6話 貴方鈍感すぎるのよ
「何で私がこんな事……」
目の前のインターホンは押し易いが押し難い。私は白浜拓哉の実家の前に立っている。用件が有って来たのだが、家を前に竦んでしまった。
当然だろう。いくら用件が有るからといって、死んだ息子の為に女性が実家を訪れたら変な勘繰りをされかねない。
――私の事なのだが。
「……学会の無能」
本来ならば、彼の葬儀に学友として参加するつもりだったのだが、学会の通知が遅かった為に私の知らぬ間に葬儀が終わっていたのだ。
態々行くまでも無いと言われそうだが、そうは言っていられない。私は白浜家にお願いがあり、彼からの手紙も預かっているのだ。
「べ、別に緊張することも無いわよね」
インターホンに指を当て、大きく深呼吸する。
今のは浅かった、もう一回だ。
再び大きく深呼吸する。しかし深呼吸すればする程、身体は強張り指が言う事を聞かなくなる。
「しっかりしろ私、インターホンを押すだけじゃないか」
「そうよ。勇気を出して押してみましょう」
背中から掛けられた優しい声に後押しされ、私の指が難所を越える。
『ピン、ポーン』
「よしっ」
思わず小さなガッツポーズが出る。瞬間、何者かの手が私の肩に触れた――。
「ひゃっ」
――不味い、変な声でた。
口を押えて振り返る。軽々しく触れてきた不心得者を見咎めてやろうと思ったのだが……。
「…………」
私の背後に立っているのは、気の良さそうなおばさんだった。
「あなたが九条さん?」
「そうですけど」
質問に答えると、彼女は姿勢を正して礼をする。
「初めまして、私は白浜香奈枝。拓哉の母です」
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「では九条さん、こちらに座ってくれる?」
「ありがとうございます」
リビングに通され席を勧められる。香奈枝さんは茶を立てるといって台所に引っ込んだ。
部屋を見回すと、小さな置物や手作りの品が目立つ。汚くはないがさっぱりはしていない。
テーブルに敷かれたテーブルクロスが印象的だ。
お節介に見えるが、家庭的な温かみに溢れているのだろう。しかし私はそういうゴチャゴチャしたものが好きでない。
益体も無い事を考えていると、カップの置かれる音と共に紅茶の香りが鼻を突く。
香奈枝さんは私の向かいに座り、徐に口を開く。
「今日は来てくれてありがとうね」
「いえ、こちらこそ有難うございます。つまらないものですが、お納めください」
今朝市場で買った手土産を渡すと、香奈枝さんは笑顔で受け取り問い掛けてくる。
「彼女さん?」
「はぁ……と言いますと?」
一瞬、何を言われたか分からなかった。失礼を承知で訊き返すと、香奈枝さんはニコニコ笑いながら口に手を当てる。
「拓哉と付き合ってたの?」
「つ、付き合ってないですよ。バカな事言わないでくださいます? 私がたっく、拓哉さんと付き合うなんて有り得ないですから。大体、二言目で言う台詞じゃないですから、セクハラで訴え――」
気付けば私は身を乗り出し、テーブルをガンガン叩いていた。
「すみません」
耳まで赤くなっていくのが分かる。
それを見た香奈枝さんは、優しく微笑み何度か頷く。
「でも良かった。拓哉にもこんなに可愛いお友達が居たみたいで、拓哉も勉強ばっかりじゃなかったんだって……」
「…………」
「拓哉は魚の事ばっかりだったのよ。小さい頃からずっと魚が好きで、私達が家の病院を継げっていうのに聞かなかったんです。海洋生物だなんて、よく分からない実用性の低い学問に没頭するなんて、あの子も何を考えていたんだが……」
これは私達に対する冒涜だった。思わず声が荒ぐ。
「お言葉ですがお母さん、拓哉さんは一生懸命研究して、学んでいたんです。子どもの遊びと同列に扱わないでいただきたい」
立ち上がった私は、しかし何も言うことが出来なかった。香奈枝さんの目頭に浮かぶ雫が見えてしまったのだ。
香奈枝さんは訥々と言葉を紡ぐ。
「あの子は本当に頭が良かったんです。小さい頃から魚が好きで、頑張って頑張って『魚さんのお医者さん』になりたいって言って、一生懸命頑張っていたんです」
「そうみたいですね」
知っているとも、私が一番よく知っている。彼が具体的にどんな研究をしていたのかも、何の為に研究していたのかも、全部全部知っている。
そんな私の顔を見て、香奈枝さんは席を立った。
「拓哉のアルバムが有ります。ご覧になりますか?」
私が頷くと、香奈枝さんは席を外し、暫くして大きなアルバムを三冊持ってくる。1ページ目をめくった瞬間、溢れ出る温もりに圧倒された。
――何だこれ、全然放任主義じゃないじゃないか。
『たっくん』さんは、放任主義だと両親を評価していた。しかし眼前の写真達はそれを全力で否定している。
ページをめくるたびに、白浜拓哉は成長していく。ごくごく普通の赤子として生を受け、そして順調に成長していく彼の姿が刻まれている。
魚のぬいぐるみを貰って喜んでいる姿、水族館で驚いている姿、釣りをしている姿……。幼き日の彼は、いつも家族と一緒だった。
その写真の中で、香奈枝さんの姿はあまり見受けられなかった。その場に居なかった訳ではない。
写真の撮り方は変わらなかった。誰が撮ったのかは明らかだった。
写真としての完成度は軒並み低く、彼は常に真ん中に居る……下手な写真だ。
「自慢の息子でした。主人も最初は反対だったのですが、拓哉が実績を出していくに連れて拓哉の夢を認めるようになりました」
暫くすると、拓哉の写真は少なくなり、飼っていた魚の写真や絵の写真が増えていく。恐らく彼自身がシャッターを切っていたのだろう。
年を経る毎に写真は少なくなっていくが、それでも彼の節目は全て祝福されていた。
難関中学に合格し高校に進学、生物分野での活動が認められ推薦で大学合格、そして院進。
……大学院入学式の写真が最後だった。
しかしアルバムは終わらない。次のページからは、彼が今まで受けた賞の記録がされていた。ページをめくる度に、内容が進歩して最新の研究に近付いていく。
最後のページをめくると、其処には彼が最後に受け取った賞状が入っていた。しかしアルバムにはまだ余白が有り、私はそれを見て決心する。
「お母さん、私はこのアルバムの空白を埋めようと思います。協力していただけないでしょうか?」
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それから一週間後、私は白浜拓哉と東京を発った。
現在私はハンドルを握っており、バカタコは水槽に入った状態で後部座席に積まれている。
「あぁ、疲れた」
かれこれハンドルを四時間握っている。高速運転とはいえ、ここまで長くなると体に響いてくる。
「疲れたなら、サービスエリアに寄ればいいじゃん」
「サービスエリアに寄れるなら寄ってるわよ。誰の所為だと思ってるの?」
タコを水槽に入れて飛行機や新幹線に乗る訳にもいかない為、自家用車ごと船で北海道まで行くプランを立てた。
その際、移動時間は極力短い方がいいので、青森県の八戸まで車で移動する事にしたのだ。ここまではいい、私が決めた事だ。
いざ出発するぞ、というとき、彼が二つの文句を言ったのだ。
『お弁当が食べたい』
『水が冷たすぎる』
水温の調整に30分、餌の用意に30分掛かり、途中事故渋滞に見舞われたのだ。結果として船の時間ぎりぎりの状態で移動している。
「疲れたなら俺が運転代わってやろうか? 免許は持ってたぞ」
「アンタの免許には、穴開けパンチで穴開いてるわよ。巫山戯た事言ってると、八戸市場で叩き売りするからね」
暫く経って、拓哉は思い付いたように訊いてくる。
「そう言えば、手紙読んで母さん泣いてたか?」
「全然泣いてなかったわよ」
「そっか、そうだよなぁ」
納得する彼に腹が立ち、つい言葉が荒くなる。
「そっかじゃないわよ。このバカタコ」
彼が認めた(私が書いた)手紙を読み上げると、香奈枝さんは涙を零した。
悲しいけど暖かい、そんな涙だった。
その記憶に思いを馳せていると、バカタコは再び無神経な事を訊いてきた。
「緋真はなんで北海道に来ようと思ったんだ? 東京の方が色々便利だぞ」
「貴方には一生分からないわよ」
理由なんて決まっているじゃないか。
今日はこっちを3話、メインを1話投稿する予定です。