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第4話 幸せの国

第4話 幸せの国


俺の疑問に子安どんは一瞬目を丸くした。

でもすぐに目を細めた。


「ここはおとぎの国じゃ、お前のいた美濃ではない。

追っ手も落ち武者狩りもいない、安心しろ」


俺はほっとして、子安どんの膝に頭を埋めてまた泣いた。

彼女は折り重なるようにして俺の背中を抱いてくれた。

隼人の女は春の花束の髄をそのまま焚いたような甘い、温かな匂いがする。

武家の女人たちの調合が決まりきった焚き物とは違う。

…命を感じる、生きた女の匂いがする。


それから子安どんに風呂とその隣室の便所の使い方を教わり、久しぶりの風呂に入った。

その間に彼女は俺の肌着を用意すると言って、家を出て行った。

彼女が戻るまで、半刻以上もゆっくりゆっくりと湯に漬かっていた。

そんな子安どんの用意してくれた肌着も着物も、やはり「ねお薩摩」風の変な形だったが、

着付けるのは至極簡単で、助けも要らず自分ひとりで全てを済ませる事ができた。

「ねお薩摩」の着物は身体に合わせて生地を裁断してあるので、

美濃から着て来た寝間着よりはるかに動きやすくて驚くほどだった。


「今夜は私が食事を作ってやる、明日からはお前の仕事になるぞ。

教えるからよく見ておけ」

「飯炊きなんて女子供ん仕事じゃっどね」

「ここでは家の事も自分でこなせる男が男らしいとされている」

「ふうん? なんか戦場の兵士みたいじゃっどな。

戦場では男でん自分の事は何でん自分で出来んと言うと」

「そうだな、何よりも自分のためだな」


子安どんは簡単なものからと、狭い台所の火が出て来る不思議な台で鍋にお湯を沸かし、

その間に獣の肉や野菜を切り、それを煮込んだら汁に味を付け、

四角の透明な袋にぴちりと詰められたうどん玉を、

冷気の湧いて出る戸棚から出して汁に入れて、麺をほぐした。

そうして出来上がった料理を器に盛り、調理台の後ろにある食卓に乗せた。

二人で向かい合って手を合わせて、「いただきます」を言って食べ始める。


「旨か!」

「そうか」

「旨か、まこち旨か…!」


俺はまた泣きそうになりながら、子安どんの作ってくれたうどんをすすった。

子安どんはそんな俺の姿に驚き、一瞬頬を染めて、そして笑顔になった。

結構いい歳なはずなのに、なんだか乙女子みたいで可愛らしい。


「泣きそうなほど旨いか。それは光栄だな、嬉しい。

料理を作る喜びってやっぱそれに尽きるよな」

「なんや思い差しみたいじゃっどな、出陣前に家ん者とようやったど。

酒と料理ん違いこそあってん、心と心んやりとりっちゅうとこはおんなじやあ」


料理なんて女子供のする、小さく取るに足りない仕事だと思っていた。

座って待っていれば自然と出て来るものだと思っていた。

でも女子供はこんな小さな仕事にも、どうしたら相手が喜んでくれるか、

相手を思う心を持っていたのだ。

それは結構すごい仕事なのかも知れない。


「なあ子安どん、もっと料理教せてくいやんせ」

「明日からな」

「もっといろいろ作れっようになりたか、旨いもんば作れっようになりたか。

ほんでな、子安どん泣かしちゃる…旨か旨か言わして泣かしちゃる。

おい、こんうどんの事忘れんとね。子安どんのくれた心、嬉しか思もから」

「さあな、いつになる事やら」


食事の後は子安どんに教えてもらいながら後片付けをして、

彼女はアシスタントと言う助手たちの寝る部屋に、俺の寝床を用意してくれ、

そして着替えを抱えて湯殿に風呂を使いに行った。

湯殿から彼女の歌う声がする。

こんなに平和な夜は初めてだった。

もしも望んでも良いのならば、俺はこんな夜に永遠を望みたい。



「起きろフライド丸」


目が覚めると、枕元に寝起きの女が立っていた。

子安どんだ。

ほどいた髪はいよいよ長く、ゆるく波打っていて、ますます隼人の女らしい。


「あ…ここは? そうか、『ねお薩摩』じゃっどか」

「いつまで寝ている、買い物に行くぞ」


子安どんはそう言うと、ふとんをがばりとめくった。

俺は慌ててふとんを取り返してまたそれをかぶった。

朝立ちで膨れた股間を見られたくない。


「起きろ」

「あかん」


俺たちはふとんの取り合いになった。

ふとんを引っ張り合っているうち、俺が力を込めて引っ張ると、

子安どんも引っ張られて、俺の胸に倒れ込んだ。

顔が近くて、彼女はぷいとそっぽを向いて身体を起こした。

あ、今赤くなった?

俺は笑って腕を伸ばし、彼女を抱き倒した。


びいどろの嵌った窓から燦々と差し込む日の光を浴びながら、

胸に俯せる彼女の耳に触れて、髪の中に指を入れる。

心が温かい気持ちで満たされていく…。

なんだかそれをとても大事にしたくて、俺は心を忍んだ。

なんと幸せな朝なのだろう、「ねお薩摩」という国はなんと幸せな国なのだろう。

俺の見たあの薩摩とはずいぶん違う。


薩摩は貧しい国だった。

火山灰のせいで土地は痩せて、ろくな作物は育たず、

そのくせ年貢は重く、わずかな収穫を容赦なく絞り取られてしまう。

また薩摩という国は基本的に武士が多過ぎて、いくら農民から年貢を絞り取っても、

全く武士らにも行き渡らず、武士たちまで貧しい始末だった。

薩摩のどこへ行っても、不毛の地と掘建て小屋だらけの光景しかなかった。

島津の城だけが唯一豊かに見えるが、家中の財政も潤っているとは言い難い。

公表される石高など粉飾の極みだ。



「米の炊き方を教える」


俺はふとんから台所へと無理矢理連れ出された。

子安どんは変わったおひつを使っている。

彼女が言うには、このおひつで米を炊き、保温まで出来るのだそうな。

彼女は最初にまず軽く米表面の汚れを落として、と言って米を研ぐと、

それをおひつの中に格納されてある釜に入れて水を張った。

目を凝らすと釜の内側には「白米」やら、「おこわ」などの印がついた目盛りが刻まれてある。


「米は2合」

「2きっちりやなかとね?」

「きっちりだと柔らか過ぎる。春までは新米の扱いだから、水を少し少なめにと…」


子安どんが水を張ったのは2合の目盛りより少し、伸びた爪の先ほど少なかった。

釜に火を入れると、子安どんは鶏卵を冷気の湧き出す戸棚から取り出した。


「卵! 朝から豪儀じゃっどなあ」

「ここでは卵は安価な食材だ」


卵くらいは俺でも割れる。

子安どんが卵を巻くのは苦手だと言って、油をひいた深みのある柄付きの四角い鉄板に、

砂糖で味付けした溶き卵を流し入れると、箸でかき混ぜ、底がわずかに見えるくらいに固め、

それを三つ折りにして、表面に焼き色を付けた。

俺も真似して卵を焼いてみたが、あまり見えないので上手くいかず、

ぐちゃぐちゃに出来上がってしまった。


ごはんはあり得ない速さで炊きあがり、卵焼きとちりめんじゃことみそ汁で朝食とした。

手を合わせて「いただきます」を言い、食べようとすると、

子安どんはいきなり俺のぐちゃぐちゃな卵の皿を取り上げた。


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