1話 明け方の北海道は凍っていました
「ほぼ完成だな。これで奴を出し抜ける」
大きく伸びをして溜息を吐くと、息が白くなっている事に気付く。どうやらストーブの自動停止機能が作動していたらしい。それだけ集中していたという事だ。
机上の灯りを消して、カーテンを開けてみると、予想通り空が白んでいる。
「これは寝られないか……一限だもんな」
白浜拓哉24歳、職業大学院生――俺のプロフィールである。専攻は海洋生物学であり、札幌に在る国立大学に通うしがない院生だ。
そんな冴えない学生である俺だが、研究で確かな実績を残している。論文は有名誌に取り上げられ、被引用数も相当に多い。しかし学部生の講義に付き合わされ、入試の日には駆り出されるのだ。
理系軽視の日本に居る限り、しょうがない事だとは思うが、こんな事をしているから有能な人間が流れていくのだとも思う。
「やっぱ東京に残るべきだったかなぁ。だけど、今はそれより――」
本棚からファイルを取り出して捲っていく。ファイルには最新の研究を纏められている。今時論文など印刷する馬鹿は居ないし、俺も馬鹿ではない。
しかし例外は常に存在し、俺の中の例外はこの女だ。
「……九条緋真」
九条緋真22歳、この国の最高学府に通う才媛だ。彼女も又、俺と同じ海洋生物学分野で卓越した研究成果を出している。
そして……来年から同じ大学院に所属する予定である。本当に腹立たしい奴だ。
向こうが俺の事を意識していないというのが、尚の事腹立たしい。
「まぁ、これを発表したらどっちが上かはっきりするだろうからな」
今朝執筆した論文は、学会に一波乱起こすこと間違いなしだ。
九条緋真も俺の存在をはっきり意識するだろう。その時だった。
『お疲れ様です。執筆は終了しましたか(´・ω・`)?』
パソコンのチャット画面に短文が表示される。よくある『いかチャット』だか『たこチャット』とかいうチャットだ。中学時代にソシャゲで利用していたもので、院に入って再び使い始めた。
『お早うございます。もう少しで終わりそうです。いつもありがとうございます』
『いえいえ、たっくんさんの研究をお手伝いするのは楽しいので(*´꒳`*)』
チャットの向こうでキーボードを叩いているのは、このチャットのもう一人の住人である『くっしー』さんだ。
俺とくっしーさんは、二人だけのwikiを設けている。元々は釣りの日記や海の写真などをSNSで見せ合っていたのだが、互いに専門的な話が出来ることが分かった後に、チャットとwikiを開設した。
wikiの名前は『アクアリウム』――二人だけの水族館だ。
ひょんなことから、俺の素性がバレてしまい、それ以来くっしーさんは俺の研究を手伝ってくれるようになった。
北海道住みの俺には、閲覧したくても閲覧できない(取り寄せに時間が掛かる)文献が多い。その為、どうしてもくっしーさんに頼りきりになる。
『やっぱり今度会いませんか? 俺ももうすぐ帰省するので東京行きますよ』
『いえいえ、それに私も春から北海道に行くことになりましたから、そのときにお会いしましょう(`・ω・´)/」
それを見て思わず肩が跳ねる。
「えっ、マジか。くっしーさん北海道に来るのかよ」
『どちらですか?』
『札幌です(*´꒳`*)』
しかも滅茶苦茶近い。滅茶苦茶近い。重ねて……滅茶苦茶近い。
「よっしゃ! 始まった。俺の北海道ライフ始まったよ!」
声を上げてガッツポーズする。くっしーさんと俺の趣味は丸被りである。一緒にフィールドワークして、凍えながらワカサギ釣って、話し込むことが出来る。
ネットで会話していてこんなに面白いのだ。リアルで会ったら楽しいに決まっている!
舞い上がった俺は、チャリの鍵を取ってドアを勢いよく開ける。近くのコンビニで朝飯を買おうとしたのだ。
チャリに跨り、鍵を外す。暗証番号は『2357』で素数が4つ! チャリを押して凍える体に活を入れ、走り出して跨る。動き始めた太陽によって影が長く伸びる。
青空に抱かれて、鳥人間にでもなった気分になる。
――そうとも。俺は何処までだって行ける。
九条緋真を出し抜いて、くっしーさんは北海道に来る。完徹一限なんて関係ない。
軽いペダルを全力で漕ぐ。チャリは見る間に速度を増し、視界が景色を追い抜いていく。
「よっしゃ。ラ王とコーラで一杯――――」
大通りに出たその時だった。
クラクションの音が鳴り響き、目の前に大きなトラックが現れる。
「あっ、やべ」
慌ててブレーキを踏むが、ブレーキが掛からない。瞬間、脳内で閃光が弾ける。
吐いた息は白かった。ストーブを焚いていた。なんで秋なのにストーブ焚いてたんだっけ? そうだ寒波、今年最初の寒波が来るんだった……。今は5時過ぎか、凍ってても不思議じゃないな。
下を見ると、薄く張った氷が爽やかすぎる空を映している。
――あぁ、うんざりするほど青い空だな。
この日、俺――白浜拓哉は命を落とした。
くっしーさん、そして九条緋真に会えないのが心残りだった。
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――『くっしーさんが入室しました』
『たっくんさん? (´・ω・`)』
『たっくんさん? (・ω・`寂)……』
『たっくんさん? お忙しいなら生存の確認だけでも……寂しいですよ( ;∀;)』
『たっくんさん? お返事だけでも……』
『たっくんさん? もう一週間ですよ』
『たっくんさん?』
――『くっしーさんが退出しました』
チャットルームには誰も居ません。