「みんなと違うことは勇気がいる。その勇気をお前にもらった」
「何?これから二ヶ月間練習を早退させて欲しい?」
「はい」
ある日の放課後、私立桐国高校の野球部監督である小林は突然のことで少し驚いていた。
「急にどうしたんだ坂本、理由を教えてくれ」
「自分は右肩を故障しています。このままでは何の役にも立てない状態で夏を迎えることになるため、その前に治療とリハビリを行いたいと思っています」
小林はその言葉を聞いて少し間を取り考える。
「わかった。練習も別メニューでこなせ」
「ありがとうございます。失礼します」
坂本はそれだけ言うとグラウンドに戻っていく。
「桜が咲き始めたか」
小林は一塁側のベンチに腰掛けながらグラウンドの外に見える桜をみながら小さく呟く。通りの桜はいままさに花を開く時期を迎え町を彩っていた。
「小林先生、坂本と何の話していたんですか?」
たまたま近くにいた若手のコーチが聞いてくる。
「ああ。右肩の故障でしばらく早退させてくれってさ」
「本当ですか?それはきついっすね」
若手コーチが「あちゃー」といった表情を作ってみせる。
「それで、監督はOK出してんですか?」
「ああ」
「え?そうなんですか?」
コーチは不思議そうに聞いてくる。
「何かおかしいか?」
「いえ、おかしいことはないんですけど……」
コーチはおそるおそる続ける。
「選手のこと考えれば当たり前なんですけどね。チーム編成のことを考えると、夏までもう三ヶ月ちょっとしかないこの時期にキャプテンが休むのは何というか……」
コーチは少しいいにくそうに監督を見る。監督も言わんとしていることはわかっていた。高校野球的感覚で言えば監督としても離れさせようとはしないだろうし、坂本も責任感を感じて言い出さないものだ。
それにレギュラー争いだってある。坂本誠二は確かに実力は一つ抜けてはいるが、桐国は名門であり、選抜された部員が各学年二十人弱いる。キャッチャーの控えだって他のチームじゃスターになれる選手が複数いる。何も彼である必要性はないのだ。
「それに、昨日の坂本のプレーも気になります。なんというか自暴自棄になっているような感じでしたし……。これがまだ時間に余裕があるときならいいですけど……。OB会だって文句言ってきますよ」
コーチが言う。小林は頷きながら答える。
「ああ。お前のいうことは全くその通りだ。俺も最初聞いたときは俺の見える範囲でリハビリさせようと思ったんだがな」
「では、なんで?」
コーチの質問に小林は大きく息を吐き出し、坂本がアップの声出しをしているのを観察する。その様子は、自分の判断が間違っていないと後押ししてくれている気がした。
「なあお前、アイツのことどう思う?」
小林は唐突にコーチに尋ねる。
「え、坂本ですか?ど、どうって言われても、いい選手だと思いますよ。足も速いし、長打力もある。なにより抜群に肩が強い。それにリーダーシップだってあります。桐国のキャプテンにふさわしい選手です。……ただちょっと今スランプ気味ですけど」
コーチはすこし苦笑いしながら答える。小林は「そうじゃねえ」と首を振る。
「プロにいけると思うか?」
「へっ?」
小林の思いがけない質問にコーチは少し固まる。一瞬冗談かとも思ったが監督の目を見てそれが真面目であると分かった。
「正直、きついと思います」
「理由は」
「あいつがすごいというのはあくまで高校生としての話です。あれぐらいの選手だったら、日本にはいくらでもいます」
「ああ、そうだな。俺もそう思う」
コーチは監督の意外な答えに少し拍子抜けしてしまう。
「何だ、てっきり僕は先生は坂本をかっているのかと」
「いや、かってるよ。それどころか期待してる。夢見てるとすら言ってもいい」
小林の答えにコーチはさらに困惑してしまう。
「先生どういうことなんですか?もったいぶらずに教えてくださいよ」
小林はフっと笑って続ける。
「俺はあいつはプロの中でもスターになれる素質を持ってると思ってる」
確信めいた目でそう言いきる小林にコーチはつい言葉を失ってしまう。
「あいつが中三の頃、俺は学校に必死になってスカウトするようにお願いした。だがその頃は俺もこの学校に来たばかりの新参者でな。前の学校での実績はあれど新任監督じゃなかなか学校の連中に意見を聞いてもらいづらい状況ではあった。だからうれしかったよ。二ノ松学院に落ちてウチに来てくれたときは。心の底から二ノ松の連中を見下してやったね。見る目のない連中だと。ただ坂本には一つだけ弱点があった」
小林は「何だと思う?」とコーチを見る。しかしコーチの方はまるで見当もつかなかった。
「真面目さだよ」
小林は続ける。
「あいつはリーダーシップもあれば積極性もある。頭だっていい。ウチのチームはほとんどがスポーツ科だがあいつは数少ない一般受験で入ってきた普通科だ。周りからみればスーパーマンだ」
「では、なんで?」
「だからだよ」
「へ?」
「あいつは周りや世間の考え方を受け入れすぎてる。真面目すぎるんだ。こうあるべきという一般常識に毒されすぎてるといってもいい。根本的に”己”、主体性に欠けている。だがプロってのは普通じゃない突き抜けた人間が行くところだ。坂本みたいに自らを常識の型に入れ込もうとして、世間が望む自分を作ろうとしてるやつが行ける場所じゃねえよ」
コーチは小林監督の意見にただうなることしかできなかった。野球の技術面では自信があったがそれ以外の点でまるでこの人に敵わないと感じさせられた瞬間だった。
「そのことには入部してすぐ気づいた。ただこればっかりは自分で見つけなきゃいけないものだ。人に教わる主体性なんて主体性とは言わんからな。……だが二年経ってもうまくいかず、今では正直諦めてた。こいつはちょっとすぐれた凡人のまま終わってしまうんだってね。だからさっき練習を早引けしたいっていいだしたとき、このまま無理矢理三ヶ月間やらせようかとも思ったさ。チームとして一個でも上を目指すなら精神的支柱である坂本を休ませて変にチームのバランス崩す危険を冒す必要も無いからな。なんとなく野球から離れたいと思ってるような甘ちゃんに鞭をいれて、なんとか夏を迎えれば良いってね」
コーチは黙って聞き続けた。
「だがあいつの目はそんな後ろ向きな理由を感じさせなかった。前しか向いてなかったよ。レギュラーの座とか、周りの目とか、そんなもんすべて承知の上で言ってきたんだろう。あいつにとっちゃ勇気ある判断だ。それだったら言うことは何もない。怪我の対応なんて本人にやらせた方が良いしリハビリも専門の医者に診てもらった方が良い」
するとアップを終えた一年生がノックバットをもってやってくる。
「監督、コーチ。ノックお願いします!」
「おう、わかった」
小林はそれをきいてベンチから立ち上がる。
(もしかしたら今年は行けるかもしれねえな)
小林は立ちこめていく暗雲と同時に一筋の強い光も感じはじめていた。
坂本誠二は練習を早退し早足で校門まで向かっていた。まだ夕日は傾きはじめで、依然として明るさを保っていた。
(こんな時間に校門くぐるのなんて、いつぶりだ?)
基本的に野球部の練習はお盆と正月以外毎日ある。それも決まって日が沈むまでだ。いままでにない校舎や校門の景色に誠二はまるで自分の学校ではないかのような感覚を抱いていた。
「あっ」
不意に後ろから声がして誠二は振り返る。そこには昨日会ったばかりの芽衣と、その友人二人がいた。
芽衣はどこか気恥ずかしそうにしている。おそらく誠二を見つけつい声を上げてしまったがどの距離感で接したものか考えあぐねているのだろう。
「おう」
誠二は目が合った手前無視するのも悪いと思い、かるく挨拶をして先を行こうとする。しかし少しだけ歩くと後ろから小走りで近づく足音がきこえた。
「これ」
振り向くと芽衣が昨日貸した傘を返しに来ていた。
「一応、ありがと。ウチの家最寄りからちょっと歩くから助かった」
「ああ、いいよ。俺の家は最寄りからはすぐだからな。電車に乗っちまえばあとは必要ねえし」
誠二は折りたたみ傘を受け取り鞄にしまう。
「ねえ」
「ん、なんだ?」
「……練習は?」
芽衣はどこか気まずそうに聞いてくる。誠二はその言わんとしていることを比較的早く察した。
「別にサボったわけじゃねえよ。第一うちの野球部でサボりなんかできねえし。今日からリハビリで早引けするんだ。監督にもチームにも言ってある」
いろいろ気が回るがどこか勘の悪い女だな、誠二はそんな風に感じた。だが同時に自分を気にしてくれていることがどこかありがたく思えた。
芽衣の少し後ろでは女子二人がニヤニヤしながら芽衣の方を眺めている。誠二がそれに気づくと芽衣もすぐにそれに気づく。
「じゃ、じゃあね」
芽衣は慌ててその場を離れようとする。
「待てよ」
誠二が呼び止める。
「こっちこそありがとな」
誠二がそう言うと芽衣はぽかんとした顔で誠二を見つめる。
「え?私別にありがたがれるようなことしてなくない?」
「まあ俺が勝手にありがたがっているだけだ」
「どういうこと?」
芽衣の言葉に誠二が一拍おいて言う。
「みんなと違うことは勇気がいる。その勇気をお前にもらった」
「へ?どゆこと?」
「そーゆーこと」
誠二はそれだけ言うとニカッと笑い、また歩き出した。芽衣は訳がわからないまま二人の元へと戻る。
「ちょっとメイ~、ラブセンサー反応ありげなかんじなんだけど」
「これはちょっと詳しく聞かなきゃだね~」
後ろで待っていた二人は楽しいものをみたかのように芽衣をまっている。
「も~トモもユイもやめてよ~。そんなんじゃないってば~」
「てかさっきの笑顔、破壊力やばくなかった」
「メイも振ったの勿体なく感じてきたんじゃない?今から追いかけてくれば」
「も~やめてよ~」
三人は楽しげに駅までの一本道を歩いて行く。通りに咲く満開の桜が三人に花を添えていた。