02 対戦表
佐伯とリンを新宿プレスマン道場に迎えてからも、粛々と時間は過ぎていき――何事もなく、一週間ていどが経過した。
しかしこの際は、何事もないのが異常事態であっただろう。《レッド・キング》の興行を観戦した十月の第三日曜日の時点で、《カノン A.G》の興行の一ヶ月前であったのである。それから一週間が過ぎても、まだ瓜子たちには王座決定トーナメントの組み合わせが発表されていなかったのだった。
十月の第四日曜日に至ってしまえば、もう大会までは残り三週間と少しだ。最後の二週間は調整期間となるために、みっちり稽古を積める期間は本当にごく短くなってしまう。その段に至っても対戦相手が公表されないというのは、あまりにも杜撰なやり口であった。
「前回は一ヶ月前の発表でも、チーム・フレアの対戦成績は五勝三敗だったからな。手前らが勝ちを拾うにはもっともっと裏工作が必要だと踏んだんだろうよ」
憤懣やるかたない面持ちで、立松はそのように言いたてていた。
対戦相手の公表が遅ければ遅いほど、こちらは対策の時間が取れなくなる。瓜子やユーリの階級などは空席もひとつであったのでまだマシであったが、ふたつの空席がある魅々香選手や雅選手には相当なハンデになってしまうはずであった。
しかしとにかく、こちらはできることをやりぬくしかない。瓜子はイリア選手と一色選手、ユーリはタクミ選手とベリーニャ選手、それぞれ誰との対戦になっても対処できるように、稽古を積んでおく他なかった。
そんな中、《カノン A.G》の公式サイトにおいては、一定のペースでチーム・フレアの動画が更新され続けていた。
表立っては鞠山選手の動画に反論しようとはせず、チーム・フレアの選手のアピールに勤しんだり、《アトミック・ガールズ》のこれまでの歴史を誹謗したりと、相変わらずのやり口である。瓜子はもう他の人々からその噂を聞くばかりで、自分で動画の内容を確認しようという気にもなれなかった。
そしてそれに対抗するように、鞠山選手も『まりりん☆ちゃんねる』を更新し続けている。
そちらは逆に、《アトミック・ガールズ》の歴史を深掘りするような内容であった。過去の試合をイラストと解説で振り返り、時には懇意にしている選手などをゲストとして招待し、ぐんぐん再生数をのばしているとのことである。
そして、動画といえば――十月の第四日曜日には、ついにユーリの単独ライブ、『ユーリ・トライ!』を収録した映像作品の発売告知動画が公開されることになった。
ここまでの二週間、インターネット上ではかなりの勢いで『ユーリ・トライ!』について取り沙汰されていたらしい。実際にライブ会場まで足を運んだ人々がSNSなどで大絶賛してくれたために、「追加公演はないのか?」「ライブ映像は販売されないのか?」と――千駄ヶ谷いわく、阿鼻叫喚の様相であったという。おそらくは、その騒ぎが最高潮に達し、このままではじわじわと話題性も薄れていってしまうだろうというタイミングで、大々的に映像作品のリリースが発表されたわけである。
しかもそちらの告知動画では、『ベイビー・アピール』の演奏する『ハッピー☆ウェーブ』と『ワンド・ペイジ』の演奏する『ホシノシタデ』のライブ映像が、それぞれワンコーラスずつお披露目されていた。それらを含む全十二曲がノーカットで収録され、特装版には豪華ブックレットと、未発表音源のCDも同梱されると告知され、また電脳世界に凄まじい反響をもたらしたとのことである。
ちなみに未発表音源とは、かつてのレコーディングで収録された『リ☆ボーン』と『ネムレヌヨルニ』のことであった。『ベイビー・アピール』と『ワンド・ペイジ』の善意で録音することのかなったその二曲を、惜しみなく大放出することになったのだ。
「ここは出し惜しみをせず、一気にたたみかけるべきという結論に至りました。次のCDでは、すべてを新録にすればいいだけのことです」
千駄ヶ谷は、そのように語らっていた。
なおかつ、『Yu-Ri』と『ベイビー・アピール』と『ワンド・ペイジ』の合同ユニットという計画も、水面下で着実にプロジェクトが進められているという。十一月の試合の後にはすぐにでも動けるようにと、千駄ヶ谷が八面六臂の働きを果たしている気配であった。
ともあれ、映像作品のリリースは十二月上旬と告知されていた。
そちらの特典ブックレットのために、近々ご協力をお願いしたい――と、千駄ヶ谷に申し渡されたのが、瓜子にとって唯一の悩みの種である。どうしても、ここぞという場面では瓜子に撮影地獄の試練がもたらされてしまうようであった。
そうして慌ただしいながらも粛々と日は過ぎて、ついに迎えた十月の第四火曜日――《カノン A.G》の十一月大会まで残り三週間ていどとなったその日に、ついに四大タイトル決定トーナメントの組み合わせが発表されたのだった。
◇
「……こいつは、どういうことなんだ?」
そんな風にうなり声をあげるのは、やはり立松の役割であった。
現在は、午後の四時三十分。副業の仕事が早めに終わったので、瓜子とユーリもそんな時間に道場までおもむくことがかなったわけだが――玄関のドアをくぐるなり、立松に事務室まで呼びつけられてしまったのである。
「どうしたんすか? トーナメントの組み合わせに、何かおかしな点でも?」
「いや……どうなんだろうな。とりあえず、自分たちの目で確認してくれ」
そう言って、立松はノートパソコンの画面を指し示した。出場選手の所属ジムに告知の電子メールが届けられるのとほぼ同時に、《カノン A.G》の公式サイトでもトーナメント表が公開されたという話であったのだ。
瓜子とユーリは顔を寄せ合って、上から順番に出場選手の氏名を確認していき――下から二段目の組み合わせを目にすることで、立松の驚きを共有することになった。
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《カノン A.G》四大タイトル決定トーナメント対戦表
◆アトム級
第一試合 イヌカイ=フレア vs ゾフィア・パチョレック
第二試合 アレクサンドラ・カルバーリョ vs 雅
◆フライ級
第一試合 ルイ=フレア vs 宗田星見
第二試合 イリア=フレア vs 猪狩瓜子
◆ストロー級
第一試合 シャラ=フレア vs 沖一美
第二試合 マーゴット・ハンソン vs 魅々香
◆バンタム級
第一試合 青田ナナ vs ユーリ・ピーチ=ストーム
第二試合 タクミ=フレア vs ベリーニャ・ジルベルト
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そこには、そのように記されていたのだった。
「……ユーリさんのお相手は、青田ナナさんなんすね」
「ああ。どうしてナナ坊が、こんなもんにエントリーされてるんだよ? 赤星道場は、《カノン A.G》から撤退するって話だったろうが?」
そう言って、立松は自分の膝をぴしゃんと叩いた。
「まあ、あちらさんの方針が変わったってんなら、そいつは別にかまわんさ。俺らは赤星の連中と懇意にしてるけど、試合であたりゃあ正々堂々ぶつかるだけだ。男連中だって、そんなのはしょっちゅうだからな。しかし、ナナ坊は……桃園さんの不同視についても、ばっちり知ってやがるからな」
「ええ。六丸さんがそのことを指摘した場に居合わせてたんすからね。あれじゃあ、隠しようがありません」
瓜子はさまざまな感情に心をかき乱されながら、ユーリのほうを振り返った。
ユーリはふにゃんとした笑顔で、瓜子の切迫した眼差しを受け止めてくれる。
「まあ、それならそれで頑張るだけだよぉ。もともとユーリのお目々については、いずれバレるって算段だったのですよねぇ?」
「ああ。こんなもん、いつまでも隠し通せる話じゃないからな」
「であれば、その時期が早まったというだけのことですのでぇ。おおっぴらに片目をつぶれるのでしたら、ユーリはむしろありがたいぐらいですぅ」
立松は苦笑しながら、頭をかいた。
「ま、そういうこったな。ぐちぐち言ってたって始まらん。こうなったら、不同視の弱点を突いてこようとする相手への対策を練りたおすしかないだろう」
「はぁい。よろしくお願いいたしまぁす。……だからうり坊ちゃんもユーリのことは気にせず、ぞんぶんに赤星弥生子殿のご心配をしてあげなよぉ」
「え? どういうことっすか?」
「だって、青田ナナ殿が参戦してきたってことは、きっと赤星弥生子殿とケツレツしてしまったってことでせう? であればうり坊ちゃんは、赤星弥生子殿のお気持ちが心配でならないのでは?」
そんな風に言いながら、ユーリは奇妙な目つきで瓜子を見つめてきた。
瓜子に甘えながら、瓜子を包み込もうとしているような、相反する思惑が混在する眼差しである。
「うり坊ちゃんがどこの誰と仲良くしようとも、決してユーリのことを見捨てたりはしないと信じているのです。それでも独占欲の権化たるユーリが臨界点を迎えてしまったならば、なりふりかまわず甘えたおす所存でありますので、うり坊ちゃんは思うぞんぶん我が道を突き進んでいただきたく思うのです」
「……すみません。決してユーリさんのことを心配してなかったわけじゃないんすよ?」
「わかってるよぉ。それを信じているからこそ、ユーリもなんとか浅ましい独占欲を抑制することができているのです」
同じ眼差しを保持したまま、ユーリは天使のように微笑んだ。
瓜子はなんだか胸をしめつけられるような心地で、そちらに笑い返してみせる。
「……お前さんがたは、ときどき新婚夫婦みたいに甘ったるい空気をかもし出すよな。同じ部屋にいるだけで虫歯になっちまいそうだ」
なんともいえない面持ちで、立松はそんな風に言っていた。
「まあとりあえず、弥生子ちゃんの心配は脇に置いておけ。それよりも、まずはこの対戦表についてだ」
「押忍。タクミ選手は、初戦でベリーニャ選手なんすね。本気で勝つ自信があるんでしょうか?」
「あちらさんはヴァーモス・ジムと懇意にしてるから、対・柔術の作戦を練りたおしてるんだろう。それでも地力はベリーニャ選手のほうが遥かに上だろうが……ま、お手並み拝見ってところだな。それよりも、お前さんは自分のほうに目を向けろよ」
「押忍。自分は、イリア選手でしたね。一色選手とあたる宗田星見ってのは、どなたでしょう?」
「そいつはたしか、深見塾の秘蔵っ子とか騒がれてた女子選手だよ。深見幸三さんは、さすがに知ってるだろ?」
「押忍。《JUF》の中量級で活躍してた、柔道のメダリストっすよね。あの深見選手の関係者なんすか?」
「深見さんはもうMMAの現役も引退して、後進の育成に励んでる。それも、柔道とMMAの二本柱でな。柔道では新たなメダリストを、MMAでは《アクセル・ファイト》のチャンピオンをってお題目で、けっこう注目を集めてるんだよ」
そう言って、立松は四角い下顎を撫でさすった。
「で、この宗田って選手も五輪の強化選手だったんだが、膝を痛めて柔道を引退しちまったんだよ。それでMMAに転向するって話になって、今年の春先にはそれなりの騒ぎになってたはずだ。……ただ、膝の手術があったんで、ここしばらくは名前を聞くこともなかった。おそらくは、こいつが手術明けの復帰戦で、おまけにMMAのデビュー戦だろう」
「MMAのデビュー戦が、王座決定トーナメントっすか。あいつら、自分でベルトの価値を落とそうとしてますね」
「ああ。話題性は十分で、MMAのキャリアはゼロ。噛ませ犬としては、上等の部類だろ。……きっと一色って娘っ子は、ノーダメージで決勝まで上がってくるぞ。そのつもりで、お前さんはピエロを返り討ちにするんだ」
瓜子はぐらぐらと煮え立つ闘志を抑えながら、「押忍」と答えてみせた。
「あと、他の階級も気になるところっすけど……これはこの場で話す内容じゃないっすかね」
「ああ。御堂さんや雅選手には、鞠山さんあたりが力を添えてくれるだろう。お前さんたちは、自分の試合に集中することだ」
「押忍。自分とユーリさん、魅々香選手と雅選手で、全部のタイトルをぶんどってやりますよ。……って、ベリーニャ選手と同じ階級のユーリさんには、けっこうな苦労をかけさせちゃいますけど」
「いやあ、ベル様に勝てる自信なんて、1ナノグラムも持ち合わせておりませんけれど……でもでもベル様と対戦できるなら、ユーリは最後の一滴まで死力を尽くす所存なのです」
そう言って、ユーリはますます幸福そうに微笑んだ。
事務室のドアがノックされたのは、まさにその瞬間である。
「シンゾー、ちょっとイイかなー? ヤヨイコとグンゾーがハナシをしたいってよー」
瓜子は口から心臓が飛び出るような思いであった。
立松も、仰天した様子で目を見開いている。
「なんだ、あっちから乗り込んできやがったか。わざわざ義理堅いこった。……それじゃあまあ、お前さんがたにも一緒に話を聞いてもらおうか」
「お、押忍。そうさせていただけたら、ありがたいっす」
赤星弥生子がプレスマン道場にやってくるというのは、瓜子の知る限り初めてのことである。たとえ青田ナナの参戦が決まろうとも、いきなり赤星弥生子が敵側に回るとは思えないのだが――それでもまだまだ未知数な部分の多い相手であるので、瓜子はむやみに心臓を騒がせてしまった。
「グンゾーさんって、赤鬼師範代さんのことでせう? だったらきっと、何も心配する必要はないんじゃないかにゃあ」
ユーリは変わらず、のほほんと笑っている。
その呑気な笑顔で心を鎮静化させてから、瓜子は立松に続いて事務室を出ることにした。