最後の準備
その年のお盆は、天覇館東京本部道場の合同稽古で忙殺されることになった。
しかし、トレーニングホリックのユーリには、またとないご褒美であったことだろう。プレスマン道場もお盆の四日間は休館とされていたので、ユーリはどのような自主トレーニングで無聊をまぎらわせるべきかと、ずっと頭を悩ませていたのである。
瓜子にしてみても、また新たな女子選手たちと合同稽古に取り組めるというのは、得難い経験であった。
イリア選手との対戦を断るつもりであるという白木選手は初日で地元に帰ってしまったが、後藤田選手と前園選手は小笠原選手のコネで武魂会の宿泊施設を借り受け、盆が明けるまで朝から晩まで合同稽古に参加することになったのである。
両者はどちらもトップファイターで、しかも後藤田選手は瓜子と同じ階級だ。
本来であれば、瓜子にとっては強力なライバル選手という立場であったのだが。現在の運営陣が天覇館とプレスマン道場を踏みつけにしようと目論んでいるのなら、しばらくは瓜子と後藤田選手が対戦するような事態にはならないことだろう。ならば、対チーム・フレア戦線の仲間として手を携えることもやぶさかではなかった。
また、指南役を引き受けてくれたのは、女帝・来栖舞である。
それだけで、瓜子には恐れ多いぐらいであった。
「いちおうこの合同稽古には、マリアも誘ってみたんだけどさ。盆の間は家族と過ごしたいからって、お断りされちゃったんだよね。おたがい頑張りましょうとか言ってたよ」
小笠原選手は、そんな風に言っていた。
「まあ、もともと赤星道場はパラス=アテナと折り合いがよくないから、余計に話がこじれないようにっていう遠慮もあるかもしれないね。……そういえば、どうして赤星道場がパラス=アテナと折り合い悪いか、アンタたちは知ってる?」
「いえ。まったく聞いたことないっすね」
「大昔、まだアトミックも存在しない時代から、あの逮捕された花咲ってお人は格闘技イベントにちょろちょろ関わってたらしいんだけどね。それでどっかのイベントで赤星大吾さんに遭遇して、なんか乱闘騒ぎになっちゃったんだってさ」
「ら、乱闘騒ぎ? どうしてっすか?」
「さあ? アタシもそこまでは聞いてないけど、現役時代の赤星大吾さんは気性が荒かったって話だから、花咲さんののらくらした感じが鼻についたんじゃない?」
現在の赤星大吾氏からは想像もつかないようなエピソードであった。
「それでまあ、いちおうの和解は果たしたけど、やっぱ花咲さんのほうは恨みを忘れてなかったんだろうね。赤星道場の選手がアトミックに参戦するのはかまわないけど、こっちの選手が《レッド・キング》に参戦するのはまかりならんって不文律ができあがったわけだ」
「なるほど……でもそれなら、今のパラス=アテナが赤星道場を疎んじる理由はないわけっすね。それでどうして、チーム・フレアの沙羅選手とマリア選手を対戦させようって話になったんでしょう?」
「さあ? 花さんの推理通り、沙羅は引き立て役で扱いが悪いのか……もしくは、赤星道場も支部のない弱小勢力に過ぎないし、プレスマンともゆかりが深いから、ついでに潰しておこうって考えなのかもね」
沙羅選手とマリア選手。どちらが有利と判じているかで、パラス=アテナの思惑も変わってくるということだ。戦績の面では甲乙つけがたい両者であるが――瓜子としては、怪我から復調したばかりの沙羅選手は分が悪いのではないかと思われてならなかった。
(でも、こっちもそれどころじゃないからな)
瓜子はあえて、沙羅選手に連絡を取っていなかった。
どうしてユーリを敵視する運営陣に与して、チーム・フレアなどに参入したのか――それを問い質したい気持ちはあったが、何を聞かされても納得できそうになかったためである。
(あのお人だって、いい大人なんだ。本人の決めたことを、外野がとやかく言ったって仕方ないしな)
そのように断じて、瓜子は稽古に集中した。
そうしてあっという間にお盆の四日間は終了し、プレスマン道場が再開したならば、またそちらで猛トレーニングである。
何せ試合まで、あとひと月ていどしかないのだ。最後の二週間は調整期間となるために、身体を限界まで追い込める期間は、さらに短かった。
その短い期間で、瓜子は再びメイ=ナイトメア選手に勝てるように、自分を仕上げなければならなかったのだった。
◇
「メイ選手は七月の試合で、色々な手札を見せてくれた。強烈なタックルと鋭い前後のステップなんかが、その代表だな。以前に立てた対策案にそういったことを組み込んで、あらためて作戦を練る必要があるだろう」
盆明けの初日、夕方の自由練習時間。ひと通りの基礎トレーニングをこなした後、プレスマン道場においてはインターバルがてらのミーティングが開かれた。
「それと並行して、ケージの戦い方と新ルールへの対策を練らなきゃならん。それだけで、一ヶ月なんてあっという間だろう。言うまでもないが、気合を入れていけよ、猪狩」
「押忍。ご指導、お願いします」
「ああ。それに、メイ選手の参戦してた《スラッシュ》は最初からケージの試合場だったし、肘打ちも認められてたからな。今度こそ、あちらさんは百パーセントの力を発揮できるっていう目論見なんだろう」
「押忍。メイ選手の肘打ちは、ものすごい威力でしたからね」
「ああ。グラウンドで上を取られたときの対処も磨いておかないと、痛い目を見ることになる。……しかしなんべんも言ってる通り、お前さんの寝技はなかなかのもんだ。たとえ上を取られたって、慌てることはない。これまでに積み上げてきた技術をフルに使って、あちらさんを驚かせてやれ」
そんな言葉で締めくくり、立松はユーリのほうに向きなおった。
「で、桃園さんと対戦するオルガって選手についてだが……やっぱりこっちがどれだけ手を回しても、オルガ選手の試合映像は入手できなかった。どうやらあちらさんは、ロシア国内の試合しか経験がないみたいでな」
「そうですかぁ。ロシアの試合映像なんて、それはなかなか入手困難なのでしょうねぇ」
「ああ。こっちで集められたのは、通りいっぺんのデータだけだ。……オルガ・イグナーチェヴァ。十九歳。ロシアの名門チーム・マルス所属。身長百七十四センチ、当時の体重は六十六キロ。ロシア国内で開かれたフリーウェイトのトーナメント戦に出場して、優勝。父親は、《JUF》で四天王に迫る実力だった、キリル・イグナーチェフ選手。……以上だな」
「ふみゅふみゅ。ならば、四天王であられた卯月選手やベル様の兄君は、オルガ選手の父君と対戦されていたのですかぁ?」
「ああ。キリル選手ってのは、おっそろしい選手だったよ。元軍人でコンバット・サンボの使い手って触れ込みだったんだが、とにかく打撃技が強烈でな。試合のほとんどは、パウンドのKOだ。卯月もジョアン選手も、対戦成績は二勝一敗ってところだろう」
「おお! 卯月選手や兄君様も、一度は敗れておられるのですかぁ」
「ああ。大怪獣タイムの卯月と真正面からやりあって殴り負けなかったのは、後にも先にもキリル選手だけだ。オルガ選手が父親の背中を見て育ったんなら、打撃技はそうとう磨き込んでるだろうな」
そう言って、立松は居住まいを正した。
「しかしな、コンバット・サンボってのは、打撃ありの組み技競技だ。……いや、そもそもは競技ですらなく、軍隊の徒手格闘術だった。コンバット・サンボの使い手ってのは大昔から存在したけど、打撃技と組み技と寝技のどれを得意にするかってのは、選手それぞれでまったく違っていた。だからこっちも、オールラウンダーを相手取るつもりで稽古を積まなきゃならんだろう」
「はいはぁい。ご指導お願いいたしまぁす」
あくまで朗らかなユーリの笑顔を眺めながら、立松は深々と溜息をついた。
「それでだな。こいつは前々から言ってることだが……まだグラウンドでパウンドとかの打撃技を使う気にはなれないのかい?」
「うーん、決してパウンドを忌避しているわけではないのですけれど……パウンドのことまで想定すると、どうしてもくるくる動けなくなっちゃうのですよねぇ。ユーリのお粗末な脳髄では、処理能力が追いつかないと申しますか……」
「桃園さんのパンチ力は規格外だから、パウンドを使えりゃあ大きな武器になるんだがなあ」
立松は、心の底から残念そうにしていた。
呆れたことに、ユーリが試合でパウンドを使ったのは、たったの一回きりであったのだ。しかもそれは小笠原選手との試合においてであり、あのときのユーリは完全に我を失っていたのだった。
「だけどまあ、その言葉が嘘じゃないってことは、稽古を見てても一目瞭然だからなあ。グラウンドで打撃技を織り交ぜようとすると、とたんに人並みの動きになっちまうし……」
「はいぃ。恐縮の至りなのですぅ」
「……まあいい。そいつは地道に、鍛え抜いていくしかない。ただ、相手の動きが止まったときなんかはパウンドを入れられるように、習慣をつけておくんだぞ」
「はいぃ。了解でありまする!」
「じゃあ、次。ルール改正に関する、この部分だな」
立松が、パラス=アテナから届けられた新ルールの通知書を取り上げた。
「肘打ちの解禁と、ダウン制度の廃止。それと気になるのは、ここ。投げ技に関する改正だ」
これまでの《アトミック・ガールズ》では、頭から落とす投げ技が禁止とされていた。それがこのたび、「頭部や首をマットと垂直に落とす投げ技のみが反則行為」と改正されたのだ。
「これもまあ、MMAのスタンダードに合わせた改正だ。余所の興行なんかでも、フロントスープレックスやジャーマンスープレックスなんかで頭から落とすのは、反則でも何でもなかったからな」
「あ、そういうスープレックスでも頭から落としてオッケーになるのですかぁ。とっても痛そうだしとっても危なそうに感じられるのですけれどもぉ」
「ああ。反則となるのは、頭を垂直に落とすバスターやスラムだけだ。スープレックスも危険は危険だが、そこまで頸椎にダメージがいくわけではないからな」
と、立松は難しげな顔で眉をひそめた。
「だけどまあ、スープレックスを得意にする選手にとっては、ありがたいルール改正だろう。レスリング出身の秋代選手はもちろん、オルガ選手も投げ技を得意にしてる可能性があるかもしれん」
「でも、がっぷり四つならユーリさんも負けませんよね。ここ最近は、試合でも相手をぶん投げてますし」
瓜子の言葉に、立松は「そうだな」と首肯する。
「投げ技なら、背の小さな選手のほうが有利な面もある。隙があったら、こっちのほうがぶん投げちまえ」
「はいはぁい。合宿稽古でもマリア選手にさんざんぶん投げられたので、ユーリもけっこうコツがつかめてきたみたいなんですよねぇ」
にこにこと笑いながら、空恐ろしいことを言うユーリである。
その発言に、立松は不敵な微笑を浮かべた。
「寝技と組み技に関しては、桃園さんの吸収力は天才的だな。壁レスもめきめき上達してるし、心強い限りだ」
「えへへぇ。おほめにあずかり恐縮ですぅ」
「問題は、やっぱり立ち技だな。俺たちに二年も隠してた不同視に関して、ひと月で対策を練らなきゃいかんわけだ」
「むにゃー! その節は、本当に失礼をば……」
「冗談だよ。軍造さんのおかげで、基本のスタイルはできあがったからな。あとは、そいつを磨き抜くだけだ」
そのとき、表のトレーニングルームに通ずるドアが開かれて、あちこちから「押忍!」という挨拶の声があげられた。
瓜子がそちらに向きなおると、意想外の人物が近づいてくる。それは、出稽古の予定もなかった小柴選手であった。
「押忍。どうしたんすか、小柴選手? 今日は天覇ZEROの予定だったっすよね」
「はい。あちらのルームのジョンコーチに了解をいただきました。今日から一ヶ月間、こちらで稽古をさせていただけますか?」
そのように語る小柴選手は、年齢よりも幼く見える顔に張り詰めた表情を浮かべていた。
「実は今日……あらためて、九月大会のオファーがあったんです。わたしは、イリア選手と対戦することになりました」
「ええ? イリア選手と? それはちょっと……難敵っすね」
「はい。ですから、こちらで稽古を積ませていただきたく思います」
瓜子も大阪大会でイリア選手と対戦しているため、その対策案は蓄積されている。それを見込んでの申し出なのだろう。
立松は「承知したよ」と小柴選手にうなずきかけた。
「あのピエロは厄介な相手だが、小柴さんぐらいスタンドの技術がありゃあ、戦いようはあるだろう。ちょいと期間は短いが、俺たちがみっちり鍛えあげてやるよ」
「押忍。ありがとうございます」
あくまで静かにたたずみながら、小柴選手は闘志に燃えていた。
灰原選手や白井選手がオファーを蹴ったために、手空きとなった小柴選手とイリア選手で試合が組まれることになったのだろう。しかし何にせよ、それは武魂会をないがしろにするマッチメイクであるはずであった。
(それにしても、中堅未満の小柴選手とトップファイターのイリア選手をぶつけようだなんて……やり口が露骨だな)
そんな風に念じながら、瓜子も小柴選手にうなずきかけてみせた。
「おたがい難敵ですけど、頑張りましょう。自分に協力できることがあったら、なんでも言ってください」
「ありがとうございます。……猪狩さんと同じ陣営で戦えるなんて、光栄です」
と、最後には彼女らしく、はにかむような笑みを見せる小柴選手であった。
立松は「よし!」と声をあげる。
「それじゃあ、おしゃべりはここまでだな。小柴さんはウォームアップ、猪狩と桃園さんは壁レスの続きだ」
そうしてその日も、過酷なトレーニングに終始した。
だが、拳をぶつけるべき相手も見いだせなかったこれまでに比べれば、喜ばしい限りである。これまでに与えられた憤懣は、すべて試合に対する活力に昇華させる他なかった。
パラス=アテナの黒澤やワンダー・プラネットの徳久などという輩は、瓜子にとって手が届かない存在である。ならば、彼らの準備したチーム・フレアを殲滅することで、瓜子は彼らの妄念を叩き潰す所存であった。