1ー1
丸めて筒状にした紙を片手に、少年は走っていた。
途中、敷き詰められている間隔の広い石畳の道になると、そこだけを足場にするように、ピョンピョンと踏んだ。
石踏みをする子供に、近くを通りかかった女性は微笑ましそうに、くすりと笑みを浮かべた。
土の地面に足がつくことなく渡りきると、足を止めて満足そうに後ろを振り返った。
うん、今日も絶好調である。
「おー、レオン! 今から帰るところか?」
名前を呼ばれて振り返ると、酒屋のおじさんが店の前で手を振っていた。
視線が合うと、手招きされたので、そちらへ歩を進めた。
「そうだよ。何かあった?」
「珍しい酒が手に入ったんだよ。カイルが呑むんじゃないかと思ってなぁ」
「珍しい酒? それ美味しいの?」
「もちろんよ! ちゃんと仕入れる時に、確認してるからな。悪いんだが、帰ったら伝えといてくれないか?」
「良いよ。 何て名前のお酒で、いくら?」
「ポタンスの酒で、50ブロだ」
その値段に、レオンは目を丸くした。
ビールのジョッキ一杯が大体5ブロくらいなので、その10倍もの値段になる。
「50!? 高くない!?」
「いやいや、相場はこんなもんよ。何て言っても、人間界から仕入れてるからなー」
「そうなんだ……うわー、勿体無いから父さんに黙ってようかなー……」
「おいおい!」
「ははっ! 冗談だよ。伝えとくけど……買う時まけて?」
「お? レオンもしっかりしてきやがったなぁ……よし! じゃあ45ブロでどうだ!」
「よっしゃ! おじさん、ありがと!」
ブンブンと手を振って、レオンは再び走り始めた。
『ニュートリアム支部 ステュクス領 ギルド』
そう看板に大きく書かれている、ここがレオンの家でもある。
扉を開ければ、何人か顔見知りのバランサーがいた。軽く挨拶をかわしながら、中を進んでいく。受付の方へ向かうと、ちょうど手が空いているようで、ヒラヒラと手を振られた。
「レオンくん、おかえり」
「ただいまー……今、父さん暇かな?」
「暇かは分からないけど……来客はいないわね」
「あ、なら行ってみる」
その言葉に、受付嬢のカミラは首を傾げた。
レオンは、普段は休憩時間以外に執務室へ行こうとしない。ギルマスの父親からしっかりと言い付けられているからだ。
「何かあったの?」
「父さんに伝言頼まれたんだ」
「あら、そうなの。じゃあ、悪いんだけど、ついでにそこの書類も持っていってくれない?」
にっこりと微笑まれて、指し示された先には30センチくらいの高さまで積み上げられた書類の束があった。
ぱちぱちと瞬き、ゆっくりとカミラに視線を戻した。
「え、これ全部?」
「そうよ?」
再びにっこりと微笑まれたので、これ以上何かを言うのは止めて、大人しく運ぶことにした。
紙とは言え、それが束になっていれば、それなりに重たい。既に持っていた紙と見比べてから、これは顎で挟んで持つことにした。そして、目の前に積まれている書類を両腕で抱えた。
落とさないように慎重に階段を上り、廊下を歩いて、奥の部屋へと向かった。
扉の前まで来て、両手が塞がっていることにどうしようかと考えたのは、ほんの一瞬だった。書類を下ろすことはせずに、足でゴンゴンとノックをした。
少しして、目の前の扉が開いた。
「……やっぱりお前か。乱暴に叩くな……つーか、何だその書類?」
「カミラさんから。父さんに持っててくれ、ってさ」
「げっ……やっと終わったと思ったのに」
カイルは、はぁ、と溜め息を吐いた。
そのまま踵を返したので、一緒に部屋へと入った。カイルは左足を引き摺るように歩きながら、サイドテーブルを指差した。
無言の動作に、レオンは聞き返すことなく、そこに書類をドサドサと置いた。
そして、顎に挟んでいた紙を手にした。
丸めていた紙を伸ばして、中身をひけらかすようにカイルへ向けた。
「ほら! これ今日書いたやつ!」
「お? おー、なかなかうまく書けたじゃねーか」
グリグリと頭を撫でられ、レオンは嬉しそうに見上げた。
紙には『レオン・ガードナー』と名前が書かれていた。
最近午前中ずっと学堂に行き、文字の練習をしていた。その成果として書いたものを持ってきたのだ。
学堂は誰でも通えるところで、本も沢山置いてある。
国から派遣されている先生が常駐しており、文字の読み書きを教えてくれ、その他、分からないことも質問することができる。
その場で本を読んだり、借りることもできるので、様々な人が訪れる。
開いている時間の内、いつ行っても構わないのだが、レオンは決まって午前中に行っていた。
「もう父さんの名前も書けるし、本も読めるようになったんだよ」
「そりゃすげーな。そしたら、俺が本読んでやることもなくなっちまいそうだな」
「え、それは駄目!」
ブンブンと首を横に振るレオンに、カイルは笑って、頭を撫でた。
寝る前に本を読んで貰うのは、レオンの楽しみの一つである。まだまだ学堂から借りた本も残っているので、勝手に習慣を無くされては溜まったものではない。
一方、カイルも息子との大事な一時なので、せがまれる間は続けたいと思っている。
双方の意見が一致しているため、暫くは続けられることだろう。
まだ仕事があるため、続きは後で……そう言おうとした丁度その時、それを察したかのようにレオンが先に口を開いた。
「そうだ、父さん。酒屋のおじさんが珍しい酒が入ったって言ってたよ」
「なに!? 何てやつだ!?」
カイルは、言おうとした内容は忘れ、その話題に勢い良く食いついた。
自他共に認める無類の酒好きであり、レオンが酒屋のおじさんと親しくなるくらい、よく買い物に行っている。だからこそ、その反応は予測できた。
伝言を伝えようと口を開いたが、するっと単語が頭から抜け落ちてしまった。首を傾げ、記憶の片隅に残っている単語を口にした。
「えっとね、ポリ、ポタ? ……ボタン? 何か違うな……タンス?」
「ボタンに、タンス? ……は! まさかポタンスか!?」
「それだ! 父さん、知ってるやつなの?」
記憶と合致する単語に、人差し指をピンと立てた。
「知ってる知ってる! ありゃ、人間界の酒だが、風味が豊かでコクもあってなぁ……」
目を細めて何かに浸るようにしており、ほぅと息を吐いた。
すっかり買う気になっている、そんな父親に、値段を伝えることにする。
「それ一瓶50ブロだってさ」
「よし、2つ……いや、3つ買ってきてくれ」
「3つ!? 多くない!?」
「馬鹿、お前! この酒はなぁ……人間界に行っても早々手に入らない逸品なんだぞ? これを逃す手はない!」
ごそごそと巾着袋を取り出し、レオンに向かって放った。
ズシリと重みがあり、チラッと中を見ると銅貨が入っていた。
紐で括られているものと、バラバラになっているものとが混在している。赤い紐で括られているものが100枚で、青い紐が50枚、黄色い紐が10枚だ。買い物がしやすいように、皆色は異なるものの、このようにまとめていることが多い。
値段を聞いても全く悩む素振りを見せないカイルに、唇を尖らした。
「3つも買ったら150ブロだよ? 高くない?」
「お、レオンもちゃんと計算出来るようになったなー」
「まぁね! ちゃんと勉強したん……って、今それ関係ないから」
「まぁ、そう言うなって! 酒の味が分かるようになれば、俺の気持ちが分かるからよ!」
「もー……せっかく、5ブロまけて貰ったのに、ひょいひょい買っちゃうんだもんなぁ」
「おぉ! 交渉してくれてたのか! 流石は俺の子だな!」
偉い偉いと言いながら、わしゃわしゃと頭を撫でられ、レオンは首をすくめた。
本当は値段に悩んだ父親に、実は……と切り出す心づもりだったのだが、あっさりと買うことを決められ、拍子抜けした。
驚かせる計画が不発に終わり、不満に思ったが、結果的に喜んでいるようなので、良しとした。
巾着袋を落とさないように、ベルトに括りつけて、シャツで覆う。そして、また酒屋へと向かった。
毎日がこんな風に過ぎ去っていくが、レオンには特段の不満はない。
むしろ、バランサーの人たちから色々話が聞けて、刺激的ですらある。
将来はギルドの職員になって父親を手伝うか、バランサーになるか……それだけが悩ましいところだ。
学堂に毎日通っているのも、どちらになるにしろ、知識は必要だと思っているからだ。簡単な計算も、文字の読み書きも、本を読むのも……全てはそのために必要なものだ。
そう思っているからこそ、毎日きちんと学んでいるのだ。
将来はキラキラと輝いていて、希望に満ち溢れている……誰もが、そのことを疑うなどするはずもない。
……だから、それが打ち砕かれることになるなど、考えもしないことであったーー。




