っていた。
しかし――
赤星弥生子は、満足そうに微笑んでいた。
その赤子のように安らかな微笑みを見た瞬間、瓜子は目の奥から熱いものがあふれかえってくるのをこらえきれなくなってしまったのだった。