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7話 超大学院級のフィールドワーカー

「行ってらっしゃい」


「あぁ、行ってくるよ」


「日没までに戻るのよ」


「分かってるよ。緋真は心配し過ぎなんだ」


 水槽が傾き、俺の身体が海に放り出される。手を振っている緋真の姿が見えたので、こちらも足を振って別れを告げる。単独調査の開幕だ。


 北海道の下宿先に戻り、一通り掃除が終わった後、俺達はproject『アクアリウム』を開始した。名付けに意味は無い。最初に思い付いたのが『アクアリウム』だっただけだ。


 この研究は単なる研究ではない。一般的な研究は『研究する事柄』を定めてから行動を開始するが、俺達の研究は、研究事項を探す所から始まる。


1.タコである俺が海に潜り『不思議に思った事』、『考えた事』をカメラに焼き付け、脳に刻み込む。

2.持ち帰った疑問事項についての議論を二人で重ね、それに基づいた仮説を立てる。

3.先人の研究をさかのぼったり、実験を行ったりして仮説を検証していく。


 その過程は全て記録され、九条緋真と俺の対話形式で論が進んでいく。


 先行研究が存在した事柄については『ストーリー』という項目に纏め、新たな発見(・・・・・)であった事柄については『発見事項』という項目に纏めた後、別途論文を作成する。



 分かり易く言うならば、一冊の本と無数の論文を製作するのだ。


 タコの目から見ると、海の中には解明されていない謎が沢山有った。それどころか、先行研究の誤りも多く見付かった。


 緋真は早朝に俺を海まで運び、俺を迎えに来る日没まで執筆に励む。俺は海で不思議を発見するという寸法だ。


 初めて1ヵ月しか経っていないのだが、既に多大な成果を挙げており、緋真はちょっとした有名人になりつつある。学会から引っ張りだこらしいのだが、本人は出席を拒み取材にも応じない。少々心配だったが、時間が無いというのはよく分かる事なので、俺も口を出すつもりは無い。


 そうこうしている内に今日の不思議を発見した。


「……何だあれ、聞いた事無いぞ」


 今日の議題は決まった様だ。考えながら泳ぎ、論点を絞って持論を形成する。


 『緋真ちゃん、今日はこれが不思議だったよ』なんて事を言った暁には、足に爪楊枝つまようじを刺されること間違い無しだ。年上らしくスマートな話題提供をしなければいけない。


 

 ……考え込んでいると、いつの間にか日が暮れていた。


「やばい、やばい、不味いぞ」


 日没前には放流された岩場に戻るのが約束である。時間を守らなかったら、彼女の機嫌は凄まじく悪化するのだ。慌てて磯に戻ろうとするが、あることに気付く。


「……定点カメラ」


 先程不思議を発見した場所に、定点カメラを設置していた。このまま戻ってしまうと、何処に置いたか分からなくなってしまう。カメラは緋真が少ない仕送りで買っている大事な研究道具なのだ。粗末に扱えば何を言われるか分からない。


「……取りに行くか」


 日没を境に、海中は明度の階段を転げ落ちる。カメラも見つかりにくくなるし、帰りずらくなってくるのだ。早目に勝負を決めなければいけないが、カメラはなかなか見つからなかった。


「あぁ、緋真に怒られる……」


 カメラが見つけた頃には、日没から2時間ほど経っていた。


 元の岩場に戻ると、岩場の先端に座り込み、力なく懐中電灯を海に向ける緋真の姿を捉える。


「緋……えっ」


 冬の北海道で待ち続けていたであろう彼女は、驚くべき事に泣いていた。


 彼女は何度も何度も目を擦り、頻りに時間を確認する。そして確認する度に溜息を吐き、目線を沈める。


「緋真、待たせてごめんな。今帰ったよ」


「――――ッ」


 反応は劇的だった。彼女はくしゃりと顔を歪め、懐中電灯を握り直す。照らした先に体を躍らせると、目にも留まらぬ速さで身体が掬い上げられた。


「遅い。どうしてこんなに遅かったの?」


「定点カメラの回収を忘れたんだよ」


 言った瞬間、水槽に放り込まれ、ゴム手袋に包まれた手で頭をぐりぐり押される。


「本当はメスダコと交接してたんでしょ」


「なっ、お前俺の事を何だと思ってんだよ」

 

 緋真が小さく笑い、白い吐息と共に俺の頭を離す。


「冗談よ。アンタなんか、タコにも好かれないわ。湯加減はどうかしら?」


「ちょっと冷たいけど、大丈夫だと思う」


 すると緋真は手袋を外し、水槽の中に手を入れた。


「車に戻るまで温めてあげる」


「おう」


 俺が言うと、緋真は素手で俺の足に触れてきた。


「貴方は夜行性なのかもしれないけど、私は昼行なんだからね」


「分かってるよ」


 軽自動車のバックドアが開き、水槽が載せられる。シートベルトを締める音とエンジン音が響き、緋真が首を巡らせる。


「出すわよ」


「任せた」


 心地良い振動が体に響き、車内に流れる音楽が水面を僅かに揺らす。緋真はテクノ系のインスト曲が好きなのだ。


 車は国道をゆっくり走っていく。彼女は水槽の水を零さずに運転しているので、某豆腐店並みに繊細な運転なのかもしれない。


 車内で組み終わった論をもう一度構成し直す。今夜も楽しい議論になりそうだ。


―――――――――――――――――――――――――――――――――――


 家に帰ってまずする事は、水の調整だ。緋真は水のPh値と塩分濃度と水温をこまめに調整してくれる。そして水槽に入った後、今日の献立が発表されるのだ。


 小魚や貝など、頼めばある程度何でも買ってくれる。しかし我儘を言ったら経済的負担をかけてしまう。タコはグルメなのだ。伊勢海老の天敵がタコである事からも分かるだろう。


 大概は味噌汁用の小さなカニを買ってもらっているのだが、ひょんな事から緋真はひと手間加えてくれるようになった。


 緋真は自分用の食事を作って食べている。それを見て俺が『料理されたものも食べたいな』と言ったのが切っ掛けだ。


 それ以来、緋真は俺の餌を一旦皿に乗せるようになった。


 カタンという音が響き、目の前に皿が置かれる。皿の中にはサケの切り身と|ブラックタ(エビ)イガーが乗せてあった。


「ご飯よ」


「今日は豪華だな」


 緋真が箸でエビを挟み、水槽の上へ持ってくる。それを足で受け取り、感謝を込めて言葉を紡ぐ。


「いつもありがとう。頂きます」




 食事を終えて議論に移ろうとしたとき、珍しく緋真が中座する。俺を待っている間に体が冷えたので、風呂に入るらしい。こちとら早く話したいし、そもそも……。


 ――風呂に入るという感覚が分からない。


 こういった小さい事でも、俺と彼女の違いを意識させられて少し寂しくなる。俺は緋真と研究をしているが、人間として連れ添うことは出来ない。


 ……そして自分の寿命についても何となく分かっている。


 持って後2年、彼女が大学院修士課程を修了する頃にはもう……。或いは、それは丁度いいのかもしれない。正体不明のタコ人間がずっと傍に居ては、彼女の人生に差し支えが有るだろうから……。


 彼女も就職し、そしていつか結婚する。少し悔しいが仕様がない。俺はとっくに人生から退場しているのだから……。


 彼女くらい容姿が端麗であれば、並大抵の男はすぐに引っ掛かるだろう。無難な奴を捕まえて欲しいと心から思う。

 まだ続きます。宜しければブクマ登録お願いします。

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