06 陥穽
そうして合同合宿の初日の稽古は、無事に終了することになった。
二時間にわたる自由稽古の後は、夜食である。おおよその人間は夕食を腹六分目に抑えていたので、ここでリカバリーしなければならないのだ。
「おう、お疲れさん! 準備は整ってるから、好きなだけ喰らってくれ!」
赤星大吾、三度目の登場である。
夜食は、食堂に準備されていた。バーベキューで余った食材を、赤星大吾シェフがいっぱしの料理に仕上げてくれたのだ。メインはシンプルな水炊きであったが、それ以外にもソーセージと野菜の炒め物やパスタにピラフなども大量に準備されており、赤星大吾がメキシコ料理以外でも比類なき調理の腕を持っていることが証明された。
「楽しい楽しい海水浴から始まって、六時間の猛練習と美味しい食事……ああ、この地こそが桃源郷なのではないかしらん」
ユーリが陶然とした面持ちでつぶやくと、瓜子をはさんで逆側に陣取っていた灰原選手が溜息をついた。
「猛練習だけ、余計でしょ。あんた、どれだけドMなのよ?」
「ふにゅ? お稽古よりも楽しいことなど、試合ぐらいしか思いつかないユーリちゃんなのですが」
「へーえ。稽古の合間にぼろぼろ泣いてたみたいだけど、あれも楽しい思い出に変換されてるってわけ?」
「にゅわー! それは言わない約束なのです!」
あまり相性のよろしくないユーリと灰原選手も、じわじわ距離が縮まってきているようであった。
他のテーブルでも、四十名からの人々が楽しそうに歓談している。アルコールの類いは明日の夜までおあずけという話であったが、それでも合宿稽古という非日常の空間が意気を上げてくれるのだろう。それは瓜子も同じことであった。
そんな中、こっそりと入室してきた何名かの女性たちが、赤星弥生子のもとに近づいた。キッズクラスの子供たちの保護者だ。
赤星弥生子に耳打ちしながら、こちらのほうをちらちらと見ている。その視線が、いかにも意味ありげであった。
(なんだろう? ユーリさんを見てるみたいだけど……)
その答えは、夜食の後に明かされることになった。
赤星弥生子が、単身でユーリのもとにやってきたのだ。
「桃園さん。ちょっとこちらに来てもらえるだろうか?」
「はい!? ユーリが何か、不始末をしでかしてしまったでしょうか!?」
「いや、そういうわけではないのだが……ちょっと厄介な事態になってしまってね」
赤星弥生子はいつでも張り詰めた面持ちをしているために、内心がわかりにくい。たちまち不安げに縮こまってしまったユーリに代わって、瓜子が声をあげることにした。
「ユーリさんが、どうかしましたか? よければ、自分も一緒に聞かせてください」
「それはまったくかまわないが、あまり大ごとにしたくないので、あちらの部屋に移動してもらえるだろうか?」
悄然とするユーリをうながして、瓜子は腰をあげた。
瓜子とユーリの隣に陣取っていた灰原選手と愛音がそれに続いても、赤星弥生子にとがめられることはなかったので、五名でぞろぞろと食堂を出る。
案内されたのは、この宿に存在する四つの広間のひとつであった。
そこで待ち受けていたのは、さきほどの女性たちが三名と、立松にジョンだ。女性たちは曖昧な表情、ジョンはいくぶん悲しげな笑顔、そして立松は――明確な怒りの形相であった。
「桃園さん、何もしょげかえることはないぞ。こんな誤解は、すぐに晴らせるだろうからな」
「誤解……と、申しますと……?」
「またあの連中が、悪ふざけを仕掛けてきたんだよ! そんなヒマがあるなら、稽古に集中しやがれってんだ!」
「立松さん、冷静に。順を追って話しましょう。……私たちが稽古を行っている間に、例のサイトで新しい動画が公開されたのだそうだ」
「例のサイト? アトミック――じゃなくて、《カノン A.G》のことっすね?」
勢い込んで瓜子が尋ねると、赤星弥生子に「冷静に」とたしなめられてしまった。
「その動画で、桃園さんが誹謗されていた――というべきなのかな。正確には、桃園さんを誹謗するこの記事が、その動画の中で取り沙汰されていたという話だ」
「この記事」と言いながら、赤星弥生子がテーブルに置かれていた雑誌を取り上げた。かつてユーリと卯月選手の熱愛記事を捏造した、あの低俗な週刊誌である。
「あいつらが、また凝りもせずにデマカセの記事をでっちあげたってわけっすね。今度は誰との熱愛スキャンダルっすか?」
「それは、自分の目で確かめてもらいたい」
瓜子はうなずき、その忌まわしい雑誌を受け取った。愛音と灰原選手が左右から覗き込み、ユーリもおそるおそるといった様子で視線を向けてくる。
その表紙に記載された見出しの文字を目にするなり――ユーリの顔が、蒼白となった。
『告白手記! かつての恩師も、魔性のユーリに破滅させられていた!?』
そこには、そのように綴られていた。
「恩師って? あんた、まさか学校の教師とおかしな関係だったんじゃないだろうね?」
灰原選手がとがった声をあげると、ユーリは青ざめた顔でゆるゆると首を横に振った。自分の両腕を抱いた指先が、小さく震えてしまっている。
「……ユーリさんは、ちょっと待っててください。自分が要約して、内容をお伝えします」
ユーリの精神的負荷を少しでも軽減すべく、瓜子はそのように宣言してみせた。
そうして記事の本文に目を通すと、これまで以上の怒りがわきたってくる。敵は、また下らない捏造の記事でユーリを貶めようとしてきたのだ。
「うわー、ひどいねこりゃ。半分以上、官能小説じゃん」
「見るに堪えないのです! 目が腐り落ちそうなのです!」
騒ぐ両名をよそに、瓜子は一字余さず熟読した。本当に眼球が腐敗しそうな心地であるが、ユーリにこのようなものを読ませるよりは遥かにマシであった。
「……なるほど。要約すれば、中学時代の担任教師が、ユーリさんに誘惑されて、ふしだらな関係に陥ったあげく、それがバレて学校から追い出されたってことらしいっすね」
煮えくりかえる激情をなんとか抑えつけながら、瓜子はそのように言ってみせた。
「悪いのは誘惑してきたユーリさんのはずなのに、相手が未成年ってことで、教師のほうが責任を問われて破滅したそうです。その腹いせに、こんな記事を週刊誌に売りつけた――っていう体裁らしいっすよ」
「体裁とは?」と、赤星弥生子が静かな声で問うてくる。
それを見習って、瓜子も同じトーンの声を返した。
「こんな記事は全部デマカセなんすから、体裁って言うしかないでしょう? こんな話は、絶対にありえませんから」
「しかし、桃園さんはずいぶん動揺してしまっているようだ」
反射的に怒声をあげそうになった瓜子は、歯を食いしばってそれに耐えてみせた。
ユーリが動揺しているということは――これは何か、ユーリのトラウマを揺さぶるような内容であるということなのだ。
「普段であれば、私たちがこのような話に干渉する理由はない。ただ、間の悪いことに――キッズクラスの門下生たちが、例のサイトの動画を視聴してしまったんだ。子供たちの多くはマリアになついているから、《アトミック・ガールズ》の動静が気にかかっているのだろう」
「それで? わざわざこんな下らない雑誌を買ってきたってことっすか?」
「雑誌を購入したのは、彼女たち――子供たちの保護者の方々となる。本当にそんな記事が存在するのかと、確認するためだ」
三名の女性たちが、曖昧な表情でうなずいている。そこに嫌悪感などが表れていないのは、まだしも幸いなことであった。
「桃園さんが現在の運営者と対立し、身に覚えのないスキャンダルをでっちあげられたという件は、門下生たちに周知している。だから子供たちも、またデタラメな記事が出されたようだと騒いでいたに過ぎないが――今回は、内容が内容だ。これもデマカセの記事だというのなら、桃園さんにはっきり明言してもらいたい」
「あー、子供の親としては、そう考えるのが普通だよねー。中学時代に教師を誘惑した女なんて、子供に近づけらんないよなー」
灰原選手がそのように言いたてたので、瓜子は思わずそちらにつかみかかりそうになってしまった。
それを間一髪で抑制できたのは、灰原選手の顔にも怒りの表情が浮かべられていたためである。
「あたしだってこれだけ顔を突き合わせてりゃあ、こいつがそんな真似をしないってことは信じられるよ。でも、初対面の人間はそうじゃないでしょ? 違うなら違うって、はっきり言ってやりゃあいいんだよ」
そう言って、灰原選手はユーリの青ざめた顔を覗き込んだ。
「ピンク頭、あんたは中坊の頃に、担任の教師を誘惑したの?」
「して……ないです……」
「だったら、話は終わりだね! これで文句はないんでしょ?」
灰原選手は、殺気のこもった目つきで保護者の面々をにらみ回した。
すると――ユーリが、決然と面をもたげた。
「ユーリは、誘惑なんてしてませんけど……中学二年のとき、担任の先生が……学校を追い出されたのは、事実です」
「ピンク頭! もういいって!」
「いえ……ユーリは、本当のことを知ってもらいたいです」
ユーリは、泣いていなかった。
顔は死人のように青ざめてしまっているが、その目には強い光が灯されている。
それは――去年の夏、瓜子とサキにだけ見せた、あの戦いの女神めいた眼光に他ならなかった。
「あれは梅雨どきだったから、たぶん中学二年生の六月ぐらいのことです。ユーリは放課後、その先生に指導室まで呼び出されたのですけれど……話しているうちに、だんだん先生の様子がおかしくなってきて……気づいたら、床に押し倒されていました。それで、制服を破られて……ユーリは怖くて、抵抗もできなかったんですけど……それに気づいた保健の先生が、助けに来てくれて……ひどい目にはあわずに済みました」
ユーリの白い指先が、苦しそうに咽喉もとをまさぐった。
しかしユーリは強く瞳を光らせたまま、言葉を重ねていく。
「警察が呼ばれたりすることはなかったんですけど……ユーリの……父親が……ものすごく怒ったので……その先生は、教師をやめることになったみたいです。あとのことは、何も知りません」
「だったら悪いのは、全部その教師のほうじゃないですか!」
びっくりするほどの大きな声が、広間に響きわたった。
声をあげたのは、保護者の女性のひとりである。その顔には、純然たる怒りの表情が浮かべられていた。
「それを逆恨みして、こんな記事を雑誌に売ったってわけですね! そんなの、あまりにひどすぎます! ユーリさんは、断固抗議するべきですよ!」
「岡山さん、落ち着いて。……これで桃園さんへの疑いは晴れたわけですね?」
赤星弥生子が沈着に問いかけると、岡山なるその女性は「もちろんです!」と大声で応じた。
「ユーリさんのこんな姿を見させられて、その言葉を疑う気にはなれません! ユーリさん、そんなおつらい話をこんな大勢の前で打ち明けさせてしまって、どうもすみませんでした!」
岡山なる人物を筆頭に、三名の女性がユーリにわらわらと近づいてくる。
「お顔が真っ青ですよ! 過呼吸とかは大丈夫ですか? 誰か、お水を持ってきてあげてください!」
その勢いに押されるようにして、ジョンが広間を出ていった。
女性たちは、心から申し訳なさそうな顔でユーリを取り囲んでいる。
「この雑誌がデマカセの記事を載せるのは、二度目ですよね? こっちが反論すれば、きっと燃えますよ! 前回の記事でも卯月くんが訴訟騒ぎを起こしてくれたから、めいっぱい炎上するはずです! いっそ、ユーリさんのブログで反論したらいいんじゃないですか?」
「ブ、ブログ?」
「『ユーリのももいろ日記』ですよ! 最近アンチのコメがひどいですけど、そのぶんアクセスも急上昇中でしょう? ここ数日は、ずっとランキング上位ですし!」
ユーリはまだ苦しそうに咽喉もとを押さえたまま、目をぱちくりとさせていた。
「ああ、ブログってアレのことですかぁ。でもあのブログは……あ、これは言ったらマズいのかなぁ? ユーリじゃなくって、マネージャーさんが書いてくれてるんですぅ」
「えっ、そうなんですか!? ユーリさんのイメージそのままだったから、てっきり本人が書いてるのかと思いました!」
岡山なる女性は、思案深げに考え込み始めた。
「だったら、マネージャーさんに連絡してもらって……うちのブログと連動させませんか? わたしもあの界隈では、そこそこアクセスを稼いでるんですよ。きっとお役に立てると思います!」
「いいですね! わたしもSNSのアカウントを持ってますから、協力させてください! ご縁の薄いわたしらが騒いだら、むしろ説得力が増すと思います!」
「それで炎上したら、きっとすぐにネットニュースが飛びついてきますよ! 今どきはこんな雑誌よりネットニュースのほうが閲覧してる人間は多いんですから、きっと効果的です!」
情緒が乱れている上にネット音痴のユーリは、わけもわからずにぽかんとしている。
それよりも少しだけ先に我を取り戻すことのできた瓜子が、声をあげさせてもらうことにした。
「それじゃあちょっと責任者に連絡を取るんで、お待ちいただけますか? ……でもみなさんは、そのブログとかSNSとかで、赤星道場の関係者だって明かしたりはしてないんすか?」
「してますよ、もちろん。今日の合宿のことだって、ブログに書かせていただきましたし」
「そうすると、パラス=アテナと赤星道場の折り合いが悪くなってしまう可能性が――」
瓜子の言葉は、赤星弥生子の「かまわない」という断固たる声にさえぎられることになった。
「我々が保護者の方々の行動に口出しする権利などありはしないし……私個人も、このように悪質なデマは一刻も早く消し去るべきであるように思う」
「それじゃあ、すぐに動きましょう! 猪狩さん、責任者の御方にご連絡をお願いします!」
「は、はい。承知しました」
ポケットの中の携帯端末をまさぐりつつ、瓜子はユーリの顔を覗き込んだ。
「……大丈夫っすか、ユーリさん?」
ユーリは健気に笑いながら、瓜子にピースサインを返してきた。
その背後で、立松や愛音や灰原選手はめらめらと闘志を燃やしている。
新生パラス=アテナとこの雑誌を刊行している出版社は、また数多くの人間を敵に回したようだった。