真実はいつも――五十円玉二十枚両替についての考察――
始まり
K県S市内に居を構える推理作家・吾妻鑑の元にその話が舞い込んだのは、彼が来月分の原稿を書き上げ、読んで字の如く生きる屍と化して爆睡していた六月のある金曜日のことであった。
テーブルに放っていたスマートフォンが、無機質な着信音を鳴り響かせていた。お気に入りのカウチソファをベッド代わりにして横になっていた吾妻は、カーテンの隙間から漏れる日の光に目を細め、相変わらずの――いや、いつも以上に鳥の巣のようになっている頭を掻きながらむくりと起き上がる。
「――まだ十時か。誰だよ、こんな朝から」
平日の朝十時。大概の人間にとっては「こんな朝から」と愚痴をこぼすような時間帯ではない。だが、出社時刻、定時という概念のない作家業を勤める彼にとっては、脱稿した今日の明け方五時から五時間後の十時はまだ「こんな朝」という時刻の範疇らしい。
『――あ、もしもし、吾妻先生ですか』
「ん。何だ、小暮警部じゃないのか」
『何だとはひどいですよ。僕が電話したらダメなんですか』
「悪いが、今はひどく疲れているんだ。急用ならば手短に頼む」
よほど疲労困憊の色を聞き取ったのか、電話の相手は「え、そんなにお疲れなんですか」と突然控えめな声の調子になる。
『いえ、何というか――ちょっと、個人的に相談したい事件がありまして』
「個人的? 捜査本部の立った、あるいは今にも立ちそうな事件というわけではないのか」
『ええ。まったくもって、僕――というか、僕の知り合いが遭遇した事件なんですけど』
「それは、急を要するものなのか」
『いえ――そういうわけでは。ただ、僕が今日たまたま非番なんで、先生に話をじっくり聞いてもらう機会が今日を逃したらしばらくなさそうなんですよ』
軽口をたたいていた声も、すっかりかしこまったように抑えたものになっていた。
「ふうん――殺人か、あるいは法に触れるようなことに巻き込まれたのか」
幾分意識がはっきりとしてきたのか、ソファから腰を上げた推理作家はスマートフォン片手にのろのろとした足取りでキッチンに向かう。
『いえ。そこまでの大事ではないのですが』
自信のなさそうな、尻すぼみのような口調で答える声を電話越しに聞きながら、吾妻の手元では着々と朝のコーヒーの準備が進められていた。
「何だ、さっきよりも随分と遠慮しい口ぶりじゃないか」
『いえ。だって、“ひどくお疲れ”なんですよね。公式の事件ならまだしも、私用で先生のお休みを邪魔するのはさすがの僕でも遠慮がちになりますよ』
「――面白いのか」
『は?』
素っ頓狂な声に、吾妻は再び返す。
「面白いのか。その事件は」
『――面白いですよ。先生のお眼鏡に適う事件かと思って、勇気を振り絞って電話したんですから』
その言葉を聞いた推理作家は、唇の端を吊り上げながら、来訪を歓迎する旨の趣旨を伝えると電話を切る。ソファに舞い戻り挽きたてのコーヒーを口にする彼の顔はどこか楽し気で、先ほどまで「ひどく疲れた」とぼやいていた男からはほど遠い表情を浮かべていた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
その一 事件の概要
「――若宮くん」
「はい」
やや緊張した面持ちの青年に、吾妻は不思議そうな顔で尋ねる。
「俺は、君のプライベートな事件のことで相談に乗ってほしいと聞いたような気がしたのだが」
「ええ。間違いありません」
「じゃあ、君とそちらの女刑事さんは、いつからプライベートな関係にまで発展したんだ」
「私はあくまで、“僕一人で先生と相対するのは緊張するので、よかったらご同行願えませんか”という彼に従ってついてきただけです。誤解のないように」
セリフの部分だけやけに気弱な口調で、他はいつもながらの涼やかな調子で言ってのけたのは、K県警捜査一課に所属する女刑事・鈴坂万喜子だった。隣では、同じくK県警捜査一課の新米刑事であり、今回の事の発端でもある若宮暢典が「あ、先輩。言わないでくださいよ。念を押した意味がないじゃないですか」と先輩刑事を非難していた。
そんなこんなということで、S市内のマンション「ラルジュ水穂」七〇五号室に通された二人の刑事のうち、若宮暢典が持ち込んできた「個人的な事件」の概要をここで早速説明することにしよう。以下、若宮暢典の証言である。
- * - * - * - * - * - * -
――きっかけは、僕の知人が勤務している、市内のある書店で起きました。
その知人を、仮にAとします。あ、Aだけじゃ何だか味気ないですね。そうだなあ。じゃあ、とりあえず山田はな――は、ダメですか。では、佐藤愛子さんでいいですかね。ええ、女性なんですよ。いや、決してそういう仲とかではなくて。
ええと、その佐藤愛子さんは、三ヶ月ほど前からその書店で働き始めました。え、どこの書店かって? とりあえず、市内のわりあい大きな店舗とだけ言っておきますね。いえ、一応、関係者のプライバシーは守らないと。これでも刑事やってるんで。
ああ、はい、事件ですよね。最初の事件は、佐藤さんが勤務を始めてから最初の土曜日に起きました。その日、彼女はまだ不慣れなものの、特にトラブルもなく平穏に勤務をこなしていたそうです。件の事件が起きたのは、夕方の五時半を回った頃です。佐藤さんは、三階まであるその書店の一階、一般書籍が売られているフロアのレジを担当していました。他の先輩店員の指導のもと、本や雑誌を買いにきたお客の対応をしていたのですが、そこへ一人の男性客が現れたんです。
男性は、手元に商品は持っておらず、代わりに財布を手に持つと“千円札と両替してください”というような趣旨のことを佐藤さんに言ってきたそうなんです。
いえ、もちろんそれだけならわざわざここまで騒ぎ立てないですよ。問題は、ここからです。
その男性が差し出してきたのは、五十円玉がきっかり二十枚――その二十枚の小銭を、“千円に両替してほしい”と頼んできたんです。
不思議ですよね。千円札がほしいのなら、何も五十円を二十枚も出さなくても、たとえば五百円とか、百円とかでいいじゃないですか。おつりで五十円なんて、他の小銭と比べたら返ってくる確率はあまり高くないわけだし。
ただ、その一回限りのことだったなら、佐藤さんもそこまで強烈な記憶には残らなかったと思うんです。
――ええ。その男性客は、その日を境に、毎週の如く佐藤さんの勤める書店にやってきては、ただただ五十円玉二十枚を千円札一枚に両替して帰るようになったんです。しかも、来るのは決まって、土曜日の夕方。およそ五時から六時の間なんだそうです。
奇妙に思った彼女は、それとなくその男性客を観察するようになりました。男性は、入り口を通って書店に入ってくると、本の陳列棚には一切目もくれず、真っ直ぐに佐藤さんのいるレジにやってきます。そして、財布から五十円玉の塊を取り出し“千円に両替してほしい”というだけ。五十円の枚数を数えて、二十枚ぴったりであることを確認すると、千円札をレジから出して男性に渡します。佐藤さんのいる書店は、両替にも親切に対応してくれる店だったんですね。男性は、彼女の手にあった千円札をほとんどひったくるようにして受け取る――掴み取る、といった方が適当ですかね――と、礼も言わず、そしてやはり商品を手に取ることもなく、慌ただしく店を出ていくそうなんです。一度、佐藤さんが数えている五十円硬貨を誤って床に落としたとき、ちらりと横目で見たら男性は少しイライラしているような様子だったと言っています。
――これが、僕の知人である佐藤愛子さん(仮名)の身に起きた、奇妙な事件の概要です。
- * - * - * - * - * - * -
「――それは、もしかしたら重度のミステリマニアの仕業かもしれないな」
若宮刑事の話を聞き終え、吾妻は低音ボイスでぽつりと呟いた。
「え、先生、今の話だけで何かわかったんですか」
驚いたように目を丸くする若宮刑事に、推理作家は
「いや、わかったというより、単純に一つの可能性が浮上したというだけだ」
「なんですか、その可能性って。というか、やっぱり作家さんってすごいんですね。こんな短い話を一度聞いただけで、“一つの可能性だが”なんてさらりと言ってのけるんですから」
興奮冷めやらぬ、といった新米刑事に対して、作家吾妻は冷静そのものだった。
「お褒めに頂き光栄――と、言いたいところだが、これは推理でも何でもない。ただの知識の一欠片にすぎない。簡単なことだ」
カウチソファの上で、長い足が優雅に組まれた。
「同じような事件が、以前にも発生していたからだ」
「――え?」
目をぱちくりとさせる若宮刑事とは対照的に、彼の隣に座る鈴坂刑事が素早く切り返した。
「老竹六海さんの、“五十円玉二十枚の謎”――ですね」
「ほう、よく知っているな。意外なところにミステリ好きがいたものだ」
「いえ。たまたま、知人から以前に聞いたことがあったもので」
「ちょ、ちょっと待ってください。二人で勝手に納得するのはズルいですって」
両手をぱたぱたとさせて吾妻と鈴坂刑事の会話に割って入る青年。推理作家はテーブルのコーヒーに手を伸ばし、一口啜ると淡々とした調子で語り始めた。
「老竹六海とは、ベテランの推理作家の一人でな。実は、彼女が大学時代に経験したアルバイトの中でも、きみが今しがた話してくれたこととほとんど同様の出来事が起きているんだよ。もちろん、場所は違えど、だけどな」
「同じようなことって、変な男性客が、五十円玉二十枚を両替しにくるってことを?」
「それだけじゃない。その地域では比較的大型の書店であること、毎週土曜日の夕方という時間帯、客は男性であること、そして、商品も何も買わずに、両替だけのために同じ書店に通い続けていたこと――これらの特徴すらも、奇跡的なほどに一致しているのさ。老竹先生と、きみの知人である佐藤さんとの体験はな」
「――つまり、男性客は、その老竹さんという作家先生のファン、あるいはミステリマニアかなにかで、その老竹先生の作品を模倣して行動に及んだということですか」
「あまりにも状況が一致しすぎているからな。まったくの無関係、とも言えるまい」
足同様に長い腕を組む吾妻に、プライベートではほとんどミステリの世界に触れることはないらしい青年刑事は「へえ。そんな人もいるもんなんですね」と呑気な口調である。
「ま、あくまで数ある可能性の中の一つでしかない、ということだ――ところで、その佐藤さんとやらからは、他になにか情報を仕入れてはいないのか」
「情報、といいますと」
「たとえば、男性客の風貌や、特筆すべき特徴、あるいは、両替以外に男性客がとった奇妙な行動、はたまた佐藤さん以外の書店員の話という具合に」
「そうですね――客の見た目については、“特にこれといった特徴のない、中年から初老にかけての男性”としか聞いていませんね。あとは、“ぱっと見た感じ、あまり本を熱心に読むようには見えない”なんてことも言っていました。他の書店員さんの話についてなんですが、どうやらその男性客、佐藤さんが働き始める前から、その書店で両替に来ていたみたいなんです。ただ、別に悪いことをしているわけでもないので無下なこともできず、男性に応対した店員さんはみな、当たり前のように両替を引き受けていたようです。中には、“今では、ここのちょっとした名物だよ”なんて言う人もいるみたいですけど」
「その男性客は、今でも佐藤さんの勤める店に来ているの」
との問いは、鈴坂刑事のものである。
「あ、どうですかね。彼女から話を聞いたのは一ヶ月ほど前なので、今でもその客が足繁く書店に通っていると断言はできませんね。訊いてみましょうか」
「まあ、今はその足取りが止んでいたとしても、少なくとも佐藤さんが書店で勤務を始めた三ヶ月前までは確実に両替男は存在していたわけだ。実は佐藤さんがミステリオタクで、きみに謎かけを仕掛けるために嘘の話をでっち上げた――などという真相でなければね」
肩を竦めた吾妻に、「いえ、それはないです。彼女も随分と不思議がっていましたし、いろんな人に両替男の謎を言いまわしているらしいですから」と補足した。
まるで一種の都市伝説のように名づけられた“両替男”。若宮刑事及び彼の知人である佐藤愛子さん(仮名)の日常に舞い込んだ、少し風変わりな謎である。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
その二 刑事たちの考察
「事件の内容は一通り把握したが、考察の前にきみらの意見も聞きたいところだな」
砂糖とクリームをたっぷりと投入したコーヒー――吾妻に言わせれば“もはやコーヒーの概念を失った別の飲料”だそう――を味わっていた若宮刑事は「僕たちの、意見ですか」と虚を突かれたように詰まった声を出す。猫目に艶やかな黒髪と、どこか黒猫を連想させるような見た目の女刑事は、その容貌を裏切らない猫舌体質なのか、いまだにコーヒーカップを冷ましながら両目を吾妻にちらりと向けた。
「まさか、自分らは何も考えずに、ただ俺の意見を聞きにきただけ、というわけでもあるまい」
「え、いえ――確かに、佐藤さんの話を聞いてから僕も僕なりに考えてはみましたけど。さっぱりですよ、ちんぷんかんぷんです」
「私は、今朝彼から話を聞いたばかりなので、まだ何とも推測つけ難いです」
教師に指名されて回答に困っている生徒のようだ。日頃「先生」と呼ばれている吾妻の手前、あながち的外れな表現でもないだろう。
「どうせ本人を追及しない限り、真相は謎のままだ。それならばいっそ、好きに憶測・推測が飛び交うのもいいだろうさ」
「そりゃまあ、そうかもしれませんけど」
やや気おくれしたように眉を寄せる若宮刑事。作家先生は構わずに「考察力は仕事でも必要だろう。何事もやってみることだ」などと、どこぞの教師らしい発言を繰り出した。
「ううん――先生の話を聞くと、そりゃミステリマニアの線が最もらしく聞こえますよね」
「その案は既出だ。“〇〇ちゃんと同じ意見ですが~”などという意見は、社会人ではちと信頼性に欠けるんじゃないのか」
手厳しい先生である。
「そうですね――たとえば、男性客は何らかの理由により手元に大量の五十円硬貨があって、それが邪魔になって両替しにきていたとか」
「それほどまでに大量の小銭なら、銀行にでも行った方が手っ取り早いだろ。わざわざ書店を選ぶ必要はない」
「じゃあ、銀行のような場所には持参できない、たとえば、不正や悪事を働いて手に入れたものだったとか」
「五十円が大量に手に入る悪事ねえ――第一、それも書店を行き先にする必要はないだろう。しかも、同じ店で両替を続けていたら店の人間に奇妙に思われるのは一目瞭然。後ろ暗い事情で手に入れたものなら、店を転々と変えながら両替する方がはるかに安全だ」
苦笑いの推理作家。が、若手刑事は負けずと「では」と声を上げる。
「その店でなければいけない――もっと言えば、その店の決まった店員でなければいけなかった、というのは」
「と、いうのは」
「つまり、両替男は佐藤さん目当てに両替に来ていたんです。あるいは、ちょっとストーカー気質の男で、佐藤さんが触れたお札が欲しかったとか」
自分で言っておきながら、若宮刑事は顔を顰めている。仮にそのような事実があったとするならば、市民の平和と安全を守る一仕事人としては見過ごせない展開だろう。
「その場合、両替が五十円硬貨二十枚から千円札である意味が不透明になってくる。五十円玉にも千円札にもこだわる必要はない。五千円でも一万円でもいい。むしろ、両替の金額としては千円札を五千円や一万円に替えるといった方が自然だ。それに、男性客は苛立った様子で両替が終わるのを待っていたんだろう。お目当ての佐藤さんのすぐそばにいながらその反応というのは、仮説とは矛盾するんじゃないのか」
「それなら、男は五十円玉がよく手元に残るような特殊な仕事についていて、定期的にその五十円を両替していた、というのは」
「五十円玉が手元に残るような特殊な仕事、とは?」
「――ゲーセンマニアとか」
くぐもった声の若宮刑事に「いい歳してゲーセンマニア?」という鈴坂刑事の冷やかな評価。自分が指摘されたわけでもないのに、青年は肩を縮ませて「他になにかありますか」と不満気な声を漏らした。
「ですが、今の若宮の話で、私も少し考えたことがあります」
「どうぞ、女刑事さん」
挑発するような口調の吾妻に、女刑事はさして気にも留めていないように訥々と口を開いた。
「たとえば、今の若宮の“五十円玉が手元に残るような特殊な仕事”というフレーズ。少し視点を変えると、ゲーセンマニアよりも少しはミステリ要素の強い発想が浮かんでくるのでは、と思いました」
「褒めているのか貶しているのか、どっちなんですか」
むくれ顔の後輩刑事をちらりと猫目で見やり、「さあ、どっちもじゃないの」と素っ気なく返される。
「残る、というよりも、できる、という表現の方が、私個人的にはしっくりくるように思います。五十円硬貨が手元にできるような特殊な職業――そして、先ほど吾妻先生がおっしゃった“後ろ暗い事情”。この二つのワードを聞いて私が思い浮かべたのは、硬貨の偽造です」
「なるほど。男は、硬貨を偽造する不正で金儲けをしていたと」
「はい。それならば、手元に大量の小銭ができるというのもわかります。また、複数人の集団の中で、それぞれ偽造する硬貨や紙幣の担当が分けられていたかもしれません。佐藤さんの書店を訪れていた男性は、五十円硬貨偽造を引き受けていた。そして、自分の偽造した硬貨が実際に疑いの目が向けられずに使用できるか、ということを確認したかった」
「では、佐藤さんの勤務する書店をターゲットにした理由は」
「常に大量の金銭が回り、なおかつ監視の目も厳しい銀行で偽造硬貨を試すのは、言わずともがな、かなりのリスクを伴う行為です。おそらく、男性の行動範囲にほど近く、なおかつ疑いの目が向かない、絶妙の場所にあったのがたまたま佐藤さんのいた書店だった――その程度のことではないでしょうか。偶然に任せるというと聞こえが悪いですが、それくらいの偶然ならば奇跡的というレベルでもないでしょう。十分な可能性のあることかと。それに、大型の店舗である方がレジのお金の回りも早い、つまり硬貨が他の客に渡るのも早く、偽造硬貨が長期間店のレジに眠ったままということも避けられる。一般の客が、まさか自分の手に渡った五十円硬貨が偽造だなんて普通は疑わないでしょうし」
「五十円硬貨が二十枚という枚数、及び両替が千円札一枚であった理由は」
「多すぎず少なすぎずの範囲が、二十枚ほどだったということなのでは? 千円札一枚ならわかりやすいですし、自然な両替の金額です」
「一度に限らず、毎週の、しかも決まって土曜日の夕方という時間帯であったのは」
「一度では店員の目を完全に欺くことができたのか不安だった。何度も同じ店で繰り返せば、“同じ店員の前でこれだけ両替して気づかれなかったのならば大丈夫だ”と、確信をもつことができます。また、男性は通常はごくごく一般的な職に就く者で、硬貨偽造はあくまでも裏で行っていたことだった。土曜日の夕方は、男にとってたまたま都合のいい時間帯だった――では、偶然に頼りすぎていますか」
鈴坂刑事の言葉に、吾妻は薄い笑みを見せると「真実は、時に偶然の掻き集めで成り立つこともあるさ」と告げる。
「発想は論理的だ。だが、やはり君の推測にも苦しい部分はある――まず、そもそも“貨幣を偽造する集団”という設定には無理があると言わざるを得ない。もちろん、そのような犯罪組織がないとは言えないさ。だが、現実的かと問われると容易に頷くことはできないな。
また、硬貨偽造の技術や道具はどのようにして会得、用意されたのか。男は金属加工の会社にでも勤めていたのか? 悪くない考えだが、生憎日本の貨幣製造技術も相当のものだと聞いたことがある。余談だが、日本の五百円硬貨は硬貨の中でも最も偽造されにくいように様々な工夫が施されているらしい。五十円硬貨製造の難易度がいかほどのものかは不明だが、硬貨偽造説を用いた場合はこのあたりの追及は免れられないだろう。
さらに加えるならば、硬貨偽造によって発生する損得問題だ。男は果たして、五十円硬貨一枚を偽造することで、五十円以上の利益を得られるのだろうか。組織に所属しているのなら報酬制ということもあるだろうが、どちらにしろ硬貨偽造にかかる労力とそれに伴って発生する報酬が見合っているのか、ということだな。五十円以上の労力がかかるのならば、そこまでして五十円硬貨を偽造し続ける理由というものが必要になってくる。
と、まあ、所詮は何を言っても憶測の域を出ないわけだが、鈴坂くんの推理に敢えて反論するのならこの辺りになるのではというのが、俺の率直な意見だ」
捲し立てるように言い切ると、長い吐息を漏らしてソファから立ち上がった。喉の渇きのためか、二杯目のコーヒーを手際よく入れる。再びソファに戻った吾妻に、女刑事は「作家先生に言われては、ぐうの音も出ませんね」と苦笑を見せた。
「だが、硬貨偽造という内容自体は推理小説向きの発想だ。ハードボイルドの刑事ものの話ならば、そこから思わぬ巨大犯罪組織へとつながる重要な要素になるかもしれない」
一人こくこくと頷く吾妻に、鈴坂刑事は「実際に起きたという話の真実がそうでないことを祈るばかりですね」と生真面目にコメントする。
「――あの」
なぜか生徒のようにおずおずと右手を挙げた若宮刑事に、先生と女刑事は顔を向ける。
「もうひとつ、考え付いたことがあるんですけど」
「ほう。案外積極的なんだな。いいさ、可能性が浮かべば浮かぶほど、謎は面白くなる」
「では、遠慮なく――といっても、先ほどの先輩のように本格的な推理小説要素はないかもしれませんが」
遠慮なく、という言葉の割には遠慮がちな態度の若手刑事に、吾妻は「構わんよ」と肩をひょいと竦める。
「五十円硬貨は、お弁当によって発生したのではないでしょうか」
「――お弁当?」
新米刑事以外の二人が、異口同音に返した。
「はい。僕はさっきからずっと、“五十円硬貨が一週間で二十枚になる方法”を考えていました。今までの話から考えると、この事件の大きな柱は三つ。①男性の手元にはなぜ毎週五十円玉二十枚ができるのか、②なぜ五十円玉二十枚を千円札に交換するのか、そして③なぜ毎回決まった時刻、決まった場所なのか、だと思います。
個人的に、この中で重要度の低い項目は③ではないかと、考えました。正確には、③の場所については、あまり重要ではないのではないか。先ほど先輩も言っていましたが、男性の行動範囲内の場所にあった、あるいは、何かの用事の行き帰りに寄るのにちょうどいいところだったからと、男性の都合ということで済ませることができると思うからです。
重要なのは、やはり①と②です。ここで、僕は①について、とにかく考え続けました。この①の項目は、上手くいけば③の“なぜ毎週土曜の夕方なのか”というところにもつながっていく可能性もあるからです。
人の手元に硬貨が貯まるのはどのような場合でしょう。一番わかりやすいのは、やはりお釣りをもらったときですよね。では、五十円硬貨のお釣りをもらうには? 一番簡単なのは、百五十円や二百五十円、三百五十円といった金額の買い物をしたときだと思います。
ですが、日常で百五十円や二百五十円、三百五十円の買い物を毎日することはあまりないですよね。まあ、コンビニなんかにあるお気に入りのお菓子が百五十円や二百五十円だったということも考えられますけど、“特にこれといった特徴のない、中年から初老にかけての男性”が五十円のお釣りをもらうもっと自然な方法があると思いました」
「なるほど――それが、弁当というわけか」
ソファに深く腰掛け身を預ける吾妻に、若宮刑事は「はい」と首を縦に振り先を続ける。
「男性は、一日の朝昼晩、三度の食事を常にコンビニなどの弁当で済ませていた。四百五十円の弁当を購入し、五百円を出せば返ってくるお釣りは五十円です。これで、男性は一日に三枚、五十円硬貨を手に入れることができますよね。
そして、男性は日曜日の朝から土曜日のお昼までを、すべて四百五十円の弁当で済ませていたのです。日曜日の朝から、土曜日のお昼まで。六日間と、朝昼が一度。これを合計すると――」
「五十円玉は、ちょうど二十枚できる」
ぽつりと呟いたのは、鈴坂刑事だった。
「そうなんです。これなら、日曜日の朝から貯め始めて、土曜日の昼には五十円硬貨はちょうど二十枚できる。そして、土曜日の夕方に両替をするというところにもつながる訳です。
では、男性は何のためにそんなことを? もちろん、僕の話もあくまで憶測でしかないのですが、彼には一人の子どもがいる、あるいは、子どもの知り合いがいるのではないかという仮定が頭の中に浮かんできました。
どちらでも構わないのですが、その子どもは、おそらく何らかの病気で入院生活を送っているんです。そして、毎週土曜日の夜、子どもの元にお見舞いに行くのが、彼の習慣だった。
これは、男性がやけに急いでいる様子であったことにも関係します。彼は、病院までタクシーを使っていたんです。それで、外にタクシーを待たせているために、急がざるを得なかった。
最後に、彼は何のために五十円二十枚を千円札に両替をしたのか。②の疑問ですね。
男性は、入院している子どもにその千円札を渡していたんです。たとえば、『手術代の足しにでもしてくれ』などと言って。では、なぜわざわざそのような回りくどい両替を経て得た千円札でなければないないのでしょう。千円札ならばもっと簡単に手に入るはずですよね。
ここからは完全に僕個人の発想ですが、彼は“自分が毎日働く中で消費した食事代のお釣りでできた五十円。そして、その五十円が集まってできた千円札”に拘っていたのではないでしょうか。つまり、彼の人生の一部を掻き集めてできた千円札で、子どもに病気を治してほしかった。それほどに、その子に何らかの思い入れが彼にはあった。
――というのが、僕が新たに考えた一説ですが、いかがでしょうか」
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
その三 吾妻鑑の考察
「――ふん。なかなかに面白い考えだな。正直、ちょっと驚いたよ」
ソファからゆったりと身を起こし、推理作家は両手を顔の高さほどまで上げた「お手上げポーズ」を見せる。
「日曜日の朝から土曜日の昼までの食事。その合計がちょうど二十食分になる――まったく考え付かなったな。根っからの文系人間な俺には瞬時には浮かばないことだ」
「土曜日の夕方であった理由や、男性の慌てた様子というところにまで綺麗につながっている。若宮、いつの間にそんなところまで考えていたの」
珍しく素直に驚きの色を浮かべた女刑事に、新米刑事は「いえいえ」と照れたようにウェーブがかった栗毛を掻く。
「先生や先輩の話をいろいろと参考にさせていただきましたから――それに、もちろん先生には、僕の説に対する反論が用意されているのですよね」
いたずら小僧のようにくりっとした両目を向けられた推理作家は、「お手上げポーズ」を解いた腕を組み直すと、やはりいたずらっぽい笑みを見せる。
「そうだな――三つの柱のうちの二つ、①男性の手元にはなぜ毎週五十円玉二十枚ができるのか、そして③なぜ毎回決まった時刻、決まった場所なのか、という部分についてのきみの論理の組み立てには感心したよ。いや、実に鮮やかだった。
両替の理由付けが子どもの入院費用に充てるためという部分も、まあ多少の無理やり感はあるが、そこはやはり、想像の域だからと考えれば納得することもできる。
粗を指摘するとしたら、男が毎日のごとく弁当を買っているという点、そして付随点として、やはり五十円硬貨である必要性についてだな。
一日三食がそれぞれ四百五十円の弁当。一日あたり千三百五十円の食費だ。お釣りの五十円硬貨が二十枚ということは、食事も一週間で二十食分。計算すると、一週間で九千円の出費だ。食費で一週間、一万円近くもかかっている。この数字には、一般市民としてはやや疑問を持つところだ。
さらに、四百五十円の弁当がそうそうどこにでも売っているということもないだろう。弁当を購入しているとしたら、決まった店があるはずだ。二十食、毎度同じ弁当を男は食べていたのだろうか? 男の両替行為はある程度の期間行われていたわけだから、それだけの期間、食事の全てが同じ弁当というところも、不自然さをどうしても感じてしまう。
以上のことから、そもそも二十食分とも弁当を買っていたという仮説がぐらつき始めてくる。と、なるとだ。①男性の手元にはなぜ毎週五十円玉二十枚ができるのか、というきみの鮮やかな論理も怪しくなってくる。確かに、日曜日の朝から土曜日の昼までの食事回数が二十回という注目点は非常に面白いがな。
そうすると、今度は自動的に五十円硬貨を両替するという行為にも影響が出てくる。五十円硬貨二十枚の出所が怪しくなってくれば、当然それを使って両替をするということが果たしてできるのか、という流れになるからだ。
と、今ざっと整理した限りでは以上のような疑問点が浮かんだわけだが、いずれにしても、若宮くんも鈴坂くんも面白い推測を披露してくれた。一作家の俺としては、興味深い話を聞くことができたよ」
「――ところで、ここからが肝心の話になる訳ですが」
両膝を掌で軽快に叩き、若宮刑事が弾んだ声を上げる。
「そもそも、僕はこの“五十円玉二十枚両替の謎”に関して、先生の考察を伺うためにやって来たんです。これを聞かずして、僕は帰ることはできませんからね」
「ハードルを上げるわけではありませんが、吾妻先生のご意見を、私もぜひお聞きしたいところです」
少なからず期待の籠った二人の刑事の言葉を受け、推理作家の男は安楽椅子探偵よろしく、三度ソファに深々と身を預けた。長い手足を優雅に組み、思案に耽るように部屋のあらぬ方角をぼうっと眺めている。小説でいえば、これから何分後かには「なるほど――みなさん、犯人がわかりました」などと言い出すような雰囲気だった。もちろん、今回の場合は「諸君、五十円玉両替男の謎は解けた」というようになるのだろうが。
五分が経とうとする頃だろうか。小さな溜息を洩らし背もたれから身を起こした吾妻に、二人の刑事は「何か、いい考えが浮かびましたか」と身を乗り出す。組んでいた腕をほどき、長く骨ばった両手の指を絡ませながら発せられた言葉は、
「五十円玉両替男の真相は――わからない」
「――へ?」
間の抜けた声をやっとのこと出した刑事らに、推理作家は肩を小さく上げると素っ気なく言い放った。
「もう少しわかりやすく言えば、“元の話の両替男の真相はわからない”というべきかな」
「どういう意味ですか」
眉根を寄せて問う若宮刑事に、吾妻はぽつぽつと語り出す。
「若宮くんの話によると、問題の両替男は若宮くんの知人である佐藤さんが書店で働き始める、少なくとも三ヶ月以上前から謎の両替行為を行なっている。
今からちょうど、五か月ほど前だ。東京創玄社という出版社から、件の老竹六海先生の体験した話をまとめた“五十円玉二十枚の謎について”という本の改定版が出版された。初版が発行されたのは今から二十年近く前。今回で六度目の改定だ。
おそらく、俺の想像では両替男が五十円玉の両替を始めたのは、その六版目が発行された五か月前。男は、“五十円玉二十枚の謎について”の改定本の出版時期に合わせて件の両替行為を始めたんだ」
「なぜ、わざわざ出版時期を狙って? やはり、最初に先生が言っていたように、男は熱狂的なミステリマニアだったのですか」
「そういうことも考えられるだろう。だが、それだけではちょいと真相としてはつまらない。わざわざ出版時期に合わせたとしたら、男は少なからず“五十円玉二十枚の謎”について知っていたはずだ。なおかつ、老竹先生の本のこともな。
たとえば、男は以前にも同じような行為を繰り返していたとしたら? 今回だけでなく、本が改定される都度、その時期に合わせて、以前にも日本のどこかで同じような出来事が起きていたとしたら」
「話を聞くと、なおさらミステリマニアの線で納得できそうですが」
「何も、マニアに限ったことではない。五十円玉二十枚の両替に拘る人間は、他にも考えられるさ――たとえば、老竹先生の体験談に出てきた男の、親族とかな」
「――両替男の、息子ということですか」
鈴坂刑事の返答に、吾妻は小さく微笑む。
「自分の父親の奇妙な行動が、一人の推理作家の卵の目にとまり、やがて書籍として世に知れ渡った。最初は驚いただろうな。あるいは、嬉しかったかもしれない。父親の些細な行動が、一つの謎としてミステリ界での話の種となっていることに、な。
だが、歴史は風化の途を辿る。語り継がれていけども、少しずつ、人々の記憶の中から忘れ去られていく。覚えているのは、話を受け継いだ一部の人間たちだけだ。
だから、男は考えた。こんなにも面白い謎を、もっともっと世に広めていきたい。目を凝らしてみれば、世の中はいくつもの謎で溢れている。自分の父親が出版界に残したミステリの軌跡を、これからも誰かに伝えていきたい――なんてことをな。
つまり、佐藤さんが見た両替男の謎についてはこのように推測できるが、老竹先生の元の話に出てきた両替男の真相は、もはや神のみぞ知る、といったところだ。俺が今回若宮くんから頼まれたのは、あくまで“知人の佐藤さんが出会った不思議な両替男の謎についての推測”であって、“老竹先生の話に出てきた両替男の謎の推測”ではないからな。
老竹先生の話に出てきた両替男の息子ならば、当時の状況を細かく模倣したのも納得がいく。場所、時間、シチュエーション。すべてに拘りたかったのだとな。また、老竹先生の年齢などを考えると、元の両替の出来事があったのは今からおよそ三十四、五年ほど前だ。その頃に中年――仮に、五十程度としようか――であった両替男に息子がいたとして、その息子が現在、当時の父親と同じくらいの年齢だとしたら、当時の息子の年齢は十代後半から二十代前半。違和感のない計算だ。
――まあ、その息子もある意味、一種父親の崇拝者のような人間であったとしたら、マニアともあながちかけ離れてはいないのかもしれないな」
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
その四 真実はいつも
「先生の話も含め、佐藤さんにもう一度話会ってきますね。僕たちのいろんな推測のことも教えてきます」と意気込んで、若宮刑事は吾妻のマンションを後にした。同行者の鈴坂刑事も「珍しく、血なまぐさくない事件のお話を聞くことができて面白かったです」と、やはりいつもながらのクールな口調で言い残した。
二人の刑事が去ると、吾妻はテーブルに伏せられていたスマートフォンにおもむろに手を伸ばした。ある電話番号を探し出し、呼び出しボタンを押す。
『――はい、K県警の小暮です』
「ああ、小暮警部。お疲れ様です。先週も変わらず、ありがとうございました」
『ああ、いえ。日頃の先生の捜査協力に対する、私からの恩返しということで。お役に立てているでしょうか』
「ええ。話を聞く限りでは、素晴らしい再現率でしたよ」
『はは――しかし、先生の考えなさることは相変わらず想像がつきませんね。“毎週土曜日の夕方に、両替をしてくれる市内の大型書店で五十円玉二十枚を千円札に両替してきほしい”とは。一体何を企んでいらっしゃるのですか』
「それは、わかってしまっては面白くないでしょう。謎というのは、謎のままであるからこそ人を魅了するものです」
『推理作家の先生に言われては、それもそうだとしか返しようがありませんね――ところで、明日の夕方は?』
「そのことについてなのですが、両替の件は、もう終わりにしようかと思いましてね」
『そうですか。では、明日からはもういいと』
「ええ。今までのご協力、本当に感謝します」
「まあ、また何かありましたら、お呼びください。我々も、いつ先生に捜査を依頼するかわかりませんからね」
「骨のある事件を、ぜひお待ちしております」
そんな通話を終えて、吾妻は電話を切った。マンションの七階から見える西の空には、目にも鮮やかな臙脂色の日が沈みかけている。
「謎は、謎のままの方が面白い。真実は、いつも一つとは限らない。あんただって、そう思って父親の行動を再現してきた――そうだろ、“親父”」
推理作家の目が、穏やかに細められる。夕空を眺める彼の表情は、今は亡き者を想う弔い人のそれだった。
先日購入した、若竹七海さんほかの競作【五十円玉二十枚の謎】。どうせなら、自分も謎の解答を考えてから先生方の意見をじっくり堪能したい――ということで、書いてみました。なかなかに無理やり感のある話ですが、考える行為自体はとても楽しかったです。
なお、若宮くんのお弁当のくだりについては、一部友人のアイデアを参考にさせていただきました。
私のミステリ談義に付き合い、アイデアまで出してくれた友人に感謝を込めて、後書きとさせていただきます。