第77話 最初にして最後の敵
第77話 最初にして最後の敵
井伊どんの「ぞんび」が、揚弘はこのまま置いておけば「ねお薩摩」に戻れると言った。
俺はちょっと待ってと言って、刀を鞘に納めて眠る揚弘の胸に置き、
手を取って重ねて抱かせた。
「…ごめん、揚弘。おいもう行かんと」
とても静かな気持ちだった。
もう何も思うことはなかった。
全ての感情が死んだように静まり、冷めていた。
人が死にに行く時、心が先に死んでいるのだ。
骨髄採取の麻酔の直前もそうだった。
あの雨の夜、美濃の川に入る時もそうだった。
関ヶ原からの退却の途中で、追って来る敵の前に立ちはだかった時もそうだった。
取り引きが成功するとは限らない。
天界は俺を捕まえたのをいい事に、減刑には応じないかも知れない。
流罪ではなく地獄へ送られて、もう「ねお薩摩」へは戻って来れないかも知れない。
だって、天界へ行くと言うことはそういう事なのだから。
それでも俺は行く、決着をつけに行く。
俺自身の心に決着をつけに行く。
…全ては俺が「ねお薩摩」のフライド丸であるために。
「フライド丸こと本名、島津豊久。
全界脱走罪、歴史改竄罪、公務執行妨害、ならびに余罪3件にて、
そなたを現行犯逮捕する…」
井伊どんの「ぞんび」は静かな声で、俺に引導を渡した。
俺は頭を少し垂れ、そっと目を閉じた。
「…はい」
両手首には金属製の小さな手枷がはめられ、腰には縄が巻かれ、
俺は井伊どんの「ぞんび」に導かれるまま、天国の扉をくぐり、
長く続く白い階段を登って、天界へと出た。
天界にも夜はあり、白い花畑は青く染まり誰もいなかった。
「…司法取引とはよく考えたな、フライド丸」
先を歩く井伊どんの「ぞんび」がため息をついて感心した。
「え…」
「少しでも縁のあった者の魂を天界へ導くのも辛いもんだ、
…俺は井伊直政、いい奴だからな。
でもそれが俺の目指す死神の仕事なのだ」
井伊どんの「ぞんび」はそう言うと、振り返って笑った。
真っ直ぐに口を結ぶその顔も、月明かりに青く青く染まっていて奇麗だった。
「して、お前は一体どこの誰なんだ? 取り調べはまずそこから始まる事になる。
島津豊久でないと言い張るなら何なのだ、どこの者だ、元の名前は何と言う。
そういや山道のあの戦場に、いるべき者がおらず、いないはずの者がいたぞ?
どこの誰かなあ? なあ、島津豊久?」
井伊どんの「ぞんび」は笑いながら、いたずらを仕掛けるように言った。
…さすがに気付いていたか。
「豊久やらそげんショボか名ば呼ぶな、人ん名前ば勝手に変えっな、
妹ん婚儀んためん急ごしらえん名呼ぶな、たった半年あまりぞ、
急に名前ば変えられて馴染む訳なかろうもん、そげんショボか名…」
井伊どんの「ぞんび」の背中に言いながら、涙がこぼれて来た。
涙は悲しかった過去として頬を伝って離れ、
夜風に流れて、群青の夜の彼方へと消えていく。
俺は涙の行き先を向いた。
「島津又七郎忠豊、島津家ん家臣…おいが最初に殺した人。
おいが人生ん最初に覚えた事は、自分自身ば殺す事、
おいがおいであっために、全てはおいが心んために…!」
俺はこれからも殺し続ける。
子安どんはいつか思い出になれば、昔話になればそれでいいと言うけれど、
俺はそうは思わない。
俺の心の安寧は自分自身を完全に殺し切った時だと、俺はそう思うから。
敵は島津豊久、そしてその向こうにいる島津忠豊。
最初にして最後の敵。
井伊どんの「ぞんび」は白い花畑の向こうにある、
白い、窓に格子窓のついた建物へと俺を連行した。
「悪いがお前も一応罪人だ、我慢してくれ」
彼は玄関で手続きを済ませた。
受付の係員は俺の氏名を「島津豊久」と帳面に記入した。
…くそ、俺はフライド丸じゃ。
これは「げーむ」で言う「らすぼす戦」の始まりか。
俺の戦は今ここから始まるのだ、悪いけど死んでくれ豊久。
俺はお前を殺して、「ねお薩摩」へ帰るのだ。
看守も奥から出てきて合流し、その先へと進んだ。
そこは先が見えないほどの長い廊下になっており、
両側にはたくさんの細い、今様の扉がずらりと規則正しく並んでいた。
建物の中も調度も外と同じように真っ白に統一されてあり、
待ち合いこそないけれど、まるで「ねお薩摩」の病院みたいだなと思った。
病院は生と死が交差する場所、死ぬ者もあれば生きる者もある。
井伊どんの「ぞんび」はそこで死者の魂を新しい仏様として迎え、
子安どんもそこで俺の骨髄を得て、命を取り留めた。
生と死の狭間を漂う俺もまた、この病院へと収容される患者なのだ。
俺はたくさんある細長い今様の扉のひとつの中へ入れられ、
外から施錠されて閉じ込められた。
扉の内側は畳で数えると3帖ほどの小さな部屋で、部屋の隅には便器があり、
別の隅には一組の寝具が畳んで置かれてあった。
俺は夜間に収容されたから、朝まで寝ていても良いと言われた。
そうしてふとんを敷いていると、鍵が開けられて数人の係員が入って来た。
係員は医師とその助手、それに見張りの看守だった。
俺の傷をとりあえずの応急処置に来たようだった。
大きい傷口は縫われ、小さい傷には薬をつけてくれた。
彼らが帰ると部屋の灯りは消され、俺は横になった。
島津の大きいのがかけてくれた魔法がまだ効いている、ちっとも眠れやしない。
本当にすごい魔法なのだな、「ねお薩摩」の魔法ってのは。
どんなにどんなに眠ろうとしても、眠れやしなかった。
島津の霊たちが銃を手に、囚われた俺の許へと駆けて集まって来るのではないか、
俺を殺しに、復讐をしにやって来るのではないか、そんな気がして。
取り調べは朝一番に始められた。
係員は俺を逮捕した井伊どんの「ぞんび」を主とし、
日本語を理解する者として、井伊どんの「ぞんび」の同僚の福島どん、
福島どんの交代要員として本多どん、書記官として松平どんの4人だった。
いずれも井伊どんと同じ「ぞんび」だ。
昼めし時、初めて福島どんがやって来た時、俺は「かつ丼」なる、
どんぶり飯の上に肉の揚げ物の卵とじが乗った、
井伊どんの「ぞんび」が「定番だぞ」と、一押しの弁当を口から盛大に吹き出してしまった。
ふとんの中に島津の霊たちは来なかったけれど、
代わりに東軍のやつらの霊がほぼ揃ってしまったのだった。
彼らも天界でお役目に志願したのだとか。
「『フライド丸』て何? 変な名前だな」
「『フレイドマル』の間違いじゃね? ほら、上層部のオーディンさんに嫌がらせした」
「なんでそのフレイドマルが島津豊久って事になってんだ? なんか違くね?
あいつこんな若えヤクザじゃねえだろ、三十路過ぎの結構なおっさんだったはずだ」
係員全員が揃うと、みんなで俺を取り囲んで物珍しそうに見た。
死んで戦から逃げ仰せたはずが、まさか天界で東軍のやつらに囲まれるとは。
でも彼らは俺をフライド丸として見てくれている。
どういう事だ、俺は島津豊久としてここに収容された。
彼らは俺の何もかもを知っているはずなのに。
井伊どんの「ぞんび」は言った。
「司法取引を成立させるには、お前に有利に成立させるには、
司法と戦って勝ち取らねばならぬ、もちろん検察も力になってくれるとは思うが…。
お前が罪を認めて捜査に協力する限り、俺は、死神課新仏送迎1係の者らは、
お前のために力を尽くす、それが俺ら死神課の職務だ。
…そして、俺は井伊直政、いい奴だからな」
「俺は井伊直政、いい奴」…俺の「おいはフライド丸」みたいなもんか。
井伊どんの「ぞんび」もまた、自分にそう言い聞かせているのだろう。
職務と良心の狭間で、人知れず自分自身と戦い続けているのだ。
俺と同じなのだ。
俺はそんな彼がとても好きになった。




