03 明かされた事実
結論から言って、ユーリは左右で極端に視力が異なっていた。
ユーリが最後に診察をしたとき、左目の度数が1.2であったのに対して、右目は0.1であったという。
「でも、コンタクトレンズは身体に合わなくて、度入りの眼鏡をかけると頭痛がひどいから……ずっと裸眼で過ごしてきたのです」
体育館の片隅に正座をしたユーリは、訥々と語っている。
それを聞いているのは、瓜子と立松、赤星弥生子と六丸の四名だ。これはプレスマン道場の緊急事態と判じて、瓜子が立松を呼び出したのである。指南役を失った女子選手たちは、今もなおスパーリングのさなかであった。
「不同視ってのは、俺も小耳にはさんだことがある。いわゆる、ガチャ目ってやつだよな。左右の視力に偏りがありすぎて、遠近感がつかめないっていう……でも、そいつはべつだん珍しい話でもないはずだ。問題は、どうしてそれを俺たちに黙ってたかってことだよ」
真剣きわまりない面持ちで、立松はそのように言いたてた。
ユーリはますます小さくなりながら、「はい……」という弱々しい声をこぼす。
「プレスマン道場のお世話になるときに打ち明けようかと思ったのですけれど……何かおかしな騒ぎになったら大変だと思い……そうして口をつぐんでいるうちに、ずるずると言いそびれてしまった次第です……」
「おかしな騒ぎって、どういうこったよ。桃園さんの目が悪いからって、何も騒ぎになる理由なんか――」
そこまで言って、立松の顔に怒気が閃いた。
「おい。まさかそいつは……試合や稽古で怪我をして、片方の目だけ視力が悪くなったってことなのか?」
「はい……とあるジムのお稽古中に、相手の指が目に入って……」
「だったら、ただの事故だろう。……いや、事故なら隠す必要もねえな。まさか、故意でそんな真似をされたってのか?」
「故意かどうかはわかりませんけれど……そのお人は、ユーリのことを嫌っていたので……」
「なんだよ、そりゃ!」と立松が大きな声を出したために、ユーリはすくみあがってしまった。
「どこのジムの、なんてやつだ? 今から俺が、そいつと話をつけてきてやる!」
「立松さん、落ち着いて。そのような騒ぎになることを恐れて、彼女は打ち明けることができなかったということなのでしょう」
赤星弥生子が沈着な声音で、立松をたしなめた。
「君がプレスマン道場に入門したのは、二年ほど前のことだそうだね。君はいつ、目を負傷したのかな?」
「プレスマンのお世話になる、一年ぐらい前……ちょうどユーリのデビュー戦が決まった頃です……」
うつむいたユーリの顔から、ぽたりと涙が落ちた。
「なんだか視界がぼやけるなあと思って、こっそりお医者さんに行ってみたら……右目だけ視力が落ちちゃってて……でも、あれこれ精密検査をしても異常はなかったし、格闘技の試合にも支障はないって診断だったから……」
「誰にも告げずに、ずっと稽古と試合を続けてきた、ということかな?」
「はい……もしもおかしな騒ぎになったら、ユーリのデビューも取り消されちゃうかと思ったので……」
立松はまた怒声をあげそうになったが、赤星弥生子がそれよりも早く発言した。
「格闘技の試合に臨むには、事前にメディカルチェックがあるはずだ。それに引っかかっていないということは、診察の結果にも間違いはなかったのだろう。また、不同視の人間というものはそれほど珍しくもない。うちの師範代などは、生来の不同視であるはずだからね」
「なに? そうなのか?」
「ええ。片方の目にだけコンタクトを使用しています。師範代が十代の頃などはまだコンタクトも未発達で、裸眼のまま空手の試合に出ていたそうですが。やはり遠近感がつかめずに苦労したそうです」
そのように語りながら、赤星弥生子はいくぶん眼光を鋭くした。
「よって、君の行動もそれほど非難するには値しないように思える。ただし、同門の人間にまでそれを秘匿するというのは……大いに猛省するべきだろうな。私が立松さんの立場だったなら、同じぐらいの怒りと悲しみにとらわれていたはずだ」
ユーリは蚊の鳴くような声で「はい……」とつぶやいた。
そのあまりに哀れげな姿を見下ろしながら、赤星弥生子はふっと息をつく。
「だから後は、そちらの問題だ。私は稽古に戻るので、話が落ち着いたら参加するといい。……では」
赤星弥生子が身をひるがえすと、六丸もひょこひょことそれに追従した。
そこで立松が「六丸くん」と声をあげる。
「俺たちが二年も気づかなかったことを、よくもひと目で見抜けたもんだな。自分のボンクラ加減に呆れちまうよ」
「いえいえ。人様の粗さがしに長けているというだけのことです。なんの自慢にもなりはしませんよ」
六丸はふにゃんとした笑みを残して、立ち去っていった。
残るは、ユーリと瓜子と立松の三名である。
立松は溜息をつきながら、ユーリのもとに膝をついた。
「顔をあげなよ、桃園さん。これじゃあ怒るに怒れねえや」
「はい……」とユーリは涙まみれの顔を上げた。
瓜子もまた溜息をつきながら、手持ちのタオルでその涙をぬぐってみせる。
「桃園さんの事なかれ主義ってのは、厄介きわまりねえな。医者に大丈夫だって診断されたんなら、桃園さんのデビューが取り消されたりなんて話にもならなかったはずだろ」
「でも……ユーリのデビューは放送局とのタイアップ企画でしたから……そんな怪我をしたってバレたら、ドキュメント番組の制作も中止になっちゃってたかもしれませんし……」
そしてその企画が頓挫していたなら、ユーリはいかがわしい映像作品に出演して、制作費を弁済しなくてはならなかったのだ。
「当時のユーリさんが口をつぐんでたってのは、まだわかります。でも、それを自分たちにまで隠してたのは……やっぱり水臭いっすよ。ユーリさんの当て勘の悪さに頭を抱えてたコーチやサキさんたちの姿を見て、ユーリさんはなんとも思わなかったんですか?」
瓜子が口を出すと、ユーリの目にたちまち新たな涙があふれかえってしまった。
その姿に胸の内側をかき回されつつ、それでも瓜子は断固として言いつのってみせる。
「自分は絶対にユーリさんを嫌ったりしませんし、今後もこれまで通りにおつきあいをさせていただきます。その大前提で、言わせてもらいますよ。ユーリさんはやっぱり、なんでもかんでも抱えすぎです。それでもって考え足らずで、場当たり的で、事なかれ主義です。バレて困るようなことは、隠さないでくださいよ。自分たちのことを、信用してくれてるんでしょう?」
「ごめんな……しゃい……」
「この前のプロ契約なんて、いいきっかけだったじゃないっすか。あのタイミングで話してくれれば、自分たちももう少しはショックが小さかったっすよ。ユーリさんの秘密を他人の口から聞かされるなんて、自分は我慢なりません。本当にもう、何も隠し事はないんでしょうね?」
「はい……たぶん……」
「たぶんって何すか! そこはハッキリさせてくださいよ!」
ユーリは「えーん!」と子供のように泣き出してしまった。
立松は鼻白んだ様子で「おいおい」と声をあげる。
「まさか、俺がなだめる役に回るとは思わなかったな。説教をするにも、加減が必要だろ?」
「いいえ! 自分はもう、ユーリさんに気持ちを隠さないって決めましたから! 言いたいことは、全部言わせてもらいます!」
瓜子は再びユーリの涙をふきながら、その目の奥をじっと覗き込んでみせた。
「よく考えてください、ユーリさん。プライヴェートの話は、別にいいんです。いま話してるのは、格闘技についてですよ。コーチ陣から指導を受けるにあたって打ち明けておくべきことはないか、それを聞いているんです。目の他に、病気や怪我を抱えてたりしませんよね?」
「してない……頭は悪いけど……」
「そんなことは、重々承知してます。だいたい、ユーリさんが隠したかったのは視力の落ちた原因のほうでしょう? もともと視力が悪かったって話にしておけば、なんの騒ぎにもならないじゃないっすか」
「でも……嘘はつきたくなかったし……」
「こんな隠し事は、嘘よりタチが悪いっすよ。立松コーチの心がせまかったら、ここで見放されてるレベルのお話っすよ?」
ユーリは真っ青になりながら、立松に向きなおった。
立松は嘆息をこぼしながら、頭をかき回す。
「だから、これじゃあ怒るに怒れねえだろ。……桃園さん、俺からも聞かせてもらおう。もう隠し事は、ないんだな?」
「格闘技については……ないはずです……」
「今後は嘘も隠し事もしないって、誓えるか?」
「誓います……」と、ユーリは滂沱たる涙をこぼし続ける。
立松は何かを吹っ切るように、「よし!」と大きな声をあげた。
「それじゃあ、この場はここまでだ。おいおいジョンたちも交えてじっくり話すことにして、今は稽古に戻ろう。猪狩も、それでいいな?」
「はい。気が済まなかったら、自分もまたじっくり語らせていただきます」
そんな風に答えながら、瓜子はユーリのピンク色をした髪をつまんでみせた。現在のユーリは身体に密着したラッシュガードとロングスパッツの姿であったため、他につまめる場所がなかったのだ。
「自分もまだまったく冷静じゃないっすけど、これでユーリさんを見放すようなことは絶対にありませんから。ユーリさんも気持ちを切り替えて、稽古に戻ってください。せっかくの合宿稽古を台無しにしたくはないでしょう?」
「うん……」と弱々しくうなずいてから、ユーリは聞こえるか聞こえないかという小さな声で「ありがとう」と囁いた。
そうして目もとを赤く泣きはらしたユーリを連れて元の場所に戻ってみると、小笠原選手とオリビア選手もスパーに加わっていた。子供たちへの指南役も、ひと区切りついたのだろう。
そして、赤星弥生子の代わりに、大江山軍造が立ちはだかっている。赤鬼の異名そのままの風貌をした赤星道場の師範代は、ぎょろりとした目で瓜子たちをにらみつけてきた。
「待ってたぞ。不同視を隠してたってのは、そっちの色っぽい娘さんだな?」
「ああ。軍造さんも、そうだったんだって?」
「ふん。赤星道場に入門する頃には、もうコンタクトだったからな。それより前の空手時代には、たいそう難儀だったもんさ」
そんな風にのたまいながら、大江山軍造は四角い下顎を撫でさすった。
「コンタクトが身体に合わないってのは、俺以上に難儀だろうな。よければ、俺が稽古をつけてやろう。一日や二日でどうにかできるもんじゃないが、そいつの不自由さを一番わきまえてるのは、俺だろうからな」
「そいつは助かるけど、子供たちの面倒はいいのかい?」
「師範が代わりに出向いたんで、子供たちは大はしゃぎさ。まったく、美人にはかなわねえな」
と、大江山軍造は鬼のような顔で笑った。
「さ、それじゃあこっちで個別指導だ。しばらくしたら、スパーの相手を借り受けるからな」
「ああ、お願いするよ。……桃園さん、お礼を」
「は、はい! ありがとうございます! そして、どうぞよろしくお願いいたします!」
そうしてユーリは大江山軍造とともに、体育館の隅に引き下がっていった。
瓜子たちが稽古場に戻ると、是々柄がちんまりとした手に握ったストップウォッチを立松に差し出してくる。
「そろそろタイムアップっすよ。こいつはメディカルトレーナーのお仕事じゃないんで、お譲りしていいっすか?」
「ああ、面倒をかけちまったな。六丸くんはいないのかい?」
「六ちゃんは、弥生子ちゃんの忠犬っすからね。一緒についていっちゃったすよ」
そうしてタイムアップになると、スパーに励んでいた面々は水分補給にいそしんだ。
そんな中、笑顔の小笠原選手が瓜子に近づいてくる。
「多賀崎さんから話は聞いたよ。桃園のやつ、片目だけ視力が弱かったんだって? やっぱあの当て勘の悪さには、れっきとした理由があったってわけだ」
「ええ。どうやらそういうことみたいっす」
「ふふ。隠し事をされてたアンタたちは心中穏やかじゃないだろうけど、原因が判明したのは何よりだったね。これだけでも、合宿稽古に参加した甲斐があったんじゃない?」
きっと、小笠原選手の言う通りなのだろう。
しかし今は、瓜子も気持ちや考えが定まらない。ユーリに隠し事をされていたというショックと、ユーリの悲しげな姿に対するやるせなさで、瓜子もまったく平常心でなかったのだ。
(本当に……人騒がせなお人だよ)
瓜子が体育館の片隅に目をやると、ユーリはミットを構えた鬼コーチを相手にパンチを繰り出しているさなかであった。
ユーリのほうこそ乱心のきわみであるはずだが、そのフォームにはひと筋の乱れもない。瓜子たちの心をかき乱した分、ユーリには飛躍を遂げてもらわなくては気が済みそうになかった。