04 さらなる死闘
インターバル中、ユーリと赤星弥生子は交互にドクターチェックを受けていた。
ユーリは右頬の青痣がひどく、赤星弥生子は左右の目尻から出血していたためである。
しかし、ドクターストップがかけられることはなかった。ユーリの顔はひどい有り様であったがそれほど腫れたりはしていないので、骨折までには至っていないのだろう。赤星弥生子の出血も、簡単な処置ですぐに止められたようだった。
「あー、ひやひやした! ここまで追い込んで両者ドクターストップの無効試合なんて、冗談じゃないもんねー!」
と、灰原選手を筆頭とする控え室の何名かは、ユーリの奮闘ぶりにわきたっていた。
が、立松を筆頭とする何名かは、これまでと変わらぬ切迫した表情でモニターを見つめている。瓜子も、そちらの側であった。
確かにユーリは底力を見せて、いったんは試合を優勢に進めることもかなったが、赤星弥生子はまだ大怪獣タイムを温存しているのだ。
ユーリがマウントポジションに移行しないであのままパウンドを振るい続けていたならば、赤星弥生子も大怪獣タイムを発動させるしかなかっただろう。そうしたら、ユーリは逆転負けされてしまっていたのか、それとも致命的な反撃を受ける前にラウンドが終了して、赤星弥生子がすべてのスタミナを使い果たすことになったのか――それは、神のみぞ知ることである。
よって、マニュアル通りにパウンドを十発で取りやめたユーリの判断が正しかったかどうか、それを決めるのは最終ラウンドの結果次第である。
勝負に「たられば」は存在しない。とにかくユーリは悔いの残らないように、すべての力を出し尽くすしかなかった。
一分間のインターバルはあっという間に終了して、最終ラウンドのブザーが鳴らされる。
客席は、もはや歓声の坩堝である。
しかし、赤星弥生子はこれまでと変わらぬ静謐さで、ケージの中央に進み出た。
二十発ものパウンドをくらい、その後にはそれ以上の攻撃を返したというのに、彼女は平静そのものであった。
目尻の出血は止められているし、そのすらりとした長身には力があふれかえっている。
是々柄のマッサージングによって、可能な限りの回復が為されているのだとしても、やっぱりそれは見る者の心胆を寒からしめるようなたたずまいであった。
いっぽうユーリはムエタイ流のアップライトスタイルで、小さくステップを刻んでいる。
そちらに無造作に近づいた赤星弥生子は、これまででもっともやわらかい動きで関節蹴りを放った。
ユーリはバックステップで回避して、すぐさま前進の挙動を見せかけたが、それは途中で思い留まる。赤星弥生子は蹴り足を前に下ろすことなく、元の位置まで引っ込めてしまったのだ。
赤星弥生子は無造作に前進して、今度は前蹴りを射出する。
これもユーリは、後方に逃げるしかなかった。カウンターのバックスピンハイキックはあくまで自分から間合いに踏み込んで、相手の前蹴りを誘発した上で繰り出さなければ当てることも難しいのだ。
赤星弥生子はひたひたと前進しながら、関節蹴りと前蹴りを放ち続ける。
赤星弥生子がこれほど自分から攻撃を仕掛けるというのは、過去の試合にもなかった光景である。
(もしかして……もうユーリさんの戦略を見切ったのか?)
関節蹴りへのカウンターも前蹴りへのカウンターも、ユーリは一定の条件が満たされない限り絶対に発動させないようにと厳命されている。そうでなければ、カウンターの名手たる赤星弥生子に致命的な一撃をもらう恐れがあるためである。
赤星弥生子はその発動条件を推測し、それが正しいかどうかを確認するかのように関節蹴りと前蹴りを連発していた。
(最後のボディストレートはこっちが片足タックルのフェイントを連発するって条件だから、そうそう出せるもんでもないし……これは、どうしたらいいんだろう)
瓜子としては、二ラウンド目の優勢を完全になかったことにされてしまったような心地であった。
それどころか、ユーリは試合前に授けられた作戦をほとんど打ち砕かれてしまったように感じられる。それではプラマイゼロどころかマイナスの状態になり、勝機を見出すことも難しくなってしまうだろう。
唯一の希望は、赤星弥生子の負ったダメージやスタミナの欠乏であるが――その挙動を見る限り、まったくつけ入る隙は見いだせそうにない。あのユーリに二十発ものパウンドをくらいながら、赤星弥生子はこれまででもっともやわらかい動きを見せているのだった。
ユーリはアップライトからクラウチングに戻したり、大きく距離を取ろうとしたり、自分から距離を詰めようとしたりと、さまざまな動きを見せている。
しかし赤星弥生子は意に介さず、ひたすら遠い距離から前蹴りと関節蹴りを繰り出していた。
あの赤星弥生子の攻撃をかわし続けているというだけで、ユーリも大したものであろう。ユーリは片目をつぶるという強引なやり口で不同視のハンデを克服してみせたが、それでも余人より遠近感がつかみにくいという事実は動かないのだ。あるいは、赤星弥生子もユーリの怪力に恐れをなして、あくまで遠い距離からの攻撃に徹しているという一面もあるのだろうか。
しかし、ただ逃げ回るだけでは、ユーリの判定負けは確実である。二ラウンド目は混沌としていてどのような判定になるかもわからなかったが、少なくとも一ランド目は確実に赤星弥生子の優勢であったのだ。二ラウンド目を確実に取ったという確信が得られない以上、ユーリはKOか一本を目指さなくてはならないのだった。
フェンスの向こうでは、セコンド陣もしきりに声をあげている。
そのたびに、ユーリも新たな動きを見せようとするのだが、赤星弥生子の牙城は崩れない。
と――そんな状況で二分の時間が過ぎ去ったとき、赤星弥生子が関節蹴りを繰り出した足を、そのまま前側に下ろした。
そのぶん間合いが詰まったため、バックステップしたユーリでもぎりぎり前足に手が届く距離である。
ユーリはひたすら逃げ惑いながら、その瞬間が訪れるのをずっと待ち受けていたのであろう。誰もが息を呑むような的確さで、ユーリはすぐさま身を伏せて片足タックルを繰り出した。
それはあくまでフェイントであり、また右フックのカウンターを出そうとしていたのか、それとも今度は逆サイドに身をよじって本当にタックルを決めようと思ったのか――その答えを知ることは、永久にできなかった。
ユーリが片足タックルの動きを見せると同時に、赤星弥生子が奥足の右膝を振り上げたのだ。
赤星弥生子は関節蹴りを戻したばかりのタイミングであり、本来であれば膝蹴りを出せる状態にない。そうであるからこそ、ユーリもこのタイミングでタックルを仕掛けたのだ。
しかし、赤星弥生子は右膝を振り上げた。まだ前足に体重をかけられないタイミングで、おかまいなしに軸足でマットを蹴り、ユーリの突進を膝蹴りで迎え撃ったのだ。
きっと赤星弥生子は、この状態であればユーリはアッパーにしか対策していないと見切ったのだろう。
事実、ユーリは何の防御を取ることもできず、顔面に膝蹴りをくらってしまったのだった。
悲鳴のような喚声が、控え室の壁を揺るがす。
ユーリはそのまま、前のめりに崩れ落ちた。
軸足でマットを蹴った赤星弥生子もまた、ユーリの突進に押される格好で後方に弾き飛ばされた。
が、赤星弥生子はマットに落ちるなり後方回転して、すぐさま立ち上がる。軸足を攻撃に使えばバランスを保てなくなるのが必然であるため、そこまで見越してのアクションであったのだろう。
レフェリーはほとんどユーリのKO負けを確信している様子で、腕を頭上に上げかけた。
その瞬間――前のめりに突っ伏したユーリが左肘を支点にして仰向けの姿勢を取り、赤星弥生子に向かって足を開いてみせた。
新たな歓声が巻き起こり、控え室では溜息が連発される。
赤星弥生子の膝蹴りをくらってなお、ユーリは意識を失っていなかったのだ。
赤星弥生子が不動であったため、レフェリーはユーリを立ち上がらせたのち、両手の拳をつかんで戦う力が残されているかを確かめた。
そして、タイムストップがかけられて、再びリングドクターが招集される。
今度は右目の上側が大きく腫れあがり、半分がた視界をふさがれてしまっていた。
ではきっと、さきほどの片足タックルはフェイントで、インサイドに身をよじりながら右フックを狙っていたのだろう。それで相手の右膝が正中線から右にずれることになったのだ。
ドクターはユーリの右目が機能していることを確認してから、ケージを出ていった。
試合再開のコールがされて、客席には歓声が巻き起こる。
しかし、控え室には重い空気がたちこめてしまっていた。
「なんとかドクターストップはまぬがれたみたいだけど……ここからどうやって逆転すりゃあいいのさ?」
多賀崎選手のそんなつぶやきが、一同の思いを代弁していた。
ユーリはすべての戦略を打ち砕かれた上で、深いダメージを負ってしまった。しかも相手は、いまだに大怪獣タイムを温存しているのである。
立松でさえもが何を語らず、ただ歯を食いしばりながらモニターを注視していた。
(ユーリさん……)
我知らず、瓜子は祈るように両手を合わせてしまう。
そんな中、両名はすでに死闘を再開していた。
赤星弥生子はこれまでと同じように、関節蹴りと前蹴りでユーリを追い詰めようとする。
ユーリもまた、ぴょこぴょことステップを踏んで逃げる動きを見せていたが――何発目かの関節蹴りが放たれたとき、後退をやめて膝蹴りで迎え撃った。
その勢いに圧されて、赤星弥生子のほうが後ずさる。
それを追うように、ユーリは前進した。
これまでの赤星弥生子であれば、前蹴りでその出足を止めようとする場面であるが、彼女はそのまま後退し続けた。ステップではなく、後ろ歩きの後退だ。
それをユーリの攻勢と見て取った観客は歓声をあげていたが、瓜子はまったく逆の心情であった。これは赤星弥生子が下がりながら間合いを測っているモーションなのである。
赤星弥生子は無造作に歩いているかのように見えるが、実際は一歩ごとに歩幅を調整している。そしてユーリのステップのタイミングを計り、もっとも効果的なカウンターを出せる間隙を見出そうとしているのだ。
こうなっては、バックスピンハイキックも有効性を失ってしまう。あれは相手の前蹴りと同じタイミングで出すことで、初めて機能するのである。自分が先に動いたならば、準備万端の相手に無防備な背中をさらして窮地に陥るだけのことであった。
(ユーリさんはあんなに必死に動いて、ようやく自分のペースをつかみかけたのに……弥生子さんは、それをあっさりゼロに戻しちゃったんだ)
赤星弥生子がユーリの怪力に怯んでペースを崩さない限り、二ラウンド目のようなチャンスはやってこないのである。
ユーリはもはや、とどめの一発をくらうために自ら前進しているようなものであった。
ごく無造作に見える後ろ歩きであるのに、赤星弥生子はフェンスに詰まることもなく、サークリングをしてユーリの前進をいなしている。
ユーリもまた、変わらぬテンポで前進していた。
それはまるで、相手のカウンターを誘っているかのような動きであったが――今のユーリに、赤星弥生子の鋭いカウンターを回避するすべは存在しないはずだった。
そんな時間が一分も続き、残り時間は二分である。
そのタイミングで、ユーリがいきなり左のミドルを繰り出した。
半瞬おくれて、赤星弥生子は前蹴りを射出する。
横回しで蹴るミドルキックよりも前蹴りのほうが軌道が短いため、先に当たるのは赤星弥生子の攻撃だ。
赤星弥生子の前蹴りは、ぞっとするようなタイミングでユーリの腹を蹴り抜いた――かに見えた。
また実際、ユーリはその勢いに圧されて、片足で後方にたたらを踏んでいた。それでもう、ユーリのミドルキックは完全に不発である。
しかし、ユーリは倒れなかった。
ユーリは右腕で、レバーからみぞおちのあたりをブロックしていたのだ。それで痛そうに右腕を振っていたので、おそらく前腕に蹴りをくらうことになったのだろう。
安堵したのも束の間で、ユーリは再び前進する。
しかも、これまでより強引な踏み込み方である。
それでユーリは、一気にパンチの間合いまで踏み込むことになったが――ユーリが左フックのモーションを見せる頃には、すでに赤星弥生子の左アッパーが振り子のように振り上げられていた。
本当に、ぞっとするほどの絶妙なタイミングである。
ユーリは真下から、顔面を撃ち抜かれることになった。
しかしそれでも、ユーリは倒れない。今回はぐっと下顎を引くことで、衝撃に耐えたのだ。そういえば、マリア選手も年末の試合では、そうやって赤星弥生子のカウンターを一撃だけでも耐えてみせたのだった。
左フックも不発に終わったユーリは、またもや前進しようとする。
赤星弥生子が関節蹴りを繰り出したので、それは膝蹴りで弾き返しつつ、前進だ。
「まさか……」と、立松が押し殺した声でつぶやいた。
その間に、ユーリは大きく踏み込んで右ストレートを放つ。しかし赤星弥生子はインサイドに踏み込んでその攻撃をかわしつつ、同じ攻撃をお返しした。カウンターで右ストレートをくらったユーリはぐらりとよろめきつつ、また不屈の闘志で相手に詰め寄ろうとする。
「桃園さんは、自分の攻撃力で相手の動揺をさそうプランを崩されちまったから……今度は自分の頑丈さで、相手の動揺をさそおうとしてんのか……?」
「えー、そんなの、無謀でしょ! 相手は一撃必殺の大怪獣なんだよ?」
「だけど実際、桃園さんはもう三発も相手の攻撃に耐えきってる。下顎やレバーやみぞおちや、我慢のきかない急所だけガードして、強引に前進してるんだ。……見ろ、四発目も耐えきったぞ」
赤星弥生子の前蹴りが、ユーリの大きく膨らんだ胸もとのど真ん中を撃ち抜いた。ユーリがみぞおちをガードしているため、狙いを上方に修正したのだろう。
たとえ急所でなかろうとも、胸もとをまとも蹴られればあばらを折られる危険もあるし、呼吸だって困難になる。
しかしユーリは、何事もなかったかのように前進した。
ユーリの攻撃は一発として届かず、すべてにカウンターを返されている。たとえ急所を避けていても、それらのすべてがクリーンヒットであるのだ。ユーリの身には、尋常でない痛みとダメージが蓄積されているはずであった。
しかしユーリは前進をやめないどころか、いっそうテンポアップしている。
赤星弥生子の足取りもせわしなくなり、普通であれば足がもつれてしまいそうなところであった。
しかし、普通でないのが赤星弥生子だ。
赤星弥生子はほとんど後ろ向きに走るようにしてユーリの突進をいなしながら、さらに的確なカウンターを繰り出した。
今度はユーリの右フックにあわせた、左のボディアッパーだ。
顔をそらしてユーリの拳を横合いにいなし、左の拳をガードの下――スパッツのベルトラインにめりこませる。たとえ腹筋に守られた箇所であっても、ユーリの突進力がそのまま上乗せされるカウンターの攻撃であるのだから、普通は悶絶ものであろう。
しかしユーリはその場に踏み止まり、左の膝を振り上げた。
それを紙一重で回避した赤星弥生子は、後方に跳びすさる。
ユーリはそれを追いかけて、右ストレートを繰り出した。
赤星弥生子は――インサイドに跳躍して、その攻撃を回避する。
カウンターを返すのではなく、ただ逃げたのだ。
ついにユーリの頑丈さと突進力が、赤星弥生子の反応速度を上回ったのだった。
残り時間は、間もなく一分を切ろうとしている。
その瞬間――瓜子は、赤星弥生子の双眸が赤く燃えあがったような錯覚にとらわれた。