2話 築地市場に飛ばされる元大学院生
ここは、どこだ?
俺は何をして……?
そこまで考えて思い出す。俺はトラックに轢かれて死んだのだ。我ながら滑稽な死に方だと思う。
とすれば、ここは死後の世界という事になるな。
辺りは暗く、俺の身体は水の流れにゆられて、ゆらゆらふわふら……。頭上では太陽が揺れている。眩しいので下を見ると、研究で見慣れた岩場が広がっていた。
「……海の中?」
どう見ても海の中である。
成程、生命は海から生まれたので、海に還るって……絶対違うよな。考えられる可能性としては、
1:俺の家族の意思で、俺を海に葬った。
遺灰を撒くならまだしも、こんな葬り方はしないだろう。白浜海賊団ですか?
2:死んで海と一体化した。
事実であれば、三大宗教は全て反証される。
3:生まれ変わった。
ないない。……ないない。いや、まさかね。
しかし俺は3を否定しきれない。何故なら、俺の意思に応じて足が動いているのだ。
――そう、タコの足が。
もう一度動かしてみる。タコの足が動く。ヌメりとしたタコ足が動く動く蠢く。
「動く動く動くぞぉ……動いちゃってるよ」
じゃあ墨吐けるかな? と思い吐いてみると、案の定墨が出る。瞬間、周りの魚が逃げ出した。
これはタコに転生したとみて間違い無さそうである。いや、憑依したというべきだろうか。まぁどっちでもいいや。
「俺の足は八本で、血が青くて、余命は長く見積もって3年って訳だ」
タコは基本的に単独行動、寿命は長くて3年である。人生を嘱託でやるようなものだ。
「こっからどうするかなぁ……」
小さい頃、俺は魚に生まれ変わりたいと言っていた。夢が殆ど叶ってしまったのだが、いざ海に出てみるとやることが少ない。
とりあえず少し泳いで、魚を捕まえて足の動かし方を確認したりしたが、どうにも物足りなく感じる。
こうしてみると、研究と釣りと麻雀に溺れた大学生活は楽しかったのだろう。そして……。
「くっしーさん。春からこっちに来るって言ってたのに」
両親は放任主義で、俺の事を可愛がってくれてはいたが、くっしーさんはそれ以上に俺の為に動いてくれた。
あの人には言い尽くせない位の恩が有る。そして九条緋真、彼女に俺の研究成果を見せ付けてやりたかった。ノートPCに保存した論文のデータは、研究室のページにアップしてないし、そもそも書いていた事を教授に言っていない。
あの論文の存在を知るのは、俺とくっしーさんだけ、所在を知るのは俺だけという訳だ。
そして俺が死んだので、論文は永久にお蔵入りだ。
見事にエタった形になった。生存報告もできないのだ。
「はぁ、せめてあの論文くらいは発表したかったなぁ……」
1か月後に研究発表会が有って、その席で俺と九条緋真は顔を合わせる筈だった。そして俺の研究成果を見せ付ける筈だったのだ。
そんな事を考えていると、無性に帰りたくなってくる。陸に上がれはしないが、海の中で出来るだけ近付きたいと思った。
俺は東京湾を目指して、足を動かし始めた。
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あれから何日経ったのだろうか? 見える景色は全く変わらず、頭上の太陽は嘲笑うが如く光を落としてくる。
本来タコは長距離を泳げないのだが、何故か疲れることなくずっと泳ぎ続けることが出来た。
本当に泳いでいるだけでなのだが……。
そもそもどういう海流に乗っているのか、現在位置が日本海側なのか太平洋側なのか、もしくはオホーツク海なのかが分からない。
日本近郊であるという保証も無いし、ここが地球であるという保証すらない。
唯一つ言えるのは、俺がタコであり、ここが海であるという事実だ。
「一応、周り見てる限りだと、太平洋側を南下している筈なんだがなぁ……」
周りを泳ぐ魚の種類は目まぐるしく変わっている。海洋生物は専門領域なのだ。どこにどの魚が居るかくらいは勉強してきたつもりだ。
「今は、大体千葉位まで来たのだろうか?」
形容できないが、千葉っぽい……銚子で水揚げされていそうな魚が多くなっている。
そうそう、道中で地引網を喰らいかけた。アレは本当に怖いものだ。思い出すと、今でも足が震える。
「疲れたな。休憩するか」
身体は疲れずとも、ずっと同じ動きをし続けるの精神衛生上宜しくない。
「休憩場所、休憩場所……」
そう言って探していると、白くてつるつるした丁度いい大きさの壺を発見する。
――おっ、良いの発見。
俺は足を突っ込んで、先客が居ない事を確かめた後、全身を壺の中に埋める。
「あぁ……安心するわ。この守られてる感じがいいんだよな」
後で考えれば、考えるまでも無く、振り返りさえすれば俺の行動が凄まじい愚行であると分かる。
俺はタコツボに引っ掛かったのだ。
「むにゃむにゃ……いや、本当に素晴らしい」
壺の中で足を動かすのはとても楽しい。布団に入っているが如き安心感を覚えることが出来る。
「おぉ、リラックスすると視界が明るくなるんだな」
気付けば、随分視界が明るくなっている。まるで太陽が近付いてくる……よう、な。
俺は水揚げの寸前でようやく気付いたのだ。これがタコツボであると、そして空前絶後の大ピンチであるという事をっ。
太陽が近付く=水揚げ=競り=刺身……。ヤバいっ。
瞬間、
『ブクブクッ、ザブンッ』
眩しすぎる太陽と白い甲板、そしてかっぱを着た漁師のおじさん達の姿が見える。
大ピンチだというのに、久しぶりに人間を見て少し安心してしまった。
人間にまた会えて良かったという思いが、心の底から湧き上がってくる。
そしてそう思える自分に安心する。
俺は築地市場に飛ばされた。




