03 大怪獣と赤鬼
瓜子たちが事務室を出てみると、そこにはぎれもなく赤星弥生子と大江山軍造の両名が立ちはだかっていた。
赤星弥生子は普段以上に引き締まった面持ちで、青白い電光のごときオーラが今にもバチバチと火花を散らしそうなほどである。いっぽう大江山軍造は、もともと鬼瓦のように厳つい顔でめいっぱいの渋面をこしらえている。そんな両名と並びながら、コーチのジョンは心配そうに微笑んでいた。
「お忙しい中、申し訳ない。そして、ナナの件に関しては――もはや謝罪の言葉だけで済ませることもできないだろう」
そんな風に言いたてるなり、赤星弥生子はいきなり膝を折ろうとした。
たまたまその正面に立ち尽くしていた瓜子は、ほとんど抱き抱えるようにして赤星弥生子の動きを止めてみせる。
「ちょ、ちょっと、何やってんすか? 土下座なんて、やめてくださいよ?」
「しかし私は、プレスマン道場の方々に大きな不義理を働いてしまった。赤星道場の責任者として、深く詫びさせてもらいたく思う」
一週間と二日ぶりに見る赤星弥生子は、以前の通りの凛々しい表情と雷光のようなオーラを保ちつつ、無念でならないような眼差しになっていた。土下座をさせまいと両腕をつかんだ瓜子に、その眼差しが間近から突きつけられてくる。
「それに私は、猪狩さんの助言でナナとの和解を果たすつもりだったのに、けっきょくこんな結果になってしまって――」
「自分のことは、いいんすよ! とにかく、弥生子さんがそんな真似をする必要はありません!」
「ああ。それよりまず、詳しいいきさつを聞かせてもらいたいもんだな。その口ぶりからして、ナナ坊の参戦は赤星道場の総意じゃないってことなんだろう?」
立松がそのように言いたてると、大江山軍造が「当たり前だよ」といっそう顔をしかめた。
「あの徳久とかいうネズミ男に関わるのはもう御免だっていうのが、俺たちの総意だったんだからな。そいつからはみだしたのは、ナナひとりだ。青田のやつも、頭を抱えてるよ」
「つっても、所属の道場の了承も得られずに、試合のオファーは受けられんだろ。そこのあたりは、どうなってんだい?」
「あいつは勝手に、自分ひとりで運営の連中と話をつけちまったらしい。文句があるなら、赤星道場を辞めるとよ」
赤星弥生子の腕をつかんだまま、瓜子は息を呑むことになった。
赤星弥生子は、いっそうの無念をその切れ長の目にたぎらせている。
「そんなの、駄目っすよ! どうしてこんなことで、青田さんが道場を辞めなくちゃならないんすか? 青田さんは、弥生子さんに対する誹謗中傷が我慢ならなくて、《カノン A.G》に参戦するんでしょう?」
「あいつは、馬鹿なんだよ。道場を辞めちまったらどれだけ苦しい思いを抱え込むことになるか、まったく想像できてねえのさ」
大江山軍造がぶっきらぼうに言い捨てると、赤星弥生子は「だから……」と言葉を振り絞った。
「……だから我々も、絶対にナナを見捨てることはできない。だからこそ、君たちに詫びなければならないんだ」
「大げさだな。おたがいの所属選手が対戦するってだけで、どうしてそんな思い詰めないといけねえんだよ」
立松が口をはさむと、赤星弥生子は「しかし……」と言葉を重ねる。
「ナナはすでに、桃園さんの目についても知ってしまっている。私がうかうかと、あのような場で六丸に語らせてしまったから……」
「そいつもしかたのないことだって、ついさっき話してたところだよ。なあ、桃園さん?」
「はいはぁい。ユーリも対策を練りますので、どうぞご心配なくぅ」
赤星弥生子は信じ難いものでも見るように、ユーリたちの姿を見回した。
「君たちは……ナナの実力を侮っているんじゃないか? その上、目のことまで知られてしまっているというのに……」
「《フィスト》の現王者をなめたりはしねえよ。それに俺だって、ナナ坊が小さな頃からトレーニングを積んでた姿を見てるんだぜ? 桃園さんが楽に勝てるなんて、これっぽっちも思っちゃいねえさ」
そう言って、立松は赤星弥生子に笑いかけた。
「弥生子ちゃんも弥生子ちゃんで、徳久って輩のせいで目がくらんじまってるんだよ。きっと何とか丸く収まるから、いつもみたいにどっしりかまえてな」
「だけど、私は――」
「ナナ坊を、あんな興行に関わらせたくないってんだろ? そっちもきっと、大丈夫だ。頼り甲斐のあるお人が、徳久って輩と今の運営陣を叩き潰すための作戦を練ってるからよ」
それはきっと、千駄ヶ谷のことであろう。決して多くは語らないが、千駄ヶ谷はユーリのプロモーションと同じぐらいの熱意でもって、《カノン A.G》の膿を出す計画に取り組んでいるはずなのである。
「それでめでたく徳久って輩が消えてなくなりゃあ、ナナ坊がアトミックに参戦するのも文句はねえんだろ? きっと来年には、そんなこともあったなあって笑い話になってるさ。ナナ坊は思うぞんぶんアトミックの舞台で暴れ回って、赤星道場の力を見せつけてやりゃあいい。……ただし、うちの桃園さんは、決して負けやしないがね」
「あははぁ。微力を尽くす所存ですぅ」
ユーリの無邪気な笑顔、立松の勇ましい笑顔、そしてジョンの優しげな笑顔を見回していき――最後に赤星弥生子は、また瓜子の顔を見つめてきた。
瓜子はさまざまな感情に胸の内をかき回されつつ、それでも笑ってみせる。
「自分も立松コーチと同意見です。どうか徳久なんていう輩のために、青田さんとの仲を台無しにしないでください。そんなの、あまりに馬鹿らしいですよ」
「……君たちの温情を、心からありがたく思っている」
赤星弥生子は固くまぶたを閉ざしてから、やおら身を起こした。
「とはいえ、ナナの身勝手な振る舞いは、決して赤星道場の総意ではない。それを示すために、私と師範代で決定した事項がある。それをプレスマン道場の方々に聞いていただきたい」
「なんだい? こっちは何がどうでもかまわないんだがね」
「うん。これはあくまで私たちの側のけじめであるので、ただ聞き届けてもらえれば十分だ。……今回の試合に関して、私と師範代はいっさい手も口も出さないと決めた。ナナは青田コーチの指導のもとで、試合に臨むことになる」
「なるほど。軍造さんが力を貸してやりゃあ、不同視の選手の対策もはかどりそうなもんだがね」
「だから、そういう気にはなれねえって話だよ。桃園さんに不同視を克服するアドヴァイスをして、今度はそれを突き崩すための作戦を練るなんざ、俺は御免だね」
そう言って、大江山軍造は赤鬼のような顔で笑った。
「ま、もっと時間が経って桃園さんたちが自分なりの戦法を確立できたら、今度はナナと一緒に頭を悩ませるさ。とにかく今回に限っては、俺も静観させてもらう。どっちが勝とうが、恨みっこなしだ」
「こっちは最初から、そのつもりだったよ。桃園さんも猪狩も、それでいいな?」
瓜子の「押忍」という声に、ユーリの「はぁい」という声がかぶさる。
そんな瓜子たちの姿をどこか満足げに見やりながら、大江山軍造はあらためて嘆息をこぼした。
「それにしても、ナナのやつは考えが足りてねえよな。チーム・フレアとかいう輩の挑発に乗って参戦したってのに、対戦相手は桃園さんなんだからよ。これじゃあ桃園さんを潰すための道具として利用されてるだけじゃねえか」
「確かにな。でもまあナナ坊は、沙羅選手の挑発よりもネットの騒ぎに腹を立ててるんだろ。相手が誰でも赤星道場の力を証明できればいいって考えなんじゃないのかね」
「だとしても、桃園さんを潰そうとしてる輩の中に、あのネズミ男が紛れ込んでるってんだろ? けっきょくあいつのいいように利用されてるかと思うと、俺にはそっちのほうがよっぽど腹立たしいね」
と、大江山軍造はグローブのように分厚い手の平に自分の拳を打ちつけた。
「まあ、俺がカリカリしても仕方ねえか。……師範、そろそろ時間だぞ」
「なんだ。せっかく来たんだから、ひと汗かいていきゃあいいじゃないか」
「生憎こっちも、大勢の門下生を抱える身なんでね。師範と師範代がそろって遊び回ることはできねえよ。じゃ、桃園さんたちも元気でな」
そうして大江山軍造がきびすを返そうとすると、赤星弥生子は「待った」と声をあげた。
そして、どこか切なげな目つきで瓜子を見つめてくる。
「最後に、ひとつだけ……これは赤星道場の責任者ではなく、一個人として猪狩さんに伝えさせてもらいたいのだが……せっかくの助言を無駄にしてしまったこと、心から申し訳なく思っている」
「いやいや、弥生子さんが謝る必要なんて、ありませんってば! ていうか、自分なんかを見習ったらしっちゃかめっちゃかになっちゃいそうだって言ったでしょう? こっちのほうこそ、申し訳ないぐらいっすよ」
「いや。私もまぎれもなく本心でナナと語り合えたので、何も後悔はしていない。ただ……それでもナナと理解し合えない自分の不甲斐なさが、申し訳ないんだ」
「本当にな! ネズミ男の妄言なんざを真に受けて十年以上も悶々としてたなんて、馬鹿丸出しじゃねえか!」
と、大江山軍造がいきなりわしゃわしゃと赤星弥生子の黒髪をかき回した。
驚く瓜子の目の前で、赤星弥生子は顔を赤くしながらその手を振り払う。
「な、何をするんだ。私は子供ではないのだぞ!」
「今は師範じゃなく、赤星弥生子個人なんだろ? だから俺も、大江山のおっちゃんとして振る舞ってるんだよ」
鬼のような笑顔でありながら、大江山軍造のぎょろりとした目には優しげな光がたたえられている。すると赤星弥生子も、子供のように口をとがらせてしまった。
「だいたいな、自分のせいで俺たちの人生を狂わせたなんて、どういう言い草だよ。そりゃあ俺たちはお前さんの強さと魅力に惚れ込んで、ここまでついてきたわけだけど、そんなもんは俺たちの勝手だろ? ったく、こんなにでかくなってファイターとしても化け物みてえな強さなのに、中身だけはガキのまんまなんだな」
「だ、だからその件については、もう詫びたろう?」
「詫びるのが、十年以上も遅いってんだよ。……本当にありがとうな、猪狩さん。こんな意固地なガキの心を、力ずくで開かせてくれてよ」
「あ、いえ……自分なんか、勝手なことを言いたてていただけですし……」
すでに二十七歳である赤星弥生子が子供のように扱われてしまうというのは、見ているだけで面映ゆい限りである。
しかしまた、子供のように口をとがらせて顔を赤くしている赤星弥生子は、掛け値なしに可愛らしかった。
すると赤星弥生子は、そんな瓜子の想念を読み取ったかのように、いっそう可愛らしくすねたお顔になってしまうのだった。