4.憤怒
迷いの森には恐ろしい魔物が住む。そんな場所に夜更けに侵入する者など皆無であり、誰かに助けられる心配もない。これで心置きなく死ねるというわけだ。
数日前まではまさかこんなことになるとは思わなかった。幼馴染のロクリアに告白し、結婚して幸せに暮らすつもりでいた。人を恨みながら、呪いながら死ぬなど、心の底から軽蔑していた自分が、今はそれを実行しようとしている。一寸先は闇というが、まさに……。
「……」
妙だ。森の中に入って大分経ったと思うが、なんの気配も感じない。魔法は無効化されたが、気配を察知する能力は残っているからよくわかる。それに妙に静まり返っている。まるで森全体が何かに怯えているかのように。最早賢者としての力はない俺に怯むはずもないし、一体どうしたというんだ……。
『――グルルァ……』
そう思った矢先、ついにきた。俺のすぐ背後に凄まじいまでの殺気を放つ魔物がいるのがわかった。これでようやく無残に死ぬという目的を果たせそうだ。しかし噂に聞いてはいたが、まさかこれほどの強力な魔物が迷いの森にいるとは……って、この気配、どこかで……。
「まさか……」
『……おぉ、覚えのある匂いだと思ったら賢者オルドではないか……』
俺の背後にいたのは、銀色の毛をした巨大な狼フェンリルだった。
「フェンリル、何故お前がここに……」
俺はかつてフェンリルと死闘を繰り広げた末、なんとか勝利したわけだが命だけは奪わなかった。瀕死の狼に同情するもりはなかったが、戦っているうちに友情のような不思議な感情が芽生えていたんだ。
『わけあってここにいる。それよりどうしたというのだ、その姿は。あのときとはまるで別人ではないか……』
「……そうだ。今の俺は、そう思われても仕方ない。魔法力を奪われ、体もこの通り醜く老いぼれた姿にされてしまったんだからな……」
『再戦しようと思っていたのに、それは残念だ……』
「それより頼みがある、フェンリル」
『ん? 我になんの用だ?』
「俺を食ってくれ」
『……食べろだと? 体の一部を味見してみろとでもいうのか?』
「違う。全身だ。かつて死闘を繰り広げたお前に食われて死ねるのなら本望だから……」
『ふむう……。残念だがそれはできない』
「何……?」
『お前はあのとき我を助けたのに、我には殺せと? 愚弄するにもほどがあるぞ、人間! グルルルァッ!』
フェンリルは大きな口を開けて吼えた。意識まで飛ばされそうになるほど凄い迫力だ。普通の人間ならここで失神してしまうだろうが、俺は耐えてしまった。
『ここで気を失うようであれば、最早別人とみて望み通り食い殺すつもりであったが……お前は我を倒した賢者オルドで間違いない。だからその望みはかなえられない……』
「……そうか……」
『わけを話すのだ、オルド。我らは友だ』
「……フェンリル、お前……」
『さあ、話せ』
「……」
涙が込み上げてきて、俺は必死に堪えたができなかった。優しくされるということが、こんなにも心に響くとは思わなかったんだ……。
『ハッハッハ。食べろと言ってきたかと思えば、今度は泣き出すとは……人間とは不思議な生き物だ……』
「フェンリル、お前は俺の友達なんだろ。だったら泣いてるのを見て笑うな……」
『ハッハッハ』
「こいつ……ククッ……」
『ハッハッハッ!』
俺たちは何故かしばらく笑い合った。人の心さえ失おうとしていた自分が、まさかかつて戦った怪物から慰められ、救われるとは思いもしなかった……。
「――と、こういうわけなんだ……」
『……グルル……なるほど。やはり、腐りきってしまった人間は我ら魔物より遥かに下ということだな……』
フェンリルが牙を剥き出しにして唸っている。こんなに怒っているところは見たことがない。
『我に無念を晴らす良い考えがある。ついてくるのだ、オルドよ』
「え? どこにいくんだ?」
『来ればわかる』
フェンリルが巨体を翻して森の中を進み始める。その行動には驚いたが、ついてくことに迷いは一切なかった。