第2章「何故、人類は鳥類でなければならないのか」(1) 戦争と人類
「人類は鳥類である」との想定は、幾何学で言うところの補助線に過ぎない。だが、それを引いてみることで明らかになる事柄、腑に落ちることも多いのである。
人類は自らを不可解な哺乳動物、二足歩行をする奇妙なサル、などと捉えており、反自然性を誇りに思ってさえいるようだ。ところが鳥類である、肉食走鳥類であると捉えれば、多くの不自然さ、多くの疑問は消失してしまうのである。
その一つが戦争である。これ程大規模で、不可解な行動をする動物は、この地上で他にはいない。では、どの様に解釈し直されるのであろうか。鳥にはテリトリーという観念がある。人間も同種の動物に対して縄張りを守る本能がある。国境を、他の動物(渡り鳥やら魚やら)が越えても気にする人間は居ないが、他の群れに属する同種の動物、つまり異国籍の人間が越境してくれば、これを撃退しようとする強烈な衝動を発するものである。これに集団で狩りをする事に快感を感じるという本能が加わることによって、戦争が「発明」されたのではないだろうか。「縄張りを守る」という本能と「集団で狩りをする」本能との結合によって戦争は生じた。人類最初期のイノベーションによって戦争は生まれたのである。
映画監督の小津安二郎氏は自伝において、自身が中国戦線に参加した経験から、自分が死ぬ心配さえなければ、戦争ほど面白いものはない、と喝破しておられた。戦争とは人類最高の娯楽である、という事は事実であると思う。その根拠とは、戦争が人類の本能から導き出されたものであるから、という事であり、戦争がなくならない理由もそこにあるのである。
戦争は悲惨だから無くそう、無駄以外の何物でもない、環境破壊さえもたらす悪であると、どれだけの人がどれだけ訴えもなくならない理由は、いたってシンプルな「戦争は楽しい」という点に有るのではないだろうか。本能に裏打ちされた根源的な楽しさを戦争が孕んでいるからである。
そして、戦争を無くそう、遠ざけようとする努力が実を結ばない理由も、戦争の原因を、その時々の政治的状況やら経済的状況などに求めてきたからであって、根源的な原因を、テリトリーを守る快感、狩りをする快感、そしてその結合に求めるならば、自ずとその解決の糸口が見えてくる筈である。
戦争を廃止する為には、いずれかの本能を滅するか、その結合を解く事にある。だが本能を無かった事には出来ないであろうから、結合を解き、二つの本能を別々に満足させるようにするか、もしくは、国際紛争を解決する手段を、サッカーやラグビーの様な、二つの本能を同時に満足させる、何か別のものに置き換える事であろう。