3話 喋れるからって調子乗らないでよ
時刻は午前6時。私は築地でせこせこ働いている。私の仕事は競り落とされた魚を雇い主の店に運んだり、並べたりする仕事だ。
市場内には氷の踏まれる音が響き、男達の怒鳴り声が木霊している。競りの最中なので尤もな事ではあるのだが……。
「煩いわね」
競りの声を掻き消そうと、蟀谷を強く押してみるが、全く以て効果が無い。
「緋真ちゃん。その3つは上乗せて、後は後ろね」
「はい、分かりました」
言われた通りにテキパキ動く。この仕事を始めてもう四年、多少の無茶を言われる事には慣れているつもりだ。しかし……。
「あっ」
突然足を氷に掬われ、バランスが崩れる。運んでいた発泡スチロールは抱き込んで死守したが、中身は乱れてしまっただろう。
「緋真ちゃん、大丈夫かい? 熱でもあるの?」
強面の店主が心配そうな眼を私に向けてくる。それもその筈、私はこの三日間ずっとこの調子なのだ。
「熱は有りません」
体調は悪くない。悪いのは全部アイツだ。アイツの所為で、研究も仕事も全然ダメになった。
「緋真ちゃん。今日はもう大丈夫だから、帰って休んだ方がいいよ。卒業研究忙しいんでしょ?」
「いえ、それ程でも……」
「今日はあんまり揚がってないし、順調だから大丈夫さ。給料は付けとくから、有給だと思って羽根伸ばしてくるといいよ」
「そんな、有給だなんて、社員でもないのに」
私が言うと、店主は優しく首を振る。
「緋真ちゃんは毎日出勤してくれてるんだから、遠慮しなくていいんだよ。今日は休んだ方がいいさ」
躊躇いも有ったが、他の人も優しい顔で頷いている。私は勢いに押されて頭を下げた。
「済みません……今日はこれで失礼します」
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九条緋真22歳大学生。バイトで築地の仲卸業者を手伝っている。勤務時間は朝5時~8時であり、終わり次第大江戸線に飛び乗って、本郷三丁目まで一本で大学に通学する。
仕事からは解放されたが、大学の一限までには随分な余裕が有るので、市場を練り歩くことにする。
整然と並んでいく新鮮な魚達を見ていたら、荒んだ心が潤っていくのを感じる。しかし……一人で寒い中歩いていると、無性に腹が立ってきた。
「白浜拓哉のくそばかやろう」
思い切り氷を踏んで粉々に砕き、その音を聞いて余計に虚しくなる。
――女でも出来たのかな……。
そう考えたが、すぐに首を振る。チャットの私――『くっしー』は男だと思われているに違いない。そもそも私と同レベルの陰キャ院生に女が出来るとも思えない。
そしてもし女が出来た所で、私と縁を切る理由には……。
――それとも研究に飽きちゃったの?
そうだとしたら、絶対に許さない。許さない……。
再び首を振って考えを飛ばすが、やはりあの男の姿が脳裏にこびりついて離れない。それを考えている自分にも腹が立つし、研究に集中できないのはいい迷惑だ。
「たっくんさん、どうして返事してくれないの?」
私の独り言に答える者はいない。一人ぼっちだ。
「たっくんさん……」
温もりを求めて、指が携帯を這う。チャットやwikiには過去ログが残っている。それを見れば寂しさを忘れることが出来るのだ。
私がチャットのパスワードを入力しようとした刹那、威勢の良いおじさんの声が響く。
「姉ちゃん、タコ一杯どうよ?」
邪魔されて刺々しい声が出る。
「タコ? 私は一人暮らしなので結構です」
しかし物珍しさが勝って、私は手招きに応じてしまった。彼等は本来、早い時間帯から一般客に声を掛ける事は無い。
――余程の高値で売りつけようとしているのだろうか?
私が店の前まで歩いていくと、店主が手を合わせてくる。
「お願いだ姉ちゃん。このタコ2000円で買ってくんねぇか? 得意先全員に断られちまったんだよ」
「貴方、何言ってるの?」
発泡スチロールに入っているタコは上物だった。2000円は流石に叩き過ぎに感じる。
首を傾げると、店主がまくし立ててきた。
「タコが喋った言って、誰も買ってくれねぇんだ。姉ちゃんどうだい?」
「どうもこうも無いわよ。こんなデカいの、タコパ10回やっても余るじゃない」
「そこを何とか」
「そうは言ってもねぇ……」
大江戸線に大きな発泡スチロールを抱えて乗り込む女子大生……完全に限界である。
「やっぱり無理です。食べきれないのは買わない主義なので。失礼しました」
とは言いつつも、興味が有ったので発泡スチロールの前に座って話し掛けてみる。
「このタコ野郎」
『タコパで頭止まってる知恵遅れに言われたくねぇよ。タコパアマ』
「…………」
タコは本当に喋れたのだ。いや、脳内に直接声が響いたのだが、そんな事は関係ない。
――なんだコイツ。面白いじゃん。
『どうしたタコパアマ。俺はもう怖い者なんて何もねえんだ。掛かってこい!」
「……店主さん」
呼ぶと、店主がきょとんとした顔で値札を置く。
「どうした姉ちゃん?」
「このタコ、私に頂けないですか?」