5話 2人でアクアリウムを始めよう
部屋奥のデスクトップで開かれている画面は、間違いなく『俺』と『くっしー』さんのチャットルームだった。
余りの驚きに頭が混乱する。
目の前でうずくまって唇を噛み、そして涙を流している女が、九条緋真で『くっしー』さんなのか?
俺の研究を手伝ってくれたのは、九条緋真だったのか?
なんで? どうして?
アクアリウムは蒼く煌めく照明に照らされ、それがチャットウィンドウの青緑色と混ざり合う。
一度気付いてしまえば、彼女がくっしーさんであるという確信が深まっていく。
立て掛けてある釣り竿は、くっしーさんがこの間自慢してきた竿だ。
玄関先に置いてある長靴は、釣り用としてお揃いで買ったやつで、見覚えの有る写真がフレームに収まっている。
本棚のラインアップは俺の下宿先と殆ど変わらない。
そして、俺の為に用意してくれた文献が机に積んである。
タコだから泣けない筈なのに、それらを見て熱いものが込み上げてくる。
――やっと会えた。
感情が爆発して、心が決壊する。俺はやっと会えたのだ。初めて出来た仲間に……恩人に、そしてライバルに。
「くっしーさん、俺はここにいるよ」
彼女は肩を震わせ、恐る恐ると言った体で顔を上げる。表情が一瞬の内に幾度も変化する。
彼女は俺に縋り、落胆し、そして憤怒を滾らせた。
「お前に何が分かる。何が分かる何が分かる……知ったような口を利くなっ」
それは声帯の最も浅い所から出でた、心の底からの叫びだった。
「くっしーさ――」
「やめてっ。お前は何なんだよ」
九条緋真は近くの椅子を持ち上げ、華奢な腕で以て水槽に叩きつける。瞬間、鈍い音が部屋に響く。
水槽にヒビが入り、割れ目から水がジワリと染み出す。そしてガラスを伝って床に落ちる。
水滴と時計の秒針がシンクロし、室内は冷たい涙が刻むリズムに支配される。
それは俺達に現実と云う名の悪魔を突き付け、おびやかされた彼女は力なく崩れ落ちる。
「冷やかさないで、冷やかさないで、冷やかさないでっ。貴方には何も分からない。だって二人だけの、二人だけの……」
「二人だけのアクアリウムだからな」
彼女の口から言葉にならない声が漏れる。
「やっと会えた。俺が……白浜――」
「――――ッ」
返事は無かった。九条緋真は踵を返してドアを乱暴に開け、廊下に身を躍らせる。足音が何度も何度も木霊する。
彼女の横顔には涙が伝っていて、それはアクアリウムの光を反射して光っていて……。
それを見た俺は……気付けば水槽から身を踊らせていた。
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降り注ぐ幻想的な青色、透き通った水飴色の水に照らされ、抱かれて目を開く。
「ここは?」
降り注ぐ青色LEDの光、水槽の水は最新鋭のろ過装置によって清潔を保たれている。
「助かったのか?」
水槽の傷にはアクリルパネルによる応急処置が施されている。
不思議なことに、先程まで水槽内に無かったものが幾つか存在していた。
温度計、ph測定器、塩分濃度計などの計器が水槽の底に散在している。乱暴に投げ込んだのが丸分かりだ。
そして目の前には、一心不乱にpcを弄る女学生の姿がある。
――助けようと、してくれたみたいだな。
水槽内は驚く程に心地よく、彼女が全力を尽くしてくれた事が推し量れる。
「ありがとな」
意図せず礼を言った刹那、九条緋真が不意を突かれた様に固まり、そして恐る恐る顔を上げる。
「たっくんさん?」
彼女が不安げな顔を晒しているので、健在をアピールする為に、8本の足を放射状に広げて揺らす。
その時だった。九条緋真が水槽に走りよってきて、幅一メートルもある水槽を抱き締める。
「良かった。良かったぁ……」
頬がガラスに張り付いていて面白い。俺は水槽の中から彼女の手に足をくっ付ける。
「泣くなよ。水槽が汚れるだろ」
「貴方が生きてる方が汚れるわよ」
「じゃあ死ぬか?」
「それはダメ」
即答である。嬉しいのだが、もう少し可愛い反応を見せて貰えないのだろうか?
――まぁ理系女子に反応を期待するだけ無駄か……。
照明を見ながら考えていると、彼女が睨み付けてくる。
「な、何だよ?」
「今失礼なこと考えたでしょ?」
「考えてないよ」
その後、暫く軽口を叩き合う。
「それで、お前の事はどう呼べばいいんだ?」
問うと、緋真は素っ気なく口を開く
「緋真でいいわよ」
「なぁ、緋真」
瞬間、彼女の肩が僅かに震える。自分で呼べと言っておいて面白い奴だ。
「何よ?」
「二人でアクアリウムを作らないか?」
言った瞬間、緋真が何言ってんだコイツ、という顔をする。
「だからさ、俺と共同で研究しないか? って言ってるんだよ」
緋真は虚を突かれたらしく、いきなり慌て始める。
「そんなに意外か? 俺は足引っ張らないと思うぞ。足は伸びるがな」
足をビロンと伸ばすと、緋真は小さく笑い、しかし目線を伏せる。
「嫌じゃないの?」
「何が?」
「だって貴方が、私の事ムカつくって、腹立つって言うから……だから、一緒に研究なんてできないって……」
「…………」
不覚にも可愛いと思ってしまった。コイツは九条緋真で「くっしー」さんで、ライバルで最高の仲間だったのだ。
「嫌なもんか。お前は『くっしー』さんで『九条緋真』なんだろ?」
緋真は少しだけ顔を赤らめて腕を組む。そして斜を向いて小さく頷いた。
その様子にいじらしさを覚えつつ、用意していた言葉を紡ぐ。
「さっきの話だけどさ、やっぱりやってみないか? 俺達ならきっと、最高の足跡を残せるから……」
心からそう思った。そして彼女にもこの想いは通じたらしい。
俺の人生に於ける最高のロスタイムは、この瞬間に始まったのだ。