9話 果て無き青空
あれから一言も口を利いていない。緋真は穏やかな顔でハンドルを握っている。俺の訃報を見た時は大泣きしていたのに、何で平気な顔をしているんだろう?
『最後くらい、素直になっても良いんじゃない?』
分からない。緋真の事は好きだ。だけど、きっと好きだけじゃ伝わらない。言葉にすれば陳腐になってしまいそうで、俺は何も言えないまま優しい運転に揺られている。
もう長くない事は分かっている。しかし俺は面と向かって彼女に礼を言った事が無い。礼だけじゃない、他にも沢山伝えたい事が有る。
有るのに、有る筈なのに、言葉にならない。こんな経験初めてだ。
――畜生、心残りが増えたじゃないか。
苛立ち交じりに緋真を見ると、綺麗な灰色の髪と、何かを憂いているような横顔が目に入る。
その横顔に吸い込まれて何も考えられない内に、気付けば家に帰っていた。
――バシャン。
水温の保たれた水に浸かり、眠い目を幾度か瞬かせると、緋真が優しく問い掛けてくる。
「何か食べたい?」
腹は減ったが、今はとにかく眠かった。
「いや、大丈夫だ」
「そう、何かして欲しい事は有るかしら?」
特に無いな、と言おうとした時だった。
ふと、見たいものが思い浮かぶ。
水槽の隣に在るデスクトップPCは、俺が居た頃から一切触れられていない。緋真はノートパソコンを利用しているので、俺のパソコンは手付かずだ。
「緋真、俺のパソコン開けるか?」
「馬鹿にしてるの?」
緋真がそう言って素早くパソコンを起動する。
「茶室のログを、俺のパソコンで見たくなった」
馬鹿らしい事を言っているのは分かっているが、どうしてもやりたい事が有るのだ。
レスに全て目を通し、キーボードの上にビニールを敷いてもらう。そして自分の足で打ち込んだ。
『お久しぶりです。論文の執筆は終わりました。今まで本当にありがとうございました』
送信して暫くすると、部屋の真ん中からすすり泣く声が聞こえてくる。九条緋真が自分のPCの前で唇を噛んでいる。
「緋真」
「何?」
「明日、日が昇ったら俺を起こしてくれ」
言った瞬間、緋真が心配そうな顔をする。無理もない、いつ死んでもおかしくない程に、俺の身体は衰弱している。
「大丈夫だよ。その程度の奇跡、何てことないさ」
きっと明日は起きられる。だって明日は10月13日で、全てが始まった日なんだから……。
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水槽が振動し目が覚める。中指で水槽を叩く緋真と目が合った。
「陽が顔を出したよ」
「分かった。俺を小さい方の水槽に入れて、外に出してくれないか?」
「うん」
余所行き用の水槽に入り、緋真に抱えられ連れ出される。そして俺が轢かれた場所に辿り着く。
「此処で下ろしてくれ」
しかし緋真は俺の頼みを拒む。
「やだ」
「下ろしてくれ」
「やだよ。だって下ろしたら、居なくなっちゃうじゃない」
「居なくならないよ」
「…………」
緋真が項垂れて水槽を下ろす。
「ありがとう」
そう、居なくなることは無い。彼女が研究を続ける限り、続けていく限り、当面の間は俺が関わった資料なり論文を引用する。
身体は無くなるが、存在が消える訳ではない。それが分かっているから、彼女も平気な顔をしている筈だった。
そして彼女は予想通りの言葉を紡ぐ。
「私は貴方と歩いていく。いつまでもずっと歩いていく。ずっと一緒に居る。ずっとそうだったように、これからもずっと一緒に居る」
「じゃあ、泣く事は――――」
瞬間、緋真の顔がくしゃりと歪んだ。
「だけどっ、私は貴方と同じ方を向いて歩いていくけど、いつまでもずっと一緒に居るけど……もう会えないから、話せないから、同じ景色を見るのはこれで最後だからっ」
「……緋真」
「だから、さようなら。私、貴方の事が好きよ」
緋真は泣き笑いを浮かべて首を傾げる。言わない訳にいかなくなった。
「俺も好きだよ。緋真と居れて本当に幸せだった。きっと俺は、緋真に会う為に…………また生まれてきたんだ。……本当にありがとう」
意識が遠のき、身体が言う事を聞かなくなる。緋真が俺を呼んでいるが、その声は遠ざかっていく。
――あぁ、終わりみたいだ。
あの日と同じ交差点、一度終わった場所、俺と彼女の運命が絡み始めた場所、始まった場所で再び終わりを迎える。
あの日と同じ青空は、気持ちいい位に青かった。
「なぁ、神様。素敵な人生をありがとな」
誰に向けた言葉でもない。しかし、誰かの耳に届いた気がする。
「あぁ、本当に綺麗な青空だ」
俺は確かに足跡を残した。凄く小さな跡かもしれない。だけど……。
俺の、俺達の足跡だ。
そして道は続いていく。俺が命を燃やしたこの研究は終わらない。誰かが俺の足跡を踏みしめ、そして超えていく。
アクアリウムは終わらない。
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10月12日
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『たっくん』さんが入室しました。
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★お久しぶりです。論文の執筆は終わりました。今まで本当にありがとうございました。
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『たっくん』さんが退出しました。
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10月13日
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『くっしー』さんが入室しました。
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♢私、たっくんさんの分まで頑張るよ。頑張るから見ててね。
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『くっしー』さんが退出しました。
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――私は一人、でも一人ぼっちじゃない。私の足跡は彼の足跡に、皆の足跡に繋がっていて……。
だから進んでいける。歩いていけるんだ。