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第1話 薩摩の森

第1話 薩摩の森


背後を家臣らや村人らの声が灯りと共に通り過ぎてゆく。


「殿! どちらにおいでですか!」

「殿!」


俺は寝間着に裸足のまま、土砂降りの雨に濡れそぼり、

木立の中の太い木の幹の裏に隠れて、彼らの声を聞きながら涙した。


「すまぬ…皆の者、すまない…!」



…たくさんの槍の刃の重なる音が今でも耳にこびりついて離れない。

仕えていた殿が肥満のあまり、山を越えられないと言うので、

軍は囮を立てて別の道を進む事になってしまった。

大体、殿は戦でも提案を却下されへそを曲げ、全く何もしないなどどうしようもない。

退却も当然見苦しい事この上ない物となった。

囮の家臣らを捨て置いて、自分はその隙にこっそり敵陣を迂回するなど、

勇猛どころか武士の誇りなど微塵も感じられない。


俺たちの小隊もそんな捨て置かれた隊のひとつだった。

あんな殿でも領地に帰さなければ、家臣の俺たちが笑われてしまう。

殿が頼んでも、その嫡男が援軍を出してくれなかったので、

とりあえずここは俺がとは言って、敵の前に立ちはだかったものの、

ほんのささやかな小隊ごときが多勢をまともに相手できる訳はなく、

俺たちはほとんどの仲間を失ってしまった。


俺はなんとか敵の重なる槍を抜けて生き延びたものの、無傷では済まず、

身体のあちこちに深い傷を負い、目も見えなくなってしまった。

同じく生き延びた仲間が俺を近くの村まで運んでくれたはいいが、

敗戦の隊をかくまってくれるはずなどなかった。

俺を背負った仲間は傷ついた身体であちこちの村を回って、

ようやく俺たちをかくまってくれるところを見つけてくれた。


俺たち小隊はその村の庄屋の離れに置いてもらえる事になった。

俺と家臣らをかくまってくれた村人たちはとても親切だった。

薬をつけて傷の手当をしてくれ、温かい寝床を提供してくれ、

清潔な衣類を用意してくれ、滋味溢れる食事を食べさせてくれた。

その上、庄屋は自分の娘を俺の側にと差し出してくれた。

村人たちは総出で俺たちの面倒を熱心に見てくれたのだった。


彼らの手厚い、献身的な看護は日増しに俺を苦しめた。

敗走の兵をかくまう事は罪に値する。

俺は看護を受けながら、いつそれが勝利軍に露見するか肝を冷やしていた。

そうこうしているうちに傷がだんだんと癒えだして、

見えなかった目もぼんやりながら見えるようになって来た。


俺は周りに人の少なくなる時を待って動いた。

もうこれ以上あの優しい村人たちを危険に晒す訳にはいかない。

そして故郷の家からずっと俺に付いて来てくれた、

自分の家臣たちの命もこれ以上無駄には出来ない。

もう誰も死んで欲しくはない。

俺は寝床を出て厠へ行くふりをして、庭から庄屋の家をそっと抜け出した。

外は土砂降りの雨模様だった。

俺は道を外れて夜の山中に分け入り、手探りで進んで行った。

俺は自分の死に場所を求めていた。


俺は夜を行く。

雨に濡れて見えぬ前を感触だけを灯りとし、

草の葉で切り傷を作りながら、石ころや木の根につまづき転びながら。

途中で木の太い幹の裏に隠れて、俺を必死で探す村人らや家臣らを、

泣いて詫びながらやり過ごして。


しばらく彷徨い歩いていると、水の音が聞こえて来て、俺は川に出た。

俺は何もためらう事なく黒い水の中へと入って行った。

冬も近い晩秋の夜更けはいよいよ冷え込んで、水は冷たく傷口に染みた。

腰まで漬かったところで淵に踏み込んだらしく、俺は川底に引きずり込まれた。

水を飲んで遠ざかってゆく意識の中、俺は家臣として大した働きもない雑魚の上、

何ら教養もない、我ながら惜しくない身であった事よのとつくづく思った。

そして、村人たちは罪に問われないだろうか、

家臣たちもどうか落ち延びて無事であって欲しい、

殿はあの後無事に領地へ戻っただろうか。

でも山道を越えられぬほどの肥満体だ、落ち武者狩りにでも遭ってしまっただろうか。


俺たちは大坂を目指していた。

大坂までたどり着く事さえ出来れば、そこからは船がたくさん出ている。

それに大坂には味方もいる。

大坂は殿の一族の故郷であり、俺たち家臣を含めた全員の夢でもあった。

俺たちは大坂を、一族の故郷を求めて戦っていたのだった。



…水の暖かさを感じて目を覚ました。

どれだけ流されたのだろう、もう夜が明けて昼近いらしい。

水面から顔を出してみると、湾の外側、沖の方向に山のようなものがぼんやりと見える。

山の頂には白い噴煙が雲になって流れている。

あれは桜島か。

どうやら俺は薩摩まで流されたらしい、なんという不思議な事よ。

雨と共に狐が現れたか。

しかも死ぬ事は叶わなかった。

武士のくせに肥えて山越えも出来ぬ殿より恥ずかしい。


俺は泳いで湾の内側を目指した。

桜島とは反対側には薩摩の中心となる城下町があるはずだ。

時折用事で薩摩へ行くこともあったが、ずいぶん町並みも変わったもんだ。

薩摩と言う国はいつからこんなにも鬱陶しい、森のような国になったのだろうか。

薩摩の森は一体いつから、こんなにも冷たい灰色の森になったのだろう。


泳いでやっとの事で接岸したものの、岸壁は石で垂直に覆われてあり、

どうにもこうにも上る事が出来ず、遠回りしてやっと段差を見つけてそこから上陸した。

そこはどこかの家の庭らしく、奇麗に刈り込まれた芝に、整備された小道があり、

見た事もないような美しい花があちこちに植えられてあった。

そして、庭の向こうには角ばった石造りの建物が林立していた。

灰色の森はこの建物で構成されているようだった。


視力が半分もない目ではぼんやりとしか見えないが、

俺は薩摩という国の変わり様に驚愕した。

この町並みはとても薩摩とは思えない。

しかし錦江湾に桜島が浮かんでいる以上、ここはやはり薩摩の国なのだ。

俺は見知った者のあるこの薩摩に、しかも生きてたどり着いてしまったのだ。

武士として何と恥ずかしい事なのだろう。

その上、刀は庄屋の家に置いて来てしまった。

これでは死のうにも死ねない。

俺は美しく整った芝に伏せて泣いた。


すると、突き出した尻をぱかんと蹴り上げる者があった。

馬だろうか。

俺は顔を上げた。


「邪魔だ、道を塞ぐな」


そこには涙を流す女が仁王立ちしていた。

変わったなりをしている、おなごのくせに細身の袴らしきものを穿いており、

草履も黒い革で出来た公家の沓のようなものを履いている。

着物も南蛮人のような白い綿の変わった形をしているし、

羽織も黄味を帯びた灰色のもので、留め具が二列に付いている。

白拍子とはかなり趣きが異なる、おなごの武将なのだろうか。

そして彼女は俺の尻をまた、ぱかんぱかんと何度も蹴り上げた。


「痛いではないか! 何をする!」

「貴様こそ私の道を塞ぐなと言っておろう、邪魔だどけ!」


女は手の甲で涙を拭いながら、俺の尻を何度も何度も執拗に蹴り続ける。

しまいには蹴り飛ばされてしまい、俺は芝に頬を埋めてしまった。

俺は起き上がり、芝の上にあぐらをかいた。

女のせいで涙も止まってしまった。


「…まったく、馬のようなおなごじゃ。一体何を泣いている?」


彼女は振り返った。

俺は初めて女の顔を近くでちゃんと見た。

やはりここは薩摩なのだと思い知らされた。

三十路入り立ての俺より少し年上だろうか。

彼女は女とは思えぬほど背が高かった。

そして色こそ白いが、その顔は目鼻立ちがくっきりとしており、

束ねた腰まである長い髪は少し縮れていた。

彼女は隼人族の女だった。


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