インターバル 十一月十一日
《カノン A.G》十一月大会を目前に控えた、十一月十一日――
その日の朝、瓜子はアラームよりも先に目覚めることになった。
瓜子にとって、それはべつだん珍しい話ではない。ただ今日は朝から長距離移動の仕事が入っていたため、起床時間は六時半となる。こんな早い時間に勝手に目覚めてしまうというのは、それほど当たり前の話ではなかった。だから、おそらく――今日という日がいささかならず特別な日であったために、瓜子は無意識の内に早起きをしてしまったのだろうと思われた。
(やだなぁ。なんか、遠足の日の子供みたいだ)
瓜子はひとりで苦笑をしながら、布団をたたんで寝室を出た。
ユーリの寝室は、もちろん静まりかえっている。まだまだ起床時間にはずいぶんなゆとりがあったので、瓜子は本来の当番であるユーリに代わって朝食の準備を整えておくことにした。
瓜子のウェイト調整も順調に進んでいるので、朝食のメニューは何でもかまわない。瓜子はしばし思案して、サキから習い覚えたコンソメスープと、ホットサンドに生野菜サラダ、それにヨーグルトという献立をチョイスした。
コンソメスープは冷凍しておいたソーセージと、タマネギとニンジンのスライス、それにキャベツを具材にする。ニンジンはスライサーを使えば簡単に準備できるし、キャベツはあらかじめ電子レンジで加熱しておけば時間もかからない。コンソメやバジルやブラックペッパーといった調味料はサキが住んでいた時代からキッチンに常備されていたので、それ以降も欠かさず買い足していた。
ホットサンドプレートは、灰原選手のアドヴァイスで最近購入したものである。
瓜子もユーリも調理に凝るタイプではないのだが、いい加減に朝食の献立がワンパターン化してきたという話を話題に出した際、灰原選手がおすすめしてくれたのだった。
ホットサンドはシンプルに、ハムとチーズと千切りキャベツを使うことにした。あとはあらかじめパンの内側にトマトソースを塗っておけば、朝食としては十分以上であろう。
生野菜サラダはレタスとキュウリとミニトマトで、ユーリの好きな白ごまドレッシングでいただいてもらうことにする。肉も野菜も炭水化物もこよなく愛するユーリであるので、このマンションの冷蔵庫にはいつも豊富な食材が取りそろえられていた。
ヨーグルトは市販のものに、ブルーベリージャムを添えるだけで終了だ。ユーリは無糖のプレーンヨーグルトを甘いジャムで食べるのを好んでいた。
(さすがにこれだけ一緒に暮らしてると、おたがいの好みもバレバレだよな)
ユーリは意外に、肉の脂身を好まない。豚のバラ肉やサシの入った牛肉などは好物であるのだが、ステーキやトンカツなどで脂身が一部にどっしり付随している形を好まないのだ。
野菜は何でも、よく食べる。瓜子が苦手なセロリや春菊などもいける口であるし、ピーマンやゴーヤといった苦みの強い野菜も好物であるようだ。逆に、サツモイモやカボチャといった甘い野菜は、他の野菜に比べると関心が薄いようだった。
炭水化物は、おおよそ好物と言っていいだろう。白米、うどん、そば、中華麺、餅、パン、ピザ、ナンと、すべてを等しく愛している。また、チャーハンやピラフやリゾットといった米料理も好んでおり、それで赤星大吾のメキシカン・ピラフもたいそうお気に召したようだった。
デザートの類いも嫌いではないのだが、こちらは食事のほうほど欲求が強くないようで、あまり自分から注文するタイプではない。食べたら食べたで「おいし-!」と大はしゃぎするのだが、それは年に数回の非日常的な体験を楽しんでいるように見える。ただ、ヨーグルトだけは好物であるので、こうして常にストックされているのである。
ただし、デザートには興味が薄いわりに、甘いドリンクはこよなく好んでいる。キャラメルラテだのホットココアだの、そういう重めのドリンクが好きで、反面、フルーツジュースや炭酸飲料は好まない。
あとは――ユーリは、スナック菓子やファストフード、レトルト食品やインスタント食品などを好まない。これは生粋のアイドルであった時代、「今がベストの体形だから、それ以上は太るな」と厳命されて、食生活から排除した結果であるという。そうして長らく遠ざかっている間に、そういったものを食べても美味しく感じられなくなったのだという話であった。
(まあ、アスリートとしてもそんなに困ることのない好みだよな。階級を上げた今では、炭水化物も食べ放題だし――)
しかしユーリは階級を上げて数ヶ月が経過した現在も、これまでと変わらないウェイトを維持している。平常体重が六十キロ弱で、減量を考えずにベストコンディションを目指すと五十八キロ前後に落ち着くというのは、去年無差別級にチャレンジしたときと同じていどの数字であった。
ユーリの中では、グラビアアイドルとしても現在のプロポーションがベストである、という考えがあるらしい。ただそれと同じぐらいの強い気持ちで、ファイターとしてもこれぐらいのウェイトがベストであると認識しているようであった。
そうでなければ、きっとユーリもアイドルではなくファイターとしての立場を重んじることだろう。ユーリの目標は「ベル様のように強くてかわゆいファイター」であるわけだが、実力よりも見栄えを優先することはないはずであった。
(ユーリさんは、顔とかを怪我してアイドルとしての道が断たれる危険を冒してでても、ファイターで居続けたいって考えてるわけだしな)
いつものほほんとしているユーリであるが、瓜子がその真情を見誤ることは、もはやなかった。
あと二ヶ月ていどで、ユーリと出会ってから丸二年――いつの間にか、二人の間にはそれだけの時間が過ぎていたのである。
その期間の中で、瓜子とユーリが別行動を取る時間は、きわめて少なかった。風呂やトイレや睡眠の時間といったものをさっぴけば、ほとんど二十四時間一緒にいるようなものなのである。たとえ家族や恋人でも、これだけの時間をともに過ごす人間などはそうそういないはずであった。
(あたしもユーリさんも、身体が動かなくなるまで現役選手でいたいって考えだもんな。……いったいあと何年ぐらい、こんな生活を続けられるんだろう)
瓜子がそんな風に考えたとき、壁ごしに派手な音色が聞こえてきた。ユーリが愛用する目覚まし時計のベルである。瓜子がつらつらと想念を飛ばしている間に、ようやく本来の起床時間となったようだった。
ちょうど朝食の準備も整ったところであったので、瓜子はダイニングのテーブルに食器を並べていく。
しばらくして、こちらに姿を現したユーリは、ねぼけまなこのまま「うわあ」とはしゃいだ声をあげた。
「すごいすごい! 今日はユーリのお当番だったはずなのに、うり坊ちゃんが準備してくれたの? しかも! サキたんが冥府から舞い戻ったような豪華さではありませぬか!」
「勝手にサキさんを殺さないでください。つばめ返しをくらわされますよ」
「てへへ。でもでも、こんな早起きの日にこんな豪華なブレックファーストをいただけるとは思っていなかったので、至福の極致のユーリちゃんなのです!」
口だけは元気に動かしながら、ユーリはよたよたとダイニングに踏み入ってくる。ユーリもそれほど寝起きは悪くないのだが、十五分間ていどは暖気運転の時間が必要であるのだ。
瓜子がコンソメスープの皿をテーブルに置くと、ユーリは「ひゃっほう!」と快哉の声をあげる。
その無邪気な笑顔にしみじみとした温もりを抱きつつ、瓜子も着席した。
「たまたま早く目が覚めたんで、気合を入れすぎちゃいました。こんな早起きの日に、重くないっすか?」
「ぜーんぜん! ユーリのストマックは、もはや飢餓状態なのです! 早く早く、いただきますしよっ!」
「はい、いただきます」
「いただきまーす!」
まだ眠たげにまぶたが下がっていて背中も丸まり気味のユーリであったが、朝食を食べるスピードは瓜子に負けていなかった。
ホットサンドをかじり、コンソメスープをすすり、生野菜サラダをついばむ。そのたびに、ユーリは「んー!」と幸福そうに目を細めた。
「今日は朝からハッピーだにゃあ。うり坊ちゃんのおかげで、いつも以上にいい日になりそう!」
ユーリのそんな発言に、瓜子は思わずドキリとする。
「……そうっすよね。今日はいい日にしたいっすよね。朝から副業のお仕事で、夕方からは稽古ですけど」
「うにゅ? それで何か問題でも?」
「いやあ、よりにもよって、今日は朝からスケジュールが詰まってるなあと思って」
「でもでもこれだけお仕事を詰め込まれても、千さんはきっちり五時までに終わるように調整してくれてるからねぇ。そりゃあメイちゃまのように朝から晩までお稽古に打ち込めたらハッピーの極致ですけれど、千さんのご尽力にケチをつけることはできないのです!」
やはりユーリの頭には、稽古のことしかないようであった。
まあ、試合が目前であるのだから、それも当然なのかもしれないが――瓜子は覚悟を決めて、ジャージのポケットにひそませていたものを取り出すことにした。
「あの、食事の最中に何なんすけど、落ち着かないんで先に渡しちゃいますね」
それは、手の平サイズのちんまりとした箱であった。
ピンク色の包装紙でラッピングされて、真っ赤なリボンが結ばれている。
コンソメスープのソーセージとキャベツをまとめて頬張ったところであったユーリは、それを呑み下してから「ふにゅにゅ?」と小首を傾げた。
「これは何でせう? かわゆい包みだねぇ」
「やっぱり意識してなかったんすね。……今日は何日ですか?」
「えー? ユーリって、曜日でスケジュールを把握してるからさぁ。あんまり日付とかは頭に入ってないのだよねぇ」
「だったら、教えてあげますよ。……今日は、十一月十一日です」
「ふぅん」とミニトマトを口に含んでから、ユーリは「ふみゃ?」と逆側に首を傾げた。
「じゅういちがつじゅういちにち……なんだろう、何か懐かしい響きを持つ日付であるような……」
「いや、まだ寝ぼけてるんすか? 今日は、ユーリさんのお誕生日でしょう?」
「おお!」と、ユーリは手を打った。
「そうだったそうだった! いやぁ、ユーリのお誕生日かぁ。ついにユーリも二十一歳なのだねぇ。カラダは立派に育ったけれども、ココロのほうがちっとも追いついて――」
そこでユーリは、垂れ気味の目をくわっと開いた。
「ちょいとお待ちを! それではもしや、このかわゆき物体は……!」
「皆まで言わせないでください。お察しの通り、バースデープレゼントっすよ」
内心の照れくささを誤魔化すために、瓜子は苦笑を浮かべてみせた。
ユーリは「にゅわあ!」と雄叫びをあげて、立派に育ったカラダを色っぽくくねらせる。
「思わぬ奇襲攻撃に、心臓が爆裂してしまいそうじゃ! これはあまりに、サプライズが過ぎますぞ!」
「いや、なんにもサプライズじゃないんすけどね。ただユーリさんが日付を認識してなかっただけですから」
瓜子は頭をかきながら、テーブルに置いたプレゼントの箱をユーリのほうに押しやってみせた。
「まあ気持ちですから、どうぞお納めください。自分はこういうセンスが欠如してるんで、あまり期待しないでくださいね」
「いやいやいや! うり坊ちゃんのプレゼントというだけで、ユーリは幸福の極致だよぉ」
ユーリのほうこそピンク色の髪やら白い顔やらを自分の手で撫でくり回しながら身悶えて、今にも溶解してしまいそうな風情であった。瓜子を見返すその顔は、でれでれの笑顔である。
そうしてユーリは一拍一礼してから、ようやく小箱をつまみあげた。
リボンは飾りであったので、包装紙を破かないように気をつけながら、丁寧にテープを剥がしていく。その下から現れたのは、ユーリにもお馴染みの――かつてユーリが瓜子とおそろいのネックレスを購入した、ブランドショップのケースであった。
「えっ! ……よもやうり坊ちゃんが、アクセサリーを!?」
「はい。しつこいようですけど、自分のセンスには期待しないでくださいね」
ユーリは感情を持て余しているような面持ちで、おそるおそるケースを開いた。
そこに収められていたのは――ピアス風のイヤリングである。
嫌味にならないささやかなサイズで、シルバーの土台にピンクトパーズが嵌め込まれている。
そのきらめきを目にするなり、ユーリはものすごい勢いで目を泳がせた。
「こ、こ、これをうり坊ちゃんが、ユーリのために?」
「なんすか、そのリアクションは? 自分に似合わないプレゼントだってことは自覚してますよ」
「だってだって、うり坊ちゃんはユーリのつきあいでしかアクセサリーショップに入ったこともないのでせう?」
「ええ。正真正銘、初めて自分で購入したアクセサリーですね」
「それにしても、いつの間に!? ここ数ヶ月は、ずーっとユーリと一緒だったのに!」
「この前、ユーリさんが仕事の合間に美容室に行ったときっすよ。電話をするからって、自分は待合室から出たでしょう? あのとき、ダッシュで買ってきたんです」
瓜子も表情の選択に困りつつ、そんな風に答えてみせた。
「正直言って、ファッションセンスの権化みたいなユーリさんにアクセサリーなんて送るのは、気が引けて仕方ないんすけど……ほら、去年のこの時期はちょっと微妙な関係で、誕生日のお祝いができなかったじゃないっすか。だから今年は、去年の分までお祝いしてあげたかったんすよ」
そして瓜子は十二月生まれであるために、ユーリと和解を果たした後に、めいっぱいお祝いされてしまっている。しかも今年の一周年記念には立派なネックレスまでいただいてしまったので、瓜子もなおさら奮起することになったのだった。
「とりあえず、気持ちだけは詰め込んだつもりですから。服とかに合わないようだったら、お部屋で保管してやってください」
「ううん! つける! 今すぐに!」
ユーリはわたわたとイヤリングを取り上げて、装着し始めた。普段の手慣れた感じは見る影もない、覚束ない手つきである。
「……ピンクの髪にピンクのイヤリングってどうなんだろうって思ったんすけどね。十一月の誕生石はトパーズで、ちょうどピンクのやつがあったから……この冬の新作で、ユーリさんも持ってないはずですし……」
ユーリが装着に手間取っているために、瓜子はついつい言い訳めいた言葉を重ねてしまう。
そうして瓜子の言葉が尽きたところで、ユーリはようやく装着を完了させた。
「できたー! どうどう?」
ユーリは寝ぐせのついたピンク色の髪を、耳の上にかきあげる。
ユーリは、耳の形までもが美しい。そのほどよく肉づきのいい耳たぶに、ピンクトパーズが控え目に輝いていた。
「ユーリさんは、どんな服でもアクセでも着こなしちゃいますからね。幸い、その範疇にあるみたいです」
瓜子はほっと息をつきつつ、あらためてユーリに笑顔とお祝いの言葉を送ってみせた。
「二十一歳のお誕生日、おめでとうございます。これからも、どうぞよろしく――」
瓜子に最後まで言わさずに、ユーリが猛然とつかみかかってきた。
その腕が瓜子を抱きすくめ、巨大でやわらかい肉塊を顔にぐいぐい押しつけてくる。ユーリも就寝時には下着をつけないため、そのやわらかさが尋常でなかった。
「ありがとう、うり坊ちゃん。……こんなにハッピーなバースデーは、パパとママが生きてた頃以来だよぉ」
「自分なんかじゃご両親の代わりは務まらないっすけど……でも、喜んでもらえたらなら嬉しいです」
瓜子はユーリをなだめるために、その背中を優しく叩いてあげた。
しかしユーリの両腕は、いっそうの怪力で瓜子を締め上げてくる。
そしてユーリの唇が、震える声音を瓜子の耳に囁きかけてきた。
「……あのね。義理の父親が初めてユーリに手を出そうとしたのは……十二歳の誕生日だったの」
瓜子は愕然と、身体を強張らせることになった。
すると今度はユーリがそれをなだめるように、瓜子の身体をぎゅっと抱いてくる。
「もしかしたら、ユーリはそのせいで自分の誕生日を意識しないようにしてたのかなぁ。毎年毎年、ユーリが気づかないうちに誕生日は終わっちゃってたんだよねぇ」
「ユーリさん……」
「でも、うり坊ちゃんが幸福な記憶を上書きしてくれた。来年からは、もう自分の誕生日を忘れたりしないかもね」
最後にひときわ強い力で瓜子の身を抱きすくめてから、ユーリはようやく身を離した。
しかしまだ、瓜子から三十センチも離れていない。そんな至近距離から瓜子を見つめるユーリの顔は、とめどもなく涙をこぼしながら天使のように微笑んでいた。
「うり坊ちゃん、ありがとう。うり坊ちゃんに出会えて、ユーリは幸福だよ」
「こちらこそです」と、瓜子も精一杯の笑みを浮かべてみせた。
そうしてユーリは、瓜子と出会ってから二度目の誕生日を迎えて――きっと去年とはまったく異なる心持ちで、十一月の試合に臨むことになったのだった。