ACT.4 合同合宿稽古 #2 01 ランチと稽古
二時間あまりの自由時間を満喫したのちは、昼食である。
瓜子たちが『七宝荘』に戻ってみると、そこには食欲中枢を刺激する芳香がこれでもかとばかりに香りたっていた。
「おう、戻ったか! ランチの準備はばっちりだからな!」
香りの根源は、さきほど集合した中庭であった。そこにはバーベキューの設備が整えられており、やたらと巨大な図体をした人物がひとりで昼食の準備に励んでいたのである。
赤星道場の関係者たちは、歓声をあげている。これも、事前の通達の通りであるのだろう。六十名からの参加メンバーたちは、大急ぎで着替えを済ませて中庭に再集結することになった。
「慌てないで、ゆっくり食べるんだぞ! どうせ六十人がかりでも食べきれないほどの量を準備してあるからな!」
その人物の言う通り、そこには途方もない量の料理が準備されているようだった。
中庭に存在するすべてのグリルに鉄板や鉄鍋が置かれて、そこから刺激的な香りを放出させている。匂いからして、いかにもエスニックなラインナップであるようだ。エスニック料理にはそれほど関心のない瓜子でも、このスパイシーな芳香には胃袋が騒いでならなかった。
それらの料理を準備してくれた人物は、ビア樽のような巨体に派手なエプロンをつけて、せわしなく動いている。料理はすでに完成しているが、薪や炭を使ったグリルであるため、火加減を見なくてはならないのだろう。熊のようなひげもじゃの顔を汗でぐっしょり濡らしているが、いかにも楽しげな様子であった。
「すごいっすね。あのお人は、この宿のご主人か何かっすか?」
瓜子がこっそりそのように尋ねてみると、立松が呆れた面持ちで振り返ってきた。
「お前さん、本気で言ってる……んだよな。そうか。時の流れってのは無情だなあ」
「え? 自分は何か、おかしなことを言いましたか?」
「いや。知らないなら、しかたねえさ。……あれは、赤星大吾さんだよ」
瓜子は、呆気に取られてしまった。
格闘技ブーム黎明期の立役者にして、すべてのMMAファイターの父――大怪獣の異名を取るカリスマ的なファイター・赤星大吾と、いま目の前で甲斐甲斐しく働く大男の姿が、うまく重ならなかったのである。
「え、いや、だけど、あの……自分だって、赤星大吾さんの写真ぐらい見たことあるっすよ。あれじゃあまるで、別人じゃないっすか」
「ああ。引退してから、三十キロは太っちまったらしいな。大吾さんは膝をぶっ壊してるから、ジョギングのひとつもできないんだとよ」
瓜子が言葉を失っていると、今度は下から鞠山選手が声をあげてきた。
「赤星大吾は引退後に、道場と同じビルでメキシコ料理店をオープンしたんだわよ。当時はグルメ番組なんかでも取り上げられてたのに、あんたは知らないんだわよ?」
「はあ……赤星大吾さんが引退したのって、もう十年以上も前のお話っすよね? そうすると、自分はまだ小学校低学年だったはずですから……」
「だーっ! 若さアピールは余計なんだわよ!」
ともあれ、ランチタイムである。
瓜子は困惑の気持ちを心の片隅に追いやって、赤星大吾の心尽くしをいただくことにした。
おそらくは、昨晩や朝方に厨房で準備したものを温めなおした料理が大半なのだろう。そうでもなければ追いつかないぐらい、その場にはさまざまな料理が並べられていた。
「美味しいですねー。日本でこんな本格的なメキシコ料理を食べられるとは思ってもみませんでしたー」
オリビア選手も、笑顔で舌鼓を打っている。確かにメキシコ料理には何の造詣もない瓜子にも、それらは文句のない味わいであるように思えた。
おおよその料理には、ふんだんにスパイスが使われている。それをトルティーヤと呼ばれる生地でくるんで食するのが、いわゆるタコス料理である。瓜子の中には、そのていどの知識しか存在しなかった。
が、料理を味わうのに知識など不要であろう。とにかくそれらの料理は、素晴らしい出来栄えであった。カレーのように辛い料理や、鶏肉とトマトの煮込み料理や、ほのかにニンニクのきいた牛肉のスープや、魚介をたっぷり使った生野菜サラダや――質も量も、申し分ない。なおかつ、刺激的な味わいでありながら、消化に悪そうなメニューはひとつとして存在しないようだった。
「うーん、日本人は、やっぱりお米だねぇ」
と、ほくほく顔のユーリが食しているのは、トマト風味のピラフであった。そちらの料理が絶品であるのは確かだが、ユーリはその前に莫大な量のトルティーヤも胃袋に収めていた。
「それは、アロス・ア・ラ・メヒカーナという料理だよ。まあ、メキシカン・ピラフのほうが通りがいいけどね」
瓜子とユーリが振り返ると、遥かな高みにひげもじゃの笑顔が浮かんでいた。赤星大吾の身長は、たしか百九十センチジャストなのである。
「君がユーリさんで、君が猪狩さんだね。ユーリさんは、テレビや雑誌で見るより美人さんだなあ」
「お、押忍。このたびは、合宿稽古に参加させていただいて――」
「いやいや、俺はもう道場の関係者じゃないからさ。ただ料理番としてお邪魔してるだけだよ」
そう言って、赤星大吾はにっこりと微笑んだ。
やはり太っただけではなく、人相そのものが変わっている。瓜子が知る赤星大吾というのは、師範代の大江山よりも恐ろしげな風貌で、いつも眉間に深い皺を刻んでいたのだった。
「君たちの評判は、ジョンから聞いてたよ。あいつは今でも月イチぐらいで、俺の店に来てくれるからさ。将来有望な女子選手が三人に増えたって、ずっと前から自慢されてたのさ」
「うわぁ、光栄ですぅ。ユーリは心からジョン先生を尊敬しておりますのでぇ」
もとより赤星大吾の存在を知らなかったユーリは、いつも通りの営業用スマイルを振りまいている。ただ、話題がジョンの存在を含んでいるためか、その瞳には心から嬉しそうな輝きも灯されていた。
「それでもって今回は、弥生子が君たちをお招きしたそうだね。あいつがよその女子選手に興味を持つなんて、珍しい――いや、ほとんど初めてのことなんじゃないのかな。君たちは、よっぽど凄い試合をしたんだろうねぇ」
「い、いえ。でも、そんな風に言っていただけるのは光栄です」
「うんうん。よかったら、あいつと仲良くしてあげておくれよ。とにかくあいつは、偏屈で融通がきかないから――」
「おい」という、硬い声音が横合いから響きわたった。
おそるおそる振り返ると、赤星弥生子が仁王立ちになっている。そのすらりとした身体は、普段以上の勢いでばちばちと帯電しているように感じられた。
「食事の邪魔をするな。プレスマン道場の方々に失礼があったら、それは私の責任になるんだぞ」
「おお、おっかない。そんなんだから、お前は友達のひとりもできないんだぞ。見た目だけは、母さんに似て美人なのになぁ」
赤星弥生子の纏った殺気は、もはや青白い雷光に変じそうなほどであった。
が、その父親はまったく恐れ入った様子もなく、瓜子たちに笑いかけてくる。
「まあ、こんな具合なんだよ。よかったら、さっきの話をよろしくな。こう見えて、根っこは可愛いやつなんだ」
「……どうしても、痛い目を見たいようだな。その膝をニーブレスごとぶっ壊してやろうか?」
「俺が動けなくなったら、食事はどうするんだ? 食事は自前って条件で、宿賃を格安にしてもらってるんだからな」
笑い声を響かせながら、赤星大吾はのしのしと立ち去っていった。
周囲の人々は、気さくにそちらへと呼びかけている。特にキッズコースの子供たちなどは、この大きなおじさんに大層なついている様子であった。
「……失礼した。あいつは無遠慮の塊なので、さぞかし不快な思いをさせてしまったことだろう」
「い、いえいえ。そんなことはありませんでしたよ。ね、ユーリさん?」
「はいはぁい。とっても感じのよさそうなお人でしたぁ。あちらが赤星弥生子さんのお父様なのですねぇ」
「恥ずかしながら、そういうことになる。しかし今は部外者なので、何も遠慮をする必要はない。失礼があった際は、ただちに私まで通告してもらいたい」
「お気遣いありがとうございます。でも本当に、何も失礼なことはありませんでしたよ」
「……そうか。だったら、いいのだが」
と、赤星弥生子は口をへの字にしてしまう。
不機嫌そうな様子に変わりはないが、それは彼女がめったに見せない人間らしい表情であった。
そうして赤星弥生子も立ち去ると、ユーリが瓜子の耳もとに口を寄せてくる。
「これにて赤星ファミリーの三名様にご挨拶させてもらったことになるけれども……お父さまもお兄さまも妹さまも、みんな個性的であられるようだねぇ」
「はい。ついでに言うなら、個性の方向性がてんでバラバラみたいっすね」
赤星大吾に赤星弥生子、そして卯月選手――この三名が、かつてはどのような形でひとつの家庭を築いていたのか。瓜子には、その見当をつけることも難しかった。
◇
そうして間にたっぷりとした食休みをはさみ、午後の一時半となって、ついにトレーニングの開始である。
場所は宿泊施設に併設された、体育館となる。こちらはいちおう公共の施設であるそうだが、今日の午後から明日の夜までは赤星道場の名義でレンタル予約済みであるという話であった。
六十名の人間を収容しても、まだまだゆとりのある立派な体育館である。
七名ばかりの保護者たちが見守る中、トレーニングウェアを着込んだ門下生たちはそれぞれの流儀に従ってウォームアップしたのち、赤星弥生子のもとに集合した。
「これから午後の五時半まで、都合四時間を稽古にあてることにする。間に十分なインターバルをはさむが、体調の悪くなった者はすぐに申し出るように。また、気温が高いために水分補給も怠りなく。各自、安全を一番に心がけて取り組んでもらいたい」
到着時の挨拶でも感じたことだが、赤星弥生子というのは道場主として実に堂々たるたたずまいであった。彼女は多賀崎選手よりひとつ年長の二十七歳であるはずなのだが、そうとは思えないほどの貫禄であったのだ。
「まず最初の二時間は、立ち技の稽古とする。キッズクラスの指南役は、大江山師範代とハルキになるが……そちらの方々もご協力を願えるだろうか?」
「ウン。ボクとサイトー、トキコとオリビアがコウタイでサンカさせてもらうことになったよー」
「了解した。今日は女子選手が多いので、前半は分かれて稽古をするべきかと思うのだが、どうだろう?」
「いいんじゃねえかな」と、立松が快諾した。
「女子連中は、俺が受け持とう。お前らは、青田コーチに稽古をつけてもらえ」
柳原を筆頭とする男子選手らは、「押忍!」と威勢よく応じていた。
女子選手はそちらと距離を取って、再集結する。小笠原選手とオリビア選手はキッズクラスの指導をするために一時離脱してしまったが、それでも錚々たる顔ぶれであった。
赤星弥生子、青田ナナ、大江山すみれ、マリア選手の四名が、ずらりと立ち並ぶ。
それに対するこちらは、サキ、ユーリ、瓜子、愛音、多賀崎選手、灰原選手、鞠山選手、小柴選手、魅々香選手の九名だ。
「まずは、軽くスパーをしてもらおう。全員で……十二名だから、あぶれる人間もいないはずだ」
赤星弥生子がそのように言いたてると、鞠山選手が素早くそちらを振り返った。
「合計は、十三名だわよ。あんたはスパーに加わらないつもりなんだわよ?」
「うん。私は指南役だからな」
「でも、れっきとした現役選手なんだわよ。わたいたちはスパーをするにも値しないと見なしてるんだわよ?」
鞠山選手はめらめらと闘志を燃やしていたが、赤星弥生子は沈着そのものであった。
「この時間は、あくまで指南役に徹したいと考えている。夜間には希望者のみで自由稽古を行う予定なので、私とのスパーを希望するならばそれまで待ってもらいたい」
「ああ、それなら納得なんだわよ」
鞠山選手はけろりとした顔で、闘志を引っ込めた。
ということで、まずはそれぞれ防具を装着する。ヘッドガードとニーパッドとレガースパッドの三点セットで、ボクシンググローブは十六オンスだ。
板張りの床には、それぞれの道場から持参したジョイント式のマットが敷かれている。それを設置してくれたのは――六丸と是々柄の両名であった。
「何かあったら、あたしらが対処するっすよ。心置きなく殴り合ってほしいっす」
そんな風にのたまう是々柄と六丸は、マットの外側にちょこんと座って見物のかまえであった。
それを横目で見やってから、赤星弥生子は瓜子たちの姿を見回してくる。
「それじゃあ、適当に組を作って。各人の技量を見るために、総当たりのサーキットを行ってもらいたい。人数が多いので、一ラウンド二分で十分だろう」
すると、愛音がすかさず大江山すみれの眼前に立ちはだかった。
「大江山さん! お相手をお願いしたいのです!」
「はい。どうせ全員と当たるのですから、どんな順番でもかまわないと思いますよ」
ヘッドガードの隙間からツインテールを覗かせた大江山すみれは、にこにこと愛想よく微笑んでいる。それと相対する愛音は、すでに肉食ウサギの眼光であった。
ユーリはユーリでマリア選手に指名され、そして瓜子は――いきなり青田ナナを迎え撃つことになった。
(このお人は、どういうタイプのファイターなのかな。見るからに、打たれ強そうだけど)
青田ナナは、多賀崎選手をひと回り大きくしたような体格だ。階級は六十一キロ以下級で、この中ではもっとも重い選手となる。平常体重は、六十五キロ以上であるに違いなかった。
かつての《アクセル・ジャパン》ではアメリア選手に秒殺されてしまったが、それでも《フィスト》のバンタム級王者である。それ相応の実力を持っていることだろう。
ただ――青田ナナは、やたらと物騒な目つきで瓜子のことを見据えていた。厳つい容貌と相まって、なかなかの迫力である。
(何だろう? あたしのことが気に食わないのかな)
ともあれ、瓜子としては平常心で臨むばかりであった。
それぞれの対戦相手が決まったと見て、立松がストップウォッチを胸の前にかざす。
「いちおう確認しておくが、肘打ちはなしで首相撲はオッケーな。最初から飛ばしすぎるんじゃないぞ。……それじゃあ、始め!」
立松の掛け声と同時に、青田ナナはおもいきり踏み込んできた。
豪快な右フックが、瓜子の鼻先をかすめていく。とっさにバックステップを踏んでいなければ、開始早々にダウンをくらっていたところであった。
(二階級も下の相手に、いきなり全力か。どういうつもりか知らないけど、それならこっちも本気でやらせてもらうよ)
瓜子はアウトサイドに踏み込んで、全力の右ローを叩き込んでみせた。
寝技なしのスパーであるので、キック仕込みの振り下ろしのローだ。レガースパッドで威力は半減しようとも、痛くないわけがない。青田ナナはいっそう闘志を剥き出しにして、瓜子に殴りかかってきた。
(やっぱり、フックが主体か。いかにもMMAっぽい攻撃だな)
青田ナナの身長は、ちょうどユーリと同程度であろう。
最近は同じぐらいの背丈をした多賀崎選手ともスパーを重ねる機会が多かったので、決してやりにくいことはない。青田ナナの猛打をすかしつつ、瓜子はその鼻先に左ジャブを当ててみせた。
とたんに、青田ナナが「おい!」と怒声をあげる。
「あんた、サポーターをつけてないだろ? スパーだからって、適当なことすんなよ!」
「え? 拳サポのことっすか? それなら、きちんとつけてますよ」
「嘘つけ! だったら、石でも握ってんのか?」
さすがに瓜子もかちんときたので、青田ナナの目の前で左のグローブを外してみせた。バンデージ代わりの拳サポーターを見せつけたのち、何も握っていない手の平をさらしてみせる。
「ご覧の通りですけど。なんならサポーターの内側も確認してみますか?」
青田ナナは、小石でも呑み込んだような顔で黙り込んでしまった。
すると、マットの外から是々柄が声をあげてくる。
「ナナちゃん、そちらの御方はその体格で五十二キロ以下級なんすよ。論理的に考えたら、途方もない骨密度ってことになるっす。そのせいで、普通よりもゲンコツが硬く感じたんじゃないっすか?」
「……よくわからないけど、あたしの勘違いだったみたいだ。悪かったよ」
青田ナナは素直に詫びたが、その目には物騒な光がたたえられたままであった。
そしてそこに、愛音の雄叫びが響きわたる。
「大江山さん! どうして普通のキックスタイルなのですか? 愛音を相手に全力を出すことはできないということなのですか?」
瓜子が振り返ると、愛音の足もとに大江山すみれが尻もちをついていた。どうやら、何らかの攻撃でダウンをくらったものらしい。
「邑崎さんの実力を侮るなんて、そんなわけないじゃないですか。わたしはいつも、スパーではこのスタイルなんです」
大江山すみれがいつもののんびりとした声音で答えると、愛音はいっそういきりたってしまった。
「何故なのですか! ご説明を願いたいのです!」
「そういう約束で、わたしはあのスタイルを学んだんです。試合で使うあのスタイルは、門外不出なんですよ」
愛音は肉食ウサギの眼光で、赤星弥生子を振り返った。
その口が開かれるより早く、赤星弥生子が発言する。
「私も同じ条件で、同じ武術を習得した。この条件を違えることはできないので、どうか了承してもらいたい」
「あれは、あなたの開発したスタイルではなかったのですか? いったい誰がお師匠なのです?」
「悪いが、それも明かさない約束になっている」
そのとき、「ぷぎゃっ!」という悲鳴とともに、ユーリが瓜子のかたわらに倒れ込んできた。
どうやらユーリにダウンをさせたらしいマリア選手が、心配そうに覗き込んでくる。
「大丈夫ですかー、ユーリ選手? どうしてあの無差別爆撃みたいなコンビネーションを使わないんですー?」
「あいちちち……スパーであんな風に暴れてたら何の技術も磨かれないって、コーチの方々にご指摘を受けているのですよぉ。ユーリの目下の課題は、当て勘を磨くことなのですぅ」
「そうなんですかー。ちょっぴり残念ですねー」
すると、立松が苦笑まじりに「おいおい」と声をあげた。
「なんだか、あっちもこっちも大騒ぎだな。口じゃなく手を動かせよ、お前さんたち。うかうかしてると、最初のラウンドが終わっちまうぞ」
「まったくだ。やる気がないなら、海岸でも走ってくるといい」
赤星弥生子も、厳しい眼差しで青田ナナやマリア選手を見やっている。
そうして赤星道場との合同稽古は、いくぶんの波乱を含みつつ進められていったのだった。