アビダルマ哲学入門 阿毘達磨倶舎論入門 改訂版
序言
もちろん仏教哲学とは、いわゆる合理的な、、科学的な整合性や学問的な真実を追求するような種類の「哲学」ではない。
仏教の、、というか、、大乗仏教の仏教哲学とは、大乗の教えの擁護であり、弁護であるという大前提に立っているのであることは当然であろう。
そういう意味においては仏教哲学とは、即、神秘主義である。
唯識学も、中論による「空の哲学」もすべてそういう意味では
科学的な合理性とは隔絶した、、神秘主義であることをあらかじめ序言しておく次第である。
同様に小乗仏教の「アビダルマ」哲学も、まさに神秘主義であり、そこで論じられているのは科学的な真理の追求なんかではないのであることも、ご理解されたい。
あの精密無比な煩瑣哲学である、アビダルマ哲学にしてみてもその目指すところは
科学的真理ではなくして、あくまでも「サトリ」への階梯であることから見てもそれは明らかであろう。悟りへの階梯の論理付け?としてのアビダルマ哲学である。
世界の真理を論理的に、、科学的に解明しようとか、、そういう意図はない。
アビダルマ哲学とは、あくまでも、
サトリへの、、そのための、、論理付けとしての論理学、、それが真相である。
最終目標は、、「科学的真理」ではない。
最終目標は「サトリ」である。
アビダルマとは、AD300年ころ、シャカムニブッダの教え(ダルマ)を研究 (アビ)した仏教哲学の一派のことを言う。アビとは直訳すれば「対座」「向き合う」という意味である。
だからアビ・ダルマとはダルマ(法とか教説)に「対座する」、「研究する」という意味になる。
当時、各種のアビダルマ論書が専門の仏教哲学者たちによって作られたが、それらは今、あまり残っていないのが現状であり。
伝来した論書では「阿毘達磨大毘婆舎論」(アビダルママハービバーシャスートラ)が最大のものである。玄奘による漢訳200巻が知られている。ただこれはあまりにも大部でありこれを読みこなすのは至難の業なのでよりコンパクトな阿毘達磨倶舎論が研究対象とされてきた。
今、アビダルマと言えば、やはりバスバンドウの「倶舎論」が有名であろう、
そもそもこの論書は、バスバンドウがアビダルマ哲学を批判するために書いたものであり、
その批判の前提で詳しくアビダルマを解析しておるので、結果的にアビダルマ哲学自体を知るのに最良の論書となっているのである。
「アビダルマ・コーシャ」阿毘達磨倶舎論と言われる論書はアビダルマ哲学を総括してかつ批判した論書の代表作として知られている。「阿毘達磨倶舎論」という漢訳仏典で知られている。著者はヴァスバンドウ(世親)である。ちなみにバスバンドウ自身は批判的にアビダルマ哲学を総括しているのです。彼自身の立場は「唯識派」です。
一般に、アビダルマ哲学と言えば。煩瑣哲学ともいわれ、その研究態度は、まさに些末な論議とそのきりもない追及に終始するという、しかも独特の用語、専門語のオンパレードで、これはもうあの釈迦の、清新なサトリと求道の生活とは正反対の、僧院にこもって日夜、それだけを研究している専門僧の、独善?にすぎないのではないか、と言っても過言でないような、まさに煩瑣哲学の極みである。俗に「唯識3年、倶舎8年」ともいわれるように、アビダルマを理解するには学僧でも、8年もかかるのである。
さて仏教とは釈迦の教えであるが
そもそも釈迦牟尼ブッダの教説は、対話であり、それを伝承した弟子たちの言行録であり、釈迦自身ががまとまった仏教哲学の書物を書いたわけではない、というわけで原始仏教は断片的な教えの羅列にすぎないともいえるわけである、もしもそのままで、こうしたアビダルマ論書のように考察し、まとめ上げ論理的整合性を深く追求しなかったら、仏教はおそらく、論理的深みもなく、まあこういっては失礼ながら、そこらの、ありきたりの道徳論として。終わっていたのかもしれない。しかしこうした4世紀ころの仏教哲学者たちによって
釈迦の教え(ダルマ)の深い考察が行われた結果、仏教哲学としての壮大な体系が確立されて、哲学的裏づけとともに、論理学的にも体系化されたのである、
こうしたアビダルマのおかげでのちに、あの、竜樹の「中観派」世親の「瑜伽行唯識派」の道を開くものであったのである。
ただし今このアビダルマ哲学を読むと、そのあまりにも些末の煩瑣な論及に辟易することも事実である。阿毘達磨はまず存在する一切の分析から始めるからその煩瑣で空疎な論述にまずたじろぐことになるのである。
ちなみに倶舎論に沿ってみてゆきましょうか?
倶舎論概説 (ほんのサワリだけです)
まずは世界に存在する諸元の分類です。
色の分類 形の分類、音の分類、味の分類、香りの分類、触覚の分類、4元素の分類、
それらを統括する、5の群。12の門、18の類、5種のダルマ、
それが延々と、根掘り葉掘りと、こまごまと論及される。
もうここでお手上げ?ですよね?
次は心の諸作用にについての分類と考究です。
5種の心作用に分類。
それをさらに10のダルマの作用に敷衍する。
これも延々と細かく論及してゆくのです。
これはまさしく煩瑣な学者のための書斎仏教?僧院出家仏教哲学?ですよね?
無知無能な在家や庶民には全く無関係です。
有漏は有為であり、
無漏は無為である
五蘊は色,受、想、行、識である、
五蘊の依拠するのは十二処である、
十二処は十八界から成る。
十八界は五位から成る
六因は五果から成る
四縁は五果から成る
六因は四縁となる。
三業は五業となる
見所断は欲界・色界・無色界よりなる。
修所断も同様である。
業は身業・語業・意業の三業である。
有漏の業は異熟果を生じる。
無漏の業は涅槃に導く。
修所断の煩悩は、三界にあり、三界は、九地にある。
九地は八十一品にある。
その最上級地は、「非想非非想処地」である。
説一切有部の目指す最上級地はそこになる。
という風に最後はサトリに達して?終わりですが
こういう分析と論理追及でサトリの最上級地を目指すのがアビダルマ
説一切有部の仏教哲学の体系なのである。
ただもうお分かりのようにこの学派は論理のための論理であり、
形式的な体系のための体系であり、
こういっては失礼ながら。学者が世間の喧騒を離れて静かな山奥の僧院でひっそりと瞑想研究して論理をもてあそんでるだけ?なのである。
そこには世間にもまれて、現実に苦悩する生身の人間が欠落してるのである。
まあこういう煩瑣・分析的・形式的、なアビダルマ哲学への反動として、法華経のようなポエムな神話のようなドラマのような清新な、大乗仏典が生まれてきたともいえるわけである。
確かに、倶舎論と法華経は対極ですものね。
学者のための仏教。
出家したアラカンのための空疎な仏教論理、
結局そういわれても仕方がないような仏教学派なのである。
このアビダルマ学派から
やがてナーガルジュナの「空の哲学」が生まれ
そこからさらにバスバンドウの「唯識学派」が生まれる。
さらに、瑜伽行唯識学派に発展し、それは如来蔵学派に至る。
そういう地盤からこうした学問的な専門的すぎる仏教への反発とアウフヘーベン作用で
大乗仏教の経典が次々と生み出されてゆくのである。
先にも述べたようにこうした高度な専門性に彩られた仏教形而上学の論書についていけない凡夫は
もっとポエムな
もっと神話な
もっとハートツウハートな
心にグッとくるような仏教を求めたのである。
それが「大乗仏教経典」なのである。
つまりあのあまりにもまるでドラマのような「法華経」であり
荘厳なサトリの、階梯を詩的に描き切った「華厳経」であり。
浄土世界の至福境を描いて見せた「浄土経」なのである・