03 対戦オファー
サードシングルのレコーディングは、二日間で終了した。
万が一に備えて、レコーディングには予備日というものも準備されていたのだが、それも無用の長物と成り果てた。それらの日はまるまるオフとなるのだから、喜ばしい限りである。
が、レコーディング作業が終了したならば、次に待ち受けるはジャケット撮影とミュージック・ビデオの撮影だ。
今度は、瓜子が頭を抱える番であった。以前にトシ先生が宣言していた通り、このたびのジャケット撮影にも瓜子と愛音が駆り出される運びになってしまったのである。
「このたびは通常版のプレス数を絞って、特装版に注力することが決定されました。前作の限定特装版をも上回る豪華仕様を計画しておりますので、どうぞお二人にもご尽力をお願いいたします」
千駄ヶ谷のそんな言葉で押し切られて、今、瓜子は撮影スタジオに立っていた。
ガウンの下はすでにビキニ姿であり、顔も髪もばっちりメイクされてしまっている。悪い夢なら早く覚めてくれないかなあと、瓜子はひたすら現実逃避にいそしんでいた。
「冴えないお顔ねぇ。本番では容赦しないって言っておいたはずだけど?」
と、坊主頭で眼鏡で髭で痩せ型の中年男性が、そんな瓜子に声を投げかけてくる。この撮影スタジオの絶対君主たる、トシ先生こと坂上塚俊郎御大である。
「自分も水着の撮影はご勘弁って言ったはずっすよね。相手の話を聞かないのは、お互い様じゃないっすか?」
「まあ、小憎たらしいこと! 普段が素直で可愛い分、小憎たらしさも倍増ね! ……アタシのセンスには合わないけど、このストリッパーみたいなマイクロビキニも採用させていただこうかしら」
「ごめんなさい! 本当にごめんなさい! 心の底からお詫びを申しあげます!」
そうして瓜子が土下座の準備をしたとき、夏場でもスーツ姿の千駄ヶ谷が音もなく接近してきた。
「猪狩さん、邑崎さん、ちょっとこちらにおいでいただけますでしょうか? ……坂上塚先生、申し訳ありません。定刻までには、必ず戻しますので」
「はぁい。どうぞごゆっくりぃ」
ガウン姿の瓜子と愛音は、無人のメイク室へと招集されることになった。
「どうしたんすか? キャスト変更なら、喜んで了承しますけど」
「いえ。実は折り入って、お二人にご相談があるのです」
瓜子は、悪い予感しかしなかった。
そしてその予感は、ものの見事に的中したのだった。
「実はミュージック・ビデオを担当する監督と相談した結果、そちらにも猪狩さんと邑崎さんにご出演を願いたいという話に落ち着いたのです」
「そうっすか。ビキニじゃなければ、一考の余地はありますけど」
「……かつてミュージック・ビデオは、プロモーション・ビデオと呼ばれるほうが一般的であったように存じます。プロモーション、つまりは宣伝ですね。今回撮影されるミュージック・ビデオも、CDの販売促進効果を狙って製作が決定された次第です」
絶対零度の眼差しで、千駄ヶ谷はそのように言いたてた。
「ミュージック・ビデオは、CDの発売に先行して配信される予定です。そちらの映像を視聴した方々が、ユーリ選手とお二人の水着姿に魅力を感じ得たならば、それはCDの売上にも大きな影響をもたらすことでしょう」
「あの……ユーリさんの歌は、これまでよりもすごくクオリティが上がったと思います。色気を武器にしなくても、十分に魅力的だと思えるんすけど……」
「すべての良曲がそのクオリティに見合った売上を見込めるならば、現代日本のヒットチャートもあのような有り様にはならないことでしょう。まだまだ歌手としては認知度の低いユーリ選手であるのですから、すべての武器を総動員しなければならないのです」
千駄ヶ谷の眼光は、氷の刃のように瓜子の心臓に食い入ってきた。
「また、現在のユーリ選手はひどく危うい状況に立たされています。当社のリサーチによると、現時点ではユーリ選手に同情する声のほうが上回っているとのことですが、着実にアンチも増加しているのです。ユーリ選手は昨年から上り調子であったため、ただ人気者を蹴落としたいという暗い願望も潜在的に育まれていたのだと推測されます。そこにあれらのゴシップ記事が、格好の火種となってしまったわけですね」
「それはもちろん、自分だってユーリさんの力にはなりたいっすけど……」
「今こそが、ユーリ選手の正念場であるのです。このたびのサードシングルと九月大会の結果こそが、ユーリ選手にとっては運命の分かれ道になるものと、私はそのように推察しています」
そんな会話を数分ばかりも続けたのち、瓜子の悪あがきは終結することになった。
どうやら本日は、ミュージック・ビデオの撮影班もやってくる手はずであるらしい。トシ先生が撮影するかたわらで、そちらの撮影班も映像の素材になりうる水着姿をカメラに収めておくのだそうだ。
(それで当日になって、自分たちに了承を得ようだなんて……舞台裏は、自分の想像以上にバタバタしてるんだろうな。千駄ヶ谷さんも、それだけ必死に動いてくれてるってことか)
瓜子としてはそんな風に考えて、心の鬱屈を慰める他なかった。
かくして、撮影地獄が開始されたわけだが――今回の撮影は、これまで以上に大がかりであった。まずはスタジオで三時間ばかりも撮影したのち、そこから海岸まで移動する手はずであったのだ。前回のピンナップと変化をつけるために、夜間の海辺における撮影などというものまで企画されていたのだった。
千葉の海岸に移動したならば、また別なる水着に着替えさせられて、浜辺での撮影となる。夜間は遊泳も禁止されていたので、水着姿のまま花火やバーベキューに興じるという、瓜子には理解し難いコンセプトであった。
そんなこんなで、すべての撮影が終了したのは、夜の九時であった。
撮影班とは現地解散となり、瓜子たちは千駄ヶ谷のボルボで帰還である。助手席に追いやられた愛音は不満顔であったが、それよりも撮影の仕事をやりとげた昂揚のほうがまさっている様子であった。
「今回もユーリ様のお力になることができて、愛音は光栄の極致なのです! 今後はさらなるお力になれるように、愛音もファイターとして名をあげたく思う所存なのです!」
「あははぁ。どうもありがとうねぇ」
と、呑気な笑顔で答えてから、ユーリはちょっと切なげな溜息をついた。
「それにしても、夜までお仕事ってのはひさびさだったねぇ。明日からは道場もお盆休みだから、今日はお稽古しておきたかったにゃあ」
千駄ヶ谷が、バックミラーごしに眼光を飛ばしてくる。
それに気づいたユーリは、慌てふためきながら両手の先を振り回した。
「あ、いえいえ! ちょっとした愚痴ですので、どうぞお聞き流しくださいませ! 決して千さんのご尽力に文句があるわけではないのです!」
「……私も貴重なトレーニングの時間を頂戴してしまったことは、心苦しく思っています。ユーリ選手には、ファイターとしても確かな結果を残していただかなければなりませんので」
「そうですねぇ。まずは試合のオファーが来てからのお話になりますけれど……」
「本日は、どうだったのでしょうね。猪狩さん、道場のほうからご連絡などは入っていないのでしょうか?」
ユーリは正式にプレスマン道場の所属となったので、今後は試合のオファーもそちらに届けられることになるのだ。
「今日は夜まで仕事だと伝えてあるんで、あちらから連絡が入ることはないと思います。念のために、連絡してみましょうか?」
「ええ。よろしければ」
瓜子はくたびれきった心に鞭を打って、携帯端末を取り出した。
そうして道場にコールを送ると、立松の上ずった声が響きわたる。
『おう、待ってたぞ! 閉館までに連絡がなかったら、こっちから電話を入れようと思ってたところだ!』
「お疲れ様です。何かあったんすか?」
『試合のオファーだよ! ついでに、ルール改正の通知書も今日になって届きやがった! 盆の直前に、ふざけた野郎どもだよ!』
瓜子は、冷水で目を覚まされたような心地であった。
「試合のオファーは、ユーリさんにすか? 自分にすか?」
『両方だよ! お前さんは、メイ=ナイトメア選手。桃園さんは、ロシアのオルガ選手だ!』
瓜子は息を呑みながら、車内のメンバーにその内容を伝えてみせた。
それを聞くなり、国道を走るボルボがぐんと加速される。
「ユーリ選手に対してオルガ選手というのは想定内でしたが……猪狩さんには、前大会で対戦したばかりのメイ=ナイトメア選手ですか」
「はい。詳しく話を聞いてみます」
そうして瓜子が通話口をふさいでいた携帯端末に「もしもし」と呼びかけると、立松ならぬ元気な娘さんの声が響きわたった。
『あ、うり坊? あたしだよあたし! 苦労してぶっ倒した化け物女と速攻で再戦なんて、ふざけた話だよねー!』
「ど、どうも。灰原選手っすよね? 立松コーチはどうしたんすか?」
『あたしも話したいから、代わってもらったの! ていうか、今どこ? 電話じゃ話しづらいから、道場まで来てくれない?』
灰原選手は本日も、出稽古でプレスマン道場まで出向いてきていたのだ。
瓜子が再び電話の内容を伝えると、千駄ヶ谷は「承知しました」といっそうアクセルをふかした。
「私としても、自分の耳で直接おうかがいしたく思います。邑崎さん、ご帰宅はその後でも問題ないでしょうか?」
「はいなのです! 愛音もぜひ立ちあわせていただきたいのです!」
「では、三十分ていどで到着するものとお伝えください」
道場は十時までオープンしているので、三十分で到着できれば存分に語らえるはずであった。
遊園地のアトラクションを彷彿とさせるハンドルさばきで、千駄ヶ谷はボルボを疾走させる。新宿プレスマン道場に到着したのは、九時二十五分のことであった。
「あー、来た来た! どいつもこいつも、お疲れさん!」
まずは汗だくの灰原選手が、笑顔で呼びかけてくる。
現在は自由練習の時間であるので、男子選手やキックの選手も思い思いにトレーニングを進めている。立松が取り仕切っていたらしい女子MMA部門のスペースには、サキと灰原選手、多賀崎選手と小柴選手が居揃っていた。
「お疲れ様です。オルガ選手とメイ=ナイトメア選手が、お二人の対戦相手として設定されたそうですね」
千駄ヶ谷が率先して問いかけると、立松は「ああ」とうなずいてから、少し無念そうに瓜子とユーリを見比べてきた。
「それでな、こいつはちょっと言いにくいんだが……各階級の王座はいったん白紙に戻すので、速やかにベルトを返還しろって話だ。釈然としねえのは当然だが、こればっかりは逆らいようがない」
「全階級のベルトを返還? どうしてそんな話になったんすか?」
「階級の呼称を全面的に改正して、六十一キロ以下級を新たに制定する流れでそうなったんだとよ。それで、無差別級は廃止されるんだそうだ」
瓜子は唇を噛みながら、かたわらのユーリを振り返った。
ユーリは眉を下げつつ、健気に微笑んでいる。
「そうですかぁ。でもでも、ユーリはなかなか自分からベルトを手放す気持ちにはなれなかったと思うのでぇ……あっちが強引に決定してくれたのなら、それもまたよしかもしれませんねぇ」
「ああ。桃園さんの実力なら、ベルトもすぐに取り戻せるよ。腐らずに、頑張っていこう。……サキも、猪狩もな」
「ふん。アタシはいまだに試合のオファーも受けられねー体たらくなんだから、今さらそんなもんに未練はねーよ」
そう言って、サキは瓜子の頭を優しく小突いてきた。
「アタシの復帰は、半年後か一年後だ。アトミックがぶざまに潰れねー限りは、おめーが初代王者として新しいベルトを守っとけや」
「押忍。他の誰にも渡しはしませんよ」
立松は大きくうなずいて、ユーリへと向きなおった。
「で、桃園さんのほうだが……こっちは当たり前みてえに、六十一キロ以下級でオファーが来やがった。おまけに相手は、ロシアのオルガ選手だ。このオファー、受けるか?」
「ふみゅ? 受けない選択肢というものも存在するのでしょうか?」
「そりゃあするだろ。これまで通りの五十六キロ以下級なら、チーム・フレアで相手になるのは沙羅選手だけだ。楽に勝てる相手とは言わんが、上の階級に挑むよりは苦労も少ないだろう」
「ですが」と声をあげたのは、千駄ヶ谷であった。
「あちらはおそらく対ユーリ選手の秘密兵器として、オルガ選手を準備したものと推測されます。ユーリ選手が五十六キロ以下級の残留を望んだならば、オファーを出さずに飼い殺しにしようと目論む可能性があるのではないでしょうか?」
「ああ。あいつらならやりかねないだろうな。その可能性まで考慮した上で、桃園さん自身の気持ちを聞かせてもらいたい」
立松が真剣な目つきで見つめると、ユーリはふにゃんと微笑んだ。
「ベルトをお返ししないといけないのなら、階級の変更に異存はありませんですよぉ。ユーリの目標はベル様ですし、ベル様はそちらの階級のはずなのですからねぇ」
「ああ。無差別級が廃止でも、ベリーニャ選手はもともと六十キロそこそこのウェイトだったからな。運営陣のやり口に呆れて帰国でもしない限り、やりあえるチャンスは残るだろう」
「ではでは、つつしんで階級の変更をお受けいたしますぅ」
「そっか」と息をついたのは、多賀崎選手であった。
「桃園が階級を上げるなら、あたしとの対戦は実現しなくなるわけだ。残念なようなほっとしたような、複雑な心地だよ」
「あはは。確かにそうですねぇ。これだけお稽古をご一緒していると、多賀崎選手と試合をするっていうのもなかなかイメージしにくいところなのですけれどぉ」
その言葉に、ぴくんと反応する二人の存在があった。
灰原選手と、小柴選手である。
「……あんたたちにオファーが来たっていうから、あたしらもそれぞれのジムや道場に確認してみたんだよね。そしたら、あたしらにもオファーが来てたんだ」
「灰原選手と小柴選手もっすか。お相手は、誰です?」
「だから、あたしら。あたしとコッシーで試合をしろってオファーだよ」
瓜子は「え?」と、軽くのけぞることになった。
「灰原選手と小柴選手でっすか? でも……お二人は去年の十一月、対戦したばかりっすよね?」
「そう。うちの階級はあれだけうじゃうじゃ選手がいるのに、なんであたしとコッシーなの? まさか、何か裏でもあるんじゃないだろうね?」
灰原選手は怒った顔をしており、小柴選手は思い詰めた顔をしている。
去年の十一月、ユーリが無差別級トーナメントに参加していた裏で両者は対戦しており、灰原選手の一ラウンドKO勝利という結果に終わっていたのだ。
「うーん。確かに、必然性を感じないカードっすよね。何か裏がありそうな気がしますけど……」
「それを探るには、他のカードの内容もリサーチするべきではないでしょうか? そうすれば、あちらの思惑が透けて見えるかもしれません」
千駄ヶ谷のアドヴァイスに従って、瓜子は鞠山選手に連絡を入れてみた。
『今お電話をしても大丈夫ですか?』というメールを入れると、返信ではなく着信が告げられてくる。
『連絡を待ってただわよ。ようやく仕事も終わったようだわね』
「はい。ちょっとご相談したいことがありまして。九月大会のマッチメイクに関してなんすけど――」
『その件で、こっちも連絡を待ってたんだわよ。うり坊、あんたやピンク頭は里帰りしない予定だって言ってただわね? だったら明日、つきあってもらいたい場所があるだわよ』
「え? いったい何のお話っすか?」
『だから、九月のマッチメイクに関してだわよ。どうやらあいつらは、まず天覇と武魂会を潰そうとしてるみたいなんだわよ』
瓜子は、言葉を失うことになった。
その間に、鞠山選手は勢いよくまくしたててくる。
『天覇と武魂会は外様だから、そこに所属する選手を踏みつけにしてチーム・フレアの名をあげようって寸法だわね。トキちゃんには秋代、美香ちゃんにはジジ、その他もろもろ、天覇や武魂会に不利になるようなオファーが殺到してるんだわよ』
「お、小笠原選手にタクミ選手? だって小笠原選手は、無差別級じゃないっすか。減量を考えてるとは言ってましたけど、あとひと月で六キロ落とすのはキツイでしょう?」
『どうせこれを蹴ったら、もうトキちゃんにはオファーを回さないつもりだわね。トキちゃんが新しいルールやケージの試合に慣れない内に潰しておこうって魂胆だわよ』
熱のこもった声で。鞠山選手はそのように言いたてた。
『とにかくわたいたちは、決起集会を開くことになったんだわよ。明日の午後二時、天覇館東京本部道場に集合だわよ。あんたたちも、絶対に出席するだわよ』