胎生と卵生について
まえがき
本書の目的は、タイトルが示すとおり、ヒトが鳥類の一種である、もしくは、鳥綱の一類であることを疎明する事である。
ヒトがサルの一種であるという「常識」は、強固な定説であるかのように思われているが、これを証明したとしているのは分子生物学者など、一部の学者に限られている。化石で進化の過程を明らかにしようとする、より実証的な科学者達は、証明し得たとする事を留保している。むしろ、ヒトとサルとは、起源が意外と遠いのではないかとの疑念を持ち始めてもいるのでる。
科学者であれば、事実の積み重ねによって真実に到達しようとするのであるが、筆者は科学者ではない。真実から事実の読み取り方を再構成し、新たな真実への道筋を明らかにしようとするものである。
通読して下さる読者は想定し難いので、結論を示しておきたい。
ヒトがサルと似ているのは、すべからく収斂進化によるものである。収斂進化とは、同じ環境に生息している系統の異なる動物が、環境に順応するために同じ形態を持つに到る進化の事である。
ヒトがトリであると規定した時に、直ちに起こる疑問については、本文の中で述べられるであろう。
そして本書の最終的な目的は、人類が己の自画像を間違って描き、それによって自らを反自然的な存在であると見なしている状況から、人類を解放する事である。人類が鳥類であれば、ヒトは自然との連続性を回復する事ができるからである。
本書の構成要素は、一つは「何故、人類は鳥類であると言えるのか」というものと、「何故、人類は鳥類でなければならないのか」という二つのものから成っている。これらが綯い交ぜに記述されることになるであろうが、おおよその構成として、この2章を立てる事とした。
第1章「何故、人類は鳥類であると言えるのか」(1)
何故私が、人類は鳥類であるという考えに到ったのか、それに「気付いた」のかを始めに記すのが順序であると思う。思い到ったその理由とは、我が国が誇る言語哲学者にして鳥を愛でる人、鈴木孝夫氏の著作の以下の部分を読んだ事にある。
「…数ある生物は、自種に固有な音(声)以外のいかなる音をも学習し、かつそれを再現する能力が、先天的にそなわっていないものと、他の生物の声や外界の様々な音を、後天的に学習し、かつそれを再現できる能力を生得的にもっているものの二つのグループに大別される、ということである。初めのグループに属する生物が、牛や馬、犬や猫を含むほとんどの哺乳類であり、同じく蛙の様な両棲類、蛇やトカゲの爬虫類、そして魚類などである。また虫の中にもセミやコオロギ、バッタなどのように、音(響)を発するものはたくさんいるが、これらも音を学習する能力をまったく持たないタイプの生物である。これに反して鳥類だけが人間とともに、音声学習の能力をもつ例外的な生物なのである。」(「教養としての言語学」岩波新書P.29)
鈴木氏はさらに、鳥と人間とで鳴き声、言語の習得過程が非常に似通っている事、ウグイスの鳴き方には方言があり、鳴き方の獲得は学習による事を記述されていた。
私はこれを読み、外見の似ている動物と、より中枢に近い部分が似ている動物とでは、どちらが近い種なのだろうか、という疑問を持つに到った。猿がどれだけ人間に似ているからと言っても、人間が猿の仲間であるとするのは、バイアスの掛かったものの見方、偏見の一種なのではないだろうか、と思い始めたのであった。そして程なく、人類は鳥類である、との見解を持つようになったのである。
早い段階でお断りしなければならない事は、このような見解を持つ者は、私が初めではない事である。博物学者 荒俣宏氏によると、16世紀フランスの博物学者 ピエール・ブロン氏は、鳥と人間の骨格を比較し、どの骨もそれぞれ長短の違いは有るが、起源が同じである事を明らかにし、人間は鳥の仲間であるとしたのであった。その為、教会から圧迫を受けたとの事ではあるが、鳥と人間の骨格が相同である、同じ起源を持つ事は、今では広く認められているのである。
鳥において人間の膝に見える部分は、人間と違い、前に折れ曲がる。これはただ見た目の違いであって、鳥の膝は人間の踵にあたるのである。人間からすると鳥は常につま先立てて歩いている事になり、鳥からすると人間は常に膝を突いて歩いている事になる。それ故、人間は休憩しながら歩いている事になるので、長距離を歩く事ができるのであろうが、無理な移動方法なので、脚を痛めやすいのだろう、と考えてみる事もできるのである。(「ピエール・ブロン」で検索し、骨格の比較図をご覧頂きたい。)
さて、人類が鳥類であると考えた場合に直ちに起こる最大の疑問は、鳥類は卵生であり、人類は胎生である、という点ではないだろうか。
これについては、まず次の点を確認する事から始めたい。
「鳥類はすべて卵を産む卵生だが、じつは脊椎動物の綱で、胎生の種が一種もいないのは、鳥類だけである。」(アラン・フェドゥシア著「鳥の起源と進化」P.22)
つまり、胎生の鳥類がいないという事実は、むしろ意外な事なのである。カモノハシのように卵生の哺乳類がいるように、胎生か卵生かの違いは、我々が感じている程には決定的なものではない。それよりも、魚類や爬虫類の卵生と、鳥類の卵生を同じものと考え、鳥類の進化の度合いが、魚類や爬虫類と同程度に考えてしまう事のほうが、よほど問題であろう。と言うのも、魚類や爬虫類の卵は、産み落とされたその場の環境下において孵化するが、鳥類の場合は長期間にわたって抱卵し、卵は親鳥の体温により暖められる事によって初めて孵化する事ができるのであって、これらは全く別物と捉える必要がある。
鳥類の抱卵には、親鳥達が高度な文化を維持している事が見て取れる。オスとメスとで役割分担を行い、しかもそれが確実に、かつ平穏に行われなければ、種の保存は叶わないのである。これは胎生よりも難しい事ではないだろうか。胎生であれば、卵を育てる事は一方的にメスの役割となるが、鳥類の卵生には、両性の協力が不可欠なのである。
であるから、鳥類の卵生は、進化の程度が低いものではなく、相当程度高いものであって、むしろ胎生から進化した事により、獲得されたのではないか、とさえ私には思われるのである。胎生であったものが、卵胎生、つまり卵が母体から栄養を受けず、独立しながらも体内で孵化する段階に移行し、その後、完全な卵生に移行した為、卵生でありながら温度の維持が必要になったのではないだろうか。
人類が鳥類であると主張している筆者からすると、人類だけが胎生のまま取り残され、その他すべての鳥類が卵生へと進化して行ったのである。
では何故、人類が胎生として取り残されたかと言えば、オス・メスの役割分担を平穏かつ確実に行う事ができなかったからであろう。簡単に言えば、人類のオス・メスは仲が悪く、夫婦喧嘩が絶えなかったので、卵生へ進化する糸口が掴めなかったのである。だとすれば夫婦喧嘩の起原は相当古く、数千万年は続いて来たのであるから、昨日今日、解決できないのは当たり前、と見る事もできるのである。
近頃は、男女共同参画社会、などという言葉が言われているが、胎生である間はメスに負担が偏る事は避けられない。今こそ人類は卵生へと進化して、男女平等の実現に向けて動き始めるべきときなのであろうが、やはり人類の本性からして、それは望めない事であろう。