夢屋 ~虹の作り方~
サクッと読める恋愛小説を目指して書いてみました。
楽しんで頂けると幸いです。
1.
リュウは、傘を忘れない。
時間、場所、その日の天気予報に関係なく。
一応晴れと予報された日は折りたたみ傘にするが、それも降水確率が10%以下の場合のみと決めてある。
普段は24本骨のグレーの傘を持ち歩いている。強い風に煽られても壊れにくいように、少しでも雨に濡れないように、骨が多く多少値の張る傘を選んだ。
人からよくなぜいつも傘を持ち歩くのか尋ねられるが、その都度答えつつもリュウは質問してくる者の気持ちが理解できず辟易していた。
いざという時の武器にでもするように見えるのか。或いはゴルフの練習用に持ち歩いているとでも思っているのか?
傘を持ち歩くのに、雨に濡れたくないからという理由以外あろうはずがない。
余程の変人でもない限り。
リュウは、異性に不自由しない。
悪くは無いが、特別良い作りの顔をしているわけではない。
名門格律大学をかなりの成績で卒業し、業界最大手の七海中央信託銀行、その調査部で辣腕を振るう能力の高さとそれを自分からは決してアピールしない謙虚さ、あまり余計な事を話そうとしない寡黙さ、さりげない気配りと優しさ。
全てが彼の女性からの評価を底上げしていた。
そしてリュウはそれら全てを完全に理解している。
なぜ自分がモテるのか知っており、狙って行動している自覚があった。
女はバカだ。金と優しさをちらつかせればいくらでも股を開く。
いや、女だけではない。この世の人間はみな数字に支配されて生きている。
偏差値も収入も髪の毛の本数も付き合ってきた女の数も、多ければ多い程評価される。
どいつもこいつも本質が見えていないバカばかり。
それがリュウの底にある暗い本音だった。
金曜日の仕事が終わると、リュウはマイに連絡を入れる。
マイとは付き合い始めて4年程になる。ここ1年は週末にマイの家に泊る事が増えていたが、それも最近は回数が減りつつあった。
常に複数の女性と付き合っていたリュウにとって4年も続いた相手は今までいなかったが、やはり長くは続かなかった。
「もしもし。ああ、いや、ごめんな、どうしても明日中にまとめなきゃならない資料があるから今週も家に帰ることにするよ」
携帯電話の向こうで声が沈むのが分かる。
「また埋め合わせはするから。分かってくれるよな。うん。じゃあ」
どうせ了解するのなら悲しそうな声など出さなければよい。
つくづく女は感情でしか生きられない生き物だ。美人で意思が強いのは買いだが、結局あいつもうざったさは他の女と大して変わらない。どうせ俺のステータスが目当てなんだし、別れようと言ってるわけでもないのだから、黙って愛想良く言う事を聞いていればいいのに。
心の中でひとりごちた後、そのまま携帯電話のアドレス帳を漁る。
むしゃくしゃする。こんな日の相手はレナに限る。こいつは見た目だけが派手で中身の薄い女だ。ワインの一本でも持っていけば笑顔で俺を家に上げるだろう。確かコンドリューが好みとか言っていたか。どうせ味の違いも分からないくせに。
リュウは、決して心を開かない。
この世の人間はみな数字に支配されて生きている。ならば理論で全てを操る事も可能だろう。人の心ですらも。
自分の歪みを認識してはいたが、それをどうこうするつもりはなかった。
社会そのものが人間の欲望で大きく歪んているのだから、自分一人の心の歪みなど、どれほどの事があろう。
レナへの連絡が済むと、リュウはタクシーを止めた。
運転手に行き先を告げると音も無く滑り出す景色に、乾いた傘を握る左手が力を込める。
やがてリュウを乗せた車の灯りは、街の夜に静かに溶け込んでいった。
2.
マイは、理解できない。
自分自身の気持ちも、恋人であるリュウの気持ちも。
直接言葉にしてぶつけた事は無かったが、マイはリュウの悪癖を知っていた。
お節介な友人達がこまめに報告をくれるからである。
友人たちは口を揃えてあんな男とは縁を切った方が良いと言う。
マイ自身も頭ではそう思っていたが、心がついてこない。
気持ちというのは厄介なものだ。マイはつくづくそう感じている。
明らかに自分のものなのにちっとも思い通りに動いてくれない。
まるで出来そこないの犬を飼っているようだ。
ところ構わず排泄物をまきちらし、気に入らなければ噛みつこうとする。
リュウとの別れを勧められる度にマイは思う。
人が恋愛感情を完全にコントロールできたなら、この世の争いの2/3程は消え去るのではないかと。
つい先ほどリュウから連絡があった。
先週の資料はできあがったので、今日の夜は仕事が終わり次第マイの部屋に向かうとのことだった。
嬉しさ半分、憂うつ半分の心持ちだった。
リュウが来る日には必ず夕食を用意しているが、食事中はほぼ無言で、眠る時も同じベッドではあるもののここ数ヶ月体を重ねた記憶が無い。
リュウは土日も休みのはずだが、日曜日までいることは稀で、必要最低限の買い物以外二人で出掛けることもほとんど無かった。
一度結婚について話題をふってみたことがあったが、リュウは露骨に不快感を顕にし、そのまま自分の部屋に帰ってしまった。以来マイはリュウとの時間にこの単語を持ち出さないようにしている。
何のために付き合っているのかと聞かれれば、マイはただ離れられないからだと答えるだろう。
リュウの態度と、打ち込まれたまま錆びついた楔のようなリュウへの気持ちがマイの心を折れない程度の力でなぶり続けていた。
リビングに二人の咀嚼と食器に当たる箸の音、テレビからの笑い声だけが響く。
たまに開かれるリュウの口から出てくる言葉は、明日の天気とマイの部屋に買い置きしてある煙草の残りの確認位だった。
食事が終わるとシャワーを浴び、リュウはすぐにベッドに潜り込んだ。
テレビはつまらなく特にやることも無いので寝るのが一番だとリュウは言う。
リュウが床についてから約1時間後、片付けとシャワーを済ませたマイがベッドに入った。
まだリュウが起きているかどうかは分からないが、話しかけても恐らく返事は帰ってこないだろう。
小さくため息をついてマイは目を閉じた。
どこからか微かに甘い香りが漂ってくる。
瞼の内側に奇妙に心地よい闇の塊が押し寄せてくるのを感じながら、マイはいつもより深い眠りに落ちていった。
リュウは、雨の音で目が覚めた。
音だけではない。顔も服も雨でずぶ濡れだった。
傘を差さなければ。いつも持ち歩いている傘を。しかしどこにも見当たらない。
肌身離さず持ち歩いているはずなのに。このままでは風邪をひいてしまう。
今まで見た事もない、しかしなぜか懐かさを感じる街だった。
手近な建物の軒に入り、傘を売っていそうな店を探したが、この街は建物は多い割にどの建物にも電気がついておらず、営業している様子が無い。
いや、建物だけでなく街灯も信号もただそこにあるだけで明りが灯っているものは一つも無い。街全体が薄暗く、冷たい。
途方に暮れていても仕方がないので歩きだそうとした時、雨音に混じって固い靴の音が聞こえた気がした。そちらに顔を向け目を凝らしてみる。どうやら人間の男のようだ。
スーツに皮靴、帽子で上品な格好だが、上から下まで全て白一色で揃えられており灰色一色の景色の中でまるでその男自身が発光しているように眩しく感じられた。リュウと同様に男もこの雨でずぶ濡れになっている。
しかし男の足音に急ぐ様子はかけらも感じられない。悠々としたリズムで、こつこつと足音がこちらに近づき、やがて同じ軒に入ってきた。
「やれやれ、降りますねぇ」
服の雨粒を払いながら、顔は雨を眺めたまま男がリュウに声をかけた。
「誰だ、あんた。……いや、それよりもここはどこなんだ?」
「分かりませんか?あなたの夢の中ですよ。と言っても、いつもの夢より少し深いかも知れない。ここのことを、ここで起こった出来事を、起きている時のあなたは認識することはない」
「どういう意味だ」
「簡単に言えば無意識ってやつの中ですよ。だからそれを知る事なんてできっこないんです。なんせ”無”意識なんですから」
そう言うと男はからからと笑った。そして初めてリュウに顔を向けた。
正面から見るとなかなか整った顔立ちをしているのが分かった。
上品に微笑んではいるが、何かが気に障る。
「あんた、なんか嫌な感じがする男だな」
「そうですか?一応客商売をやっておりますので、身だしなみも含め気をつけているつもりなのですが……ご忠告、ありがとうございました」
深々とリュウに頭を下げた後、男が続ける。
「そういえば自己紹介もまだでした。重ね重ねのご無礼、お詫び申し上げます」
そう言うと男は胸元から金の名刺入れを取り出し、一枚を抜き取ってリュウに渡した。
【夢屋三郎商店店主 笠井 三郎】
「カサイ、サブロウ」
「はい。屋号にも使っております下の名前でお呼び頂ければ幸いでございます。」
「ふーん」
「改めてよろしくお願い致します。オガタ リュウ様」
「俺の名前知ってるのか」
「サナミ様から色々とお伺い致しましたので」
「あんた、マイの知り合いなの?」
リュウの質問には答えず、サブロウは逆に質問を返した。
「なぜオガタ様はサナミ様にお辛く当られるのです?」
口元は微笑んでいるが目は全く笑っていない。
三郎の様子と思いもよらない質問にリュウはうろたえた。
「なんだよ、いきなり」
「一般的に見ればサナミ様のオガタ様への尽くしぶりはまさしく良妻そのもの。何がご不満なのですか?」
「良妻。その言葉がまず不満だね。そもそも俺らはまだ結婚していない」
「存じ上げております。例えでございますよ」
「あんたと違って俺にはすり寄って来る女なんていくらでもいるんだよ。前に結婚の話を持ち出してきた事があったが、あのバカは自分が特別だとでも思っているのかね」
サブロウの表情は変わらない。沈黙によってリュウの先を促す。
「女は男の収入が目当て。それは別に非難しない。大人しくこっちが求める時にやらせて、きちんと家政婦代わりをしていればな」
「これはまたはっきりと仰いますね」
リュウはそう言われて自分自身に小さな違和感を感じた。普段であれば思っても言わないことを、この男の前では平気で口にしている。
大嫌いな雨に濡れているせいなのだろうか。
「まぁ、よく分かりました。今日はこの辺りで退散させて頂きましょう。この雨には止む気配がありませんが、オガタ様はもうしばらくここで雨宿りをされていてはいかがでしょうか。では、失礼いたします」
現れた時と同じ足取りで三郎は去っていった。
その後ろ姿を見送りながら、リュウは意識が遠ざかっていくのを感じた。
遠くで水の音が聞こえる。リュウは目覚めた。
カーテンの隙間から細いが強い光が入ってきている。時計を見ると11時を回っていた。昨日は早くベッドに入った覚えがあるが、随分長く眠っていたようだ。
同じような目覚めをごく最近体験した気がするが、思い出せない。
隣を見ると一緒に寝ていたはずのマイがいなかった。
水の音は洗面所の方から聞こえる。マイが顔を洗っているのかも知れない。
リュウは目をこすりながらベッドを起き出し、洗面所のドアを開けた。
「おはよう」
声に気付いたマイが顔を上げる。鏡越しにすっぴんのマイと目があった。
「おはよう、よく寝てたね」
「どうしたの、その目」
「分かんない。朝起きたら腫れてたから顔洗ってたの。痛くはないんだけど」
「そう」
そのままリュウはトイレに行った。用を足しながら、あれは絶対に激しく泣いた跡だと考えたが、マイの声色にはそれを感じさせる様子はなく、本人も本当に不思議そうにしていた。
昨日の夜、自分達に何か起こっていたのだろうか。思い出せない夢と、マイの涙の跡。
しばらく努力を続けたが記憶の底から這い出てくる気配は全く無く、やがてリュウは考えるのを止めた。
マイが二人分の朝食を用意しているのを確信しながら、リュウは着替えを始めた。
「朝ご飯は」
「いらない」
言葉を遮りながらマイの顔をちらりと横目でだけ見て、リュウは部屋を出た。
日差しが目に染みる。手のひらでひさしを作りながら車に向かう。
今日は一人で居よう。そういう気分だった。
3.
朝のラッシュなど遠い過去の出来事のように、平日昼間の地下鉄はゆったりとしていた。
支店に向かう為に電車に乗り込んだリュウは、空いている座席には座らず吊り皮につかまったまま考えていた。
この間マイの家に泊った時に見た夢を、必死に思いだそうとしていた。
変わった夢を見たという印象だけが強烈に残っている。しかも余り気持ちのいい内容ではなかった気もする。
しかし具体的な事は何一つ思い出せない。そもそも今まで忘れた夢を思い出せた事はあっただろうか。
半ば諦めかけていた頃、リュウの携帯電話がメールを受信した。マイからだった。
今夜仕事が終わってからで良いのでどこかで会えないか、大切な話なのでできれば用があってもこちらを優先して欲しいという内容のメールだった。
リュウは手帳を取りだすと予定を確認し、20時にサザンテラスのカフェで待っていると返した。
何を話すつもりかは分からないが、それが例えどのような内容であっても自分には喜ばしくないのだろう。
ため息を一つつくとリュウは座席の端にもたれかかり、目を閉じた。
注文したコーヒーを受け取ると、20時丁度にリュウは窓際の席に座った。
店内を見渡すがマイはまだ来ていないようだ。
カバンから文庫本を取り出して栞が挟んであるページを開ける。
マイから勧められた恋愛小説で、失恋した女性が一人で観覧車に乗った事がきっかけで新しい一歩を踏み出す話だった。
安っぽい物語だと感じたが、読み始めた手前とりあえず読破だけはしようと思っていた。
数ページめくったところで、リュウの隣の席に見覚えのあるカバンが置かれた。
「遅れちゃってごめん」
急いで来たのか少し息ががあがっている。
そのままカバンから財布だけを取り出すと、マイは飲み物を注文する為にカウンターに向かった。
一分もしないうちに紅茶のカップを持ったマイがリュウの隣に座った。
「仕事が長引いちゃって。ごめんね」
「いや、いいんだ。それより話ってのは」
「うん……」
そのままマイは黙り込んでしまった。重苦しい空気が二人の空間を支配する。
二人のカップから上がる湯気以外、動いているものはないのではないかと感じられた。
「話さないなら帰るぞ。明日も早いんだ」
呆れたように促すリュウにマイが口を開いた。
「私以外の女の人と会うのを止めて欲しいの」
リュウは動揺がほとんど無い事に自分自身で驚いていた。
女の代わりは幾らでもいるという自信からか、もしくはマイは恐らく感付いているだろうという予想はしていたからか。リュウ本人も理由は分からなかった。
「会ってないよ」
「会ってるよ。友達が何人も歌舞伎町であなたの事見たって言ってた。女の人と一緒に歩いて立って」
「見間違いじゃないの?大体、俺よりその友達の言う事信じるんだ?」
「……私も見たの」
マイが見たと言っているものに当たる可能性がある記憶を掘り起こす為、、一瞬黙ったリュウにマイが続ける。
「新宿駅の西口で知らない人と腕組んで歩いてた。ショックで何も言えずにそのまま帰ったんだ」
リュウは心当たりが多すぎて答える事ができない。
「前からなんとなく感じてたけど、自分で見ちゃったらもう耐えられないよ。私の事を彼女だと思ってるなら、ああいう事はもう止めて」
「単なる友達だよ」
「単なる友達とキスまでする?」
「キスなんて見間違いだよ。腕組むのだってボディタッチの延長みたいなもんだ。最近そういう子多いよ」
「私ははっきりと見たよ。それ以上は見ていられなくて帰ったけど、あの後あなた達どこに行ったの?」
「いちいち覚えてるかよ。うるさいな」
リュウは取り繕おうとする気持ちがイラつきに変わっていくのを感じていた。
「私はあなたの彼女じゃないの?何が不満なの?喜んで欲しくて頑張っても、あなたはいつも冷たくて、素っ気なくて、これじゃなんの為に付き合ってるのか分からない」
マイの声が震えている。今まで必死に隠していた感情が少しずつ顔に、言葉に表れ始めている。
リュウの気持ちはそれに反比例するように急速に冷めていっていた。
「不満なら別れるしかないな」
「そんな簡単に……」
「簡単も何も、それしかないだろう。分かってんだろうけど俺には結婚する気は無いし、俺の彼女になりたいって子は他にもいるしな。俺がそういう事を止められないって言ったらマイは耐えられないんだろ?だったら別の男を探せば良い。利害が一致してるじゃないか」
リュウは一度決めたことは最後までやり切る意思の強さを持っていたが、それはそのまま頑固さにも繋がっていた。
一度態度を硬化させるともう変わらない。ましてや今回は話題が話題なだけに、もう元に戻ることは無いだろう。
マイはそれを覚悟してこの話し合いに臨んでいた。
「分かった」
消え入りそうな声でマイが答えた。
「理解が早くて助かるよ。荷物は週末にでも取りに行くから」
リュウは表情に感情を乗せないように努めながら煙草に火をつけた。
「最後に一つお願いがあるの」
お互いがお互いの顔を見ようとせず、リュウは煙草の煙を、マイは自分の飲み物を見つめている。
「なに」
「荷物を取りに来てくれた時で良いから、最後に一晩一緒に過ごそうよ。いつもみたいに私の部屋で。ご飯も用意しとくから」
毒でも盛るつもりなのか。リュウは一瞬本気で疑ったが、それならそれで良いとも思った。
「いいよ。断る理由も無いし。じゃあまた金曜の夜な。予定が変わったら連絡するから」
言いながらリュウは席を立った。
リュウが店を出ていくのを見届けると、マイは紅茶のカップを両手で包みこむように持ち、俯いた。
頬が濡れているのには気付いていたが、今は拭う気にもなれなかった。
しばらく涙腺の欲するままにしていたマイの瞳に、ふいに強い光が宿った。
あらゆる意味で次の金曜日は最後になる。
ふう、と一息つくとハンカチで顔を拭い、携帯電話を取り出す。
呼び出し音を聞きながら、マイの射抜くような視線は窓の外の闇の向こう側を見つめていた。
4.
「出会った日の事、覚えてる?」
別れ話をした週末、二人はマイの部屋でいつものように無言の夕食を摂っていた。
テレビすらも点いていない中で、マイがリュウに質問した。
「覚えてるよ」
ちらりとマイに目線を移してそう答えた後、リュウは再び夕食の皿に目を落とす。本心だった。リュウは未だに4年前のあの日の自分の行動について、納得できる説明を自分自身にできていない。
その日は午後から急に激しい雨が降り出し、そのまま夜まで止まなかった。
普段から傘を持ち歩いているリュウは同僚から羨まれながら悠々と会社を出た。
最寄りの駅から自宅まで5分程度だったが、途中のバス停で一人の女性を見つけた。それがマイだった。
小さなそのバス停には雨よけが無く、カバンを傘代わりに頭に乗せたままマイは一人でバスを待っていた。
仕事柄遅くまで仕事をすることが多いリュウはそのバス停で、しかもこんな雨の日に人が待っているのは見たことがなかった。
またすでに21時を回っていたこともあり、次のバスがしばらく来ないであろうことは容易に想像できた。
ここでリュウは自分自身思いもよらぬ行動を取る。マイに傘をさし出したのだ。
「使いなよ。俺は家がすぐそこだから」
リュウはこれまでの人生で女性は利用して生きるものだと思っていた。
男は能力を磨いて稼ぐ。女はそれを吸い上げる代わりに様々なはけ口を男に提供する。恋人とは公認された売春の関係に過ぎない。そう思い続けていた。
その為なんらかの打算無く女性に近づくことは無かったし、近づく時は充分に勝算ありと踏んだ場合だけだった。
ところが自分は今、目の前の見知らぬ女が濡れているのが嫌だというただそれだけの理由で自分が濡れることを顧みずに傘を差し出している。
「ありがとうございます。でも……」
「いいから、使いな」
半ば強引にマイに傘を押し付け、リュウはそのまま立ち去った。
マイは名前を尋ねたがその時リュウは答えなかった。
格好をつけたのではない。自分の行動に動揺し、とにかく一刻も早く家に帰りたかったのだ。
その後リュウは一週間程早く帰れる日が続いたが、やがてまた20時を回るまで会社から出られなくなった頃、件のバス停でまたマイを見つけた。
その日は雨は降っていなかったが、マイは傘を持っていた。
「あれ、君は……」
「あ、やっと会えましたね」
リュウはあの日雨のせいもあってマイの顔をよく見ていなかったが、にっこりと笑ってあの時渡した傘を差し出すマイは、十人中十人が美人であると答えるであろう、整った顔立ちだった。
マイは傘を借りた日から毎日21時過ぎまで、傘を返す為に同じバス亭で待ち続けていた。
偶然にもリュウがしばらくの間早く仕事を上がれていた為、出会えない日が続いていたのだ。
男が放っておかないであろう容姿を持ちながら、こういう誠実さを保ったままの女がいたことに、リュウは素直に感動した。
しばらくして二人は付き合い始めたのだった。
あの日なぜ傘を渡す時に打算しなかったのか、今でも分からない。
しかし4年経って二人の関係ももう終わろうとしている。
考えても仕方がないことだと、リュウはそれ以上の追求を止めた。
「あの時は心細かったから本当に嬉しかったんだ。あなたは名前も言わずにそのまま……」
「もういいから」
リュウがマイの言葉を遮る。全てはもう終わったことなのだ。少なくともリュウはそう感じていた。
夕食が済むと二人は別々にシャワーを浴び、別々のタイミングで同じ布団に入った。
ここまで会話らしい会話はほとんど無い。別れ話を済ませた二人の会話に未来の話題が上るはずはなく、過去のことを話しだすとリュウが遮る。
リュウ自身それに気がついていたが、終わったことをあれこれ言うのは不毛で時間の無駄だと考えていた。
二人ですごす最後の一日になるはずの今日が無為に過ぎていくのを妙に冷めた目で見つめながら、眠れない時間を過ごし続けているうちに、微かに甘い香りがリュウの鼻をくすぐった。
「なあ、何か匂いがしないか」
目を瞑ったままマイに語りかける。
「このあいだポプリを買ったんだよ。少し前に流行ったリモニウムのポプリ。その匂いだよ」
そうなのか、と一応納得はしたが、それならば部屋に入ってきた時点で匂っていておかしくないのではないか。そもそもリモニウムのポプリはこんな匂いだったか。
考えているうちに気絶に近い速度で意識が形を失っていく。
リュウとマイは深い眠りに落ちていった。
うるさく冷たい音がする。
気がつくとびしょ濡れで、リュウはまたしても見知らぬ街で目が覚めた。
いや、この街には一度来た記憶がある。以前見た夢が同じ街だったはずだ。現実世界ではどうしても思い出せなかった。
前と同じように雨を避ける為に手近な軒下に逃れて暗い空を見上げていると、前と同じように通りの向こうからこつこつと足音がしてくる。帽子もスーツも靴も、全てを白に身を包んだあの男だった。
「お久しぶりです。またお会いしましたね」
これだけの雨にも関わらず、男は全く濡れていなかった。
「またあんたか。確かサブロウって言ってたよな。あんたなんで濡れてないんだ。前はあんたも濡れネズミだったのに」
「覚えて下さっていて光栄です。もう濡れるのは必要ないんですよ。この間はただの様子見でしたから、あなたに余計な刺激を与えたくなくて合わせてただけなんです」
サブロウは建物に寄りかかりながら、顔だけをリュウに向けて話す。
「相変わらずマイ様には厳しくあたっておられますね。恋人としての最低限の気遣いもあげられないのなら、あなたにはマイ様のもとから去るという選択肢もおありなのに、決して自分からはそれをされない」
「はっ」吐き捨てるようにリュウが笑う。
「俺はあいつが一緒に居たいというから居てやっただけだよ。今回の件だって余計な詮索さえしてこなければ今まで通りだったはずなんだ。うざい事さえ言わなけりゃ、別にこのまま付き合ってやってても良かったのに」
前回と同じだ。思うより先に口が動いているかのように感じる。
サブロウは無言のままリュウに顔を向けている。
「今日も最後に一緒に過ごした言っていうから来たんだが、実のある話は一切しようとしない。これだから女ってのはつまらないんだよ。大体あいつは」
「はぁー……」
サブロウがこれ見よがしに大きなため息をつき、ゆっくりと帽子に手をかけ、顔をなぞるようにこれを取った。
「このナメクジ野郎が」
リュウを見るサブロウの目にはただ侮蔑の色だけが静かに燃えている。
自分はこの男に、おそらく言葉にされたナメクジよりさらに下に見られている。リュウはそう感じた。
今までの紳士的な態度からの豹変ぶりにリュウは言葉を発する事ができない。
「もういい。飽きた。黙って聞いてりゃあ調子に乗っておんなじような事をグダグダと、キモいんだよてめぇは」
「な……」
「一体どうすりゃそんだけ上から目線になれんのかね。小さい上に素材がクソの器しか持ってねぇんだから、もうちょい謙虚にしとれや」
「なんなんだ、あんた一体……」
リュウの声が震えている。想定外の一撃はサブロウへの理解を完全に超えていた。人は理解できないものに恐怖を覚えるものである。
「チンケな頭にゃ難しいかも知れんが、一応話してやる。これでもこっちは仕事なんでな」
いつの間にかサブロウの向こうにハンガーが置かれている。
サブロウはそれに帽子とジャケットをかけると、ネクタイを緩めて煙草に火を付けた。
「俺はインフィルトレイター。日本語に直すなら潜入屋だ。ある種のカウンセラーだと思え。まだそこまで知名度は無いがな」
美味そうに煙をくゆらせながらサブロウが続ける。
「少し前に名前は忘れたがどこぞの金持ちが変わった脳腫瘍にかかった。そいつは自分が死んだ後にそれを根絶させる為に基金を立ち上げた。結果的にその腫瘍は完全に直る病気になったんだが、その研究結果には幾つかの副産物があったんだ。その一つが睡眠時の人生シミュレーションだ。人間の行動は全て寝ている間に決められている事が分かったんだよ」
「どういう意味だ」
上目遣いのリュウの目にははっきりと怯えの色が見て取れる。
それを変わらず軽蔑の眼差しで見つめながらサブロウが続けた。
「人間の脳ってのはそれまで考えられていたより大分優秀だったみたいでな。寝ている間に次の一日に起こる事を全てシミュレートし、それに対応する行動を予め決めてたんだよ。夢はその一部が意識の表層に現れたもんだ。一度決められた行動はまず変わらねぇ。でかいショックや恐怖で気が狂うヤツがいるが、あれはシミュレートされた出来事以外が起こった時の脳のエラーの結果だ。滅多にねぇだろ。発狂するほどのショックなんざ。それだけ莫大なシミュレートを脳は一晩でしてんだよ。で、偉い学者先生方はその行動を操作できりゃ、人生変えられんじゃねぇかと考えたわけだ。行動の決定は性格や環境に相当左右されるからな。外からの力でそれを変えられりゃ、生き方そのものが変わる。その為にできたマシンがDCだ。何の略かは覚えてねぇ。Dream Creatorだったか、Destiny Changerだったか」
「あんたはそのマシンが使えるんだな」
訝しげにリュウが尋ねる。
「ほう、ナメクジの割にお勉強だけはしてきただけある。多少は察しが効くんだな。DCは他人の夢に入りこむ装置だ。そして対象の夢に入り、強制的に色んなもんを変えるのが俺らの仕事だ。仕事ってことは当然依頼者がいる」
サブロウが唐突にリュウから目線を反らした。その目線の先にはマイがいた。
「マイ。どうして」
「俺が引っ張ってきたんだよ。ここはお前の夢の中だが、少しなら俺以外の人間もDCに繋げば引き込める。しかし陰気な街だな、ここは。常に降ってやがる。必ず傘を持ち歩くっつーお前のキモいクセの意味が分かったぜ」
自分の夢の中をけなされた怒りを、リュウはサブロウではなくマイに向けた。
「お前がこのおかしな男に依頼したのか。何を変えたいのか知らないが、得体の知れない人間に変な事を頼みやがって……」
リュウに呼応するように雨の勢いが増した。時折雷鳴も混ざっている。
「もうたくさんだ!ちょっと整った顔だからアクセサリ代わりに付き合ってやったら調子に乗りやがって!学の低いアホは余計な事しかしない!さっさと俺を元に戻せ!俺の夢からも俺の人生からも出ていけ!」
マイは耐え切れずに顔を両手で抑えて泣きだした。ひっくひっくと子供のようにしゃくりあげている。
リュウは激昂しながらも自分自身の感情の高まり方に違和感を感じた。この感覚は以前この夢を見た時にも感じたものだ。
この夢の中の空間は感情が制御できず、思った事がそのまま口に出てしまう。
「演説は終わったか、ナメクジ」
言い捨てながらサブロウが雨の中に歩きだした。その先には重々しく頑丈そうな鉄の扉があった。扉は太く錆びた鎖が幾重にも巻き付けられており、さらに鎖には錠がかかっている。先程サブロウが使ったハンガーのように、いつの間にかそこにあった。
「これはお前の深層記憶へのアクセスだ。さて、何が入っているか」
サブロウが扉に手をかざす。それを見てリュウは胸騒ぎを覚えた。理由は分からないが、この扉の中身は見られたくない。いや、見たくないといった気持ちの方が強い。
「やめろ!」
リュウがサブロウの背中に飛びかかると、サブロウは振り向いて扉に向けていた手をリュウに向けた。瞬間、乾いた音が鳴り響き、リュウの体は数メートル吹き飛んだ後地面に叩きつけられた。
「ここじゃ意思の強い方が全てを支配できる。てめぇのチンケな自意識が訓練積んだプロの俺をどうこうできるわけねぇだろ。夢の中で怪我すると現実の体の方も影響受けんだよ。大人しゅうしとれや」
再びサブロウが扉の方に向き直す。サブロウの手が青白く光り始めた。
「開くはずがない……」
地面に叩きつけられた衝撃で苦しげな表情のままリュウが呟く。
「見た目の頑丈さは見られたくないという気持ちの表れ。錆びついてるってことはお前自身も中身を覚えてねぇな。が、プロ舐めんなっつってんだろうが」
光はさらに強くなり、やがて一瞬の閃光と同時に先程と同じ乾いた破裂音が鳴り響くと、扉に巻きつけられていた鎖は跡かたも無く砕け散っていた。
サブロウが扉を軽く押すと、扉は鈍い音を立てて開き始めた。
「やめろ!やめて下さい!」
リュウがサブロウの背中に手を伸ばし哀願する。
「さあお嬢ちゃん、入んな」
リュウの制止を無視しながらサブロウがマイに呼びかけ、中に入るよう促す。
「ナメクジ、てめぇもだよ」
リュウの体が宙に浮き、扉の方に引っ張られていく。
「嫌だぁ!」
涙を流しながら必死に手足をばたつかせるが、それは僅かな抵抗にもならなかった。
マイとリュウが扉をくぐるのを確認すると、サブロウも静かに扉に吸い込まれていった。
5.
扉に吸い込まれた衝撃でリュウとマイは視界がブラックアウトした。
しばらく経つと暗い空間のところどころにぼんやりと白黒テレビのような映像が幾つも浮かんでいるのが見える。全体はトンネル状の空間になっているようだ。
「イジメか。ありがちだな」
映像から目を離さずにサブロウがリュウに話しかける。
「見たところ小学校の低学年くらいからか。ふん」
映像は一人称視点になっており、いずれも悪意に満ちた目がこちらを向いている。リュウの表情に明らかな怯えが見て取れた。
「さっきも言ったが脳ってのは良くできててな、存在自体にストレスを感じる記憶は意図的に思い出せないように封印するんだよ。あの扉の鎖はそのイメージだ。この辺の映像はまだ封印の浅い方だ。お前にとって一番都合が悪い記憶はこの一番奥にある。いくぞ」
サブロウが歩き始め、マイもそれに続いた。リュウが二人の背中に震える声で懇願した。
「いやだ、行きたくないんだ」
「お前のそのクソったれの捻くれた性格はこの奥にある記憶が作ったもんだ。お前、今の自分が好きだと胸張って言えんのか?女は金だけを見てると言ったが、別にそりゃ相手が悪いんじゃねぇ。お前の性格がクソだからそうにしか見えねぇんだよ。そのまんまで良いのか?」
リュウは黙ってうなだれている。
「別にそこでアホみたいに突っ立っててもいいぜ。俺らが奥で記憶を掘り起しゃ、勝手にお前の中にもなだれ込むからな」
サブロウとマイは再び歩を進め始めた。その後ろに少し遅れ、とぼとぼとおぼつかない足取りでリュウが続く。
しばらく歩くと空間の奥に真っ黒に塗られた扉が現れた。
「周りの映像から見て、大体中坊位の記憶みたいだな」
サブロウが扉に手をかけた。その手をリュウが掴む。
「俺は、変われるのか」
リュウがサブロウに尋ねた。表情には変わらず怯えの色が濃いが、その中にある種の意志のようなものが見え始めた。
サブロウはしばらくリュウの目を見つめ、扉の方を向き直した。
「そりゃお前次第だ。絶対とは言い切れねぇよ。ただな、変えるにしろ強くなるにしろ、最初に必要なのは」
サブロウが手に力を込めると、扉は鈍い音を立てて開き始めた。
「自分を受け入れることだ」
扉が開くと同時に、今までのような映像ではなく、ダイレクトに記憶がマイとサブロウの頭にリンクした。当時のリュウが見たもの、そして感情までもが手に取るように感じられる。
「あんたってマジキモいよね。何で生きてんの?」
制服の少女が話しかけてくる。視界には机越しに数人の少女の下半身のみが映っている。
上を見て目線を合わせる事ができない。
「シカトこいてんじゃねぇよ!」
髪の毛を掴まれ、強制的に顔を上げさせられる。
相手の目から身に覚えのない敵意が実を貫き、体中を這いまわる。
胸の中に確かな『痛み』を感じた。それは心の痛みの形容ではなく、実際の感覚として感じられるものだった。
理不尽な敵意を向けてくる相手と、それになんら抵抗を示す事ができない自分への憎しみ、不満、悔しさ、悲しさ、それらの感情が心臓を激しく打ち、その鼓動がそのまま胸を貫かんばかりの勢いで痛みとして押し寄せてくる。
「やめて、僕は何もしてないのに……」
「うわっ、喋った、キモっ」
少女が投げつけるように掴んだ髪の毛を離す。
「しかも触っちゃったよ~、うぇ~」
髪の毛を掴んだ手を周りの少女になすりつけようとしている。
大きな悲鳴が上がり、少女達は散り散りになっていく。
「どうして僕だけがこんな目に……」
机に顔を伏せる。視線から、あらゆる理不尽から身を守る為に。
「……ウ……リュウ」
遠くから名を呼ぶ声が聞こえる。
「お前はまた何もやり返さずに帰ってきたのか」
顔を上げると父がいた。その目の中に憎悪こそ無いものの、蔑みの色は先程の少女達と同じものを感じた。
「いいか?お前はイジメを受けてるんじゃない。ただ負けているだけだ。恥ずかしいと思わないのか?男がやられるままにやられて泣いて帰ってくるとは情けない。本当に俺の子か?俺は父親としてお前に手は貸さん。お前の為だ。自分でなんとかするんだ。相手を見返してやれ。返事は?」
「はい……」
ふぅ、とため息をついて父親は部屋を出ていった。入れ換わりに母親が入って来る。心配そうにこちらを見つめている。
「お父さんは厳しいけれど、全部リュウの為なんだからね?頑張って。お母さんも応援してるから」
返事を聞かず、母親も出ていった。目を閉じてみる。暗闇は無限大に広がるが、この中には自分に危害を加えようとする人間はいない。奇妙な安らぎを感じていた。このままずっとここに居る訳にはいかないのうだろうか。
遠くから雑踏が戻って来る。苦痛でしかない校舎の雑踏だった。
楽しげな笑い声、上履きのくぐもった音。
「そんなこと言われてもなぁ、証拠も無しに責めることはできないんだよ」
顔を上げると担任の教師がいた。早くこの場を切り上げたい。その気持ちを隠そうともしてない。
「仮に本当だとしてもな、お前も男なら自分でなんとかしてみようと思わないのか?先生、応援してるから」
言葉が出てこない。何を言っても無駄なのが解っていたからだった。
「すまんな、これから会議なんだ。またなんかあったらいつでも言いに来いよ」
返事を聞かずに教師は去っていった。瞬間、肩に鈍い衝撃が走る。
「突っ立ってんじゃねぇよ、邪魔臭ぇ」
同じクラスの男子生徒だった。
「ごめんなさい」
それが聞こえたのかどうかは分からない。男子生徒のグループは談笑しながら廊下の向こうに消えていった。
男子生徒からは直接的な危害は受けていなかったが『いてもいなくてもいいもの』という扱いを受けていた。
女子生徒達がなぜ執拗に嫌がらせを繰り返すのかははっきりとはしなかったが、多くの場合、人が自分よりも力や立場の弱い者に危害を加えるのに明確な理由など必要ではない。
例えどんなものであろうが、楽しければいい。仲間同士共通の何かがあればいい。
彼女らにとってそれはリュウの心を痛めつけることだった。
再び目を閉じる。一瞬の静寂の後、今度は雨の音がし始めた。
気がつくと暗い曇天から大粒の雨がこちらをめがけて降ってきている。
傘を差さなければ……右手と左手を見まわして思い出した。
持ってきていた傘は何者かにへし折られ、教室の片隅に放置されていたのだった。
仕方なく雨の中へとぼとぼと歩きだすと、周囲の傘からくすくすと女子の笑い声が聞こえる。
皆自分を見ている。ずぶ濡れで、一人ぼっちの自分を。
雨粒は頭の先から顎の先にかけて流れ落ちていく間に涙に変わっていたが、周りの者はそれには気付かない。
胸の痛みや体の内外に感じる冷たさが弾けるように熱くなり、やがて氷よりも冷たく硬くなっていくのを感じる。
死ぬまで許さない。この気持ちが今のリュウを形作る全ての始まりだった。
6.
リュウは力無く座りこみ、呆然としている。
「なるほどな。女に受けてたイジメを女にやり返す。ナメクジ野郎のやりそうなこった」
「あんたに何が分かる!」
不意にリュウの怒声が響いた。残響がトンネルの向こうに遠ざかり、やがて消えていく。
「分かるわけねぇだろう。てめぇみたいなクソと一緒にすんじゃねぇよ」
リュウは唇を震わせながらサブロウを睨みつけたが、サブロウと目が合った瞬間に視線を反らした。
サブロウの目には冷たく鋭い蔑みが満ちていた。
「ほらな、そうやってすぐに目を反らす。自分に向けられた敵意に歯向かう強さは持たないまま、人の心を踏みにじる残酷さだけを育てた結果が今のお前なんだよ。お前の気持ちなんぞ俺に分かる訳がない。なぜなら俺とお前は違う人間だからだよ。そしてそこのお嬢ちゃんとさっき記憶の中で見たクソ女も違う人間だ。お前、一体何に復讐しようとしてるんだ?」
リュウは答えることができなかった。あの日から世の中の女全てに復讐してやると決めた。ただそれだけの為に己を磨き続けた。それ自体が間違っているとは思っていない。間違っているのはいわれ無き心の暴力を繰り返してきた彼らだったはずだ。それがいつの間にか自分がその側に回っていた。
「お前は自分が死ぬまで許さないと誓った、一番嫌っていた人種に自ら進んでなり、同じ事をやったんだよ。全然関係ない人間を仇に見立ててな。どんな気持ちだ?この世の何よりも見下げ果てていた人間に望んでなった気持ちはよ。あ?」
言い返す言葉が無かった。座りこんだまま両手で顔を覆い、子供のように声を上げて泣き始めた。
「後悔しろ。ナメクジ野郎が。死んだ方がマシだと思うくらいに後悔しろ。そして変わりたけりゃ勝手に変われ。元に戻すだけなら、そんなに大変な話でもねぇよ」
サブロウはマイの方に向き直った。
「さて、次はあんただ」
サブロウの目線はマイの後ろを指している。マイが振り返ると、そこには木製の扉があった。
古ぼけてはいるが傷んだ様子はなく、リュウの扉と違って鍵の類は一切無い。
「古く見えるのは昔からの記憶の証拠だ。ただし扉で閉じてある以上、いつでもオープンにできるような楽しい思い出じゃない。にも拘らず鍵がかかっていないのは、自分できちんと向き合っている証拠だ。しっかりしたお嬢ちゃんだな。しかしここは、暑い」
気がつくと周りは砂に覆われていた。大きな砂漠のようだ。太陽が真上に眩しく輝き、容赦無く熱い光を浴びせてくる。
「随分乾いてるな。そこのナメクジはずぶ濡れだったのに。全くおかしなカップルだぜ」
サブロウがドアノブにてをかけた。
「開けるぞ」
「はい」
マイは力強く頷いた。
「あなたは本当に可愛い子ね。しかもお利口さん」
満面の笑顔がこちらを見つめている。
「私達の自慢の娘よ」
優しい手が頭を撫でてくる。そのぬくもりを純粋に嬉しいと感じていた。
小学校に上がると同時にタレント養成所に入れられ、大ブレイクとまではいかなかったが、それなりの映画やドラマに出演し、まずまずの知名度は得ていた。
学校では周りにちやほやされることが多く、世界は自分を中心に動いているとさえ思っていた。
生まれつき運動神経も良かった為まさしく非の打ちどころの無い少女時代を過ごすが、ある時周りが自分を褒める際、必ず枕言葉がついていることに気づく。
「マイには本当に憧れちゃうよ。きれいな上に運動までできるなんてさ」
「サナミさん良いなぁ。美人でなんでもできちゃう。私なんて……」
必ず容姿を褒める言葉が入っていた。見た目を良く言われるのは決して不愉快なことではない。
マイにとっての問題は、美しさは持って生まれたものであるという事実だった。努力して手に入れたものではない。それに気付いてからマイは、運動に、勉学に、多大な努力を捧げた。
恋愛はそっちのけであった。その結果、周囲はマイを高嶺の花としてますます持ち上げるようになる。
次第にマイは自分自身が分からなくなっていった。しょっちゅう声をかけてくる同年代の男子達は、もし自分が今の容姿ではなくても同じようにするだろうか。
必死に努力して手に入れた運動神経や学力は、単なる容姿の添え物になっていないか。
それら全てをもし失くしたとしても、周りは私をサナミマイと認識してくれるのだろうか。
疑心暗鬼に陥ったマイは、一年生の終わりに突然高校を辞め、通信制の高校に編入した。
周りは皆驚いた。友人達は代わる代わる説得を試み、母親は怒りの余り気を失い、マイに対して口を聞かなくなった。
唯一の理解者は父だけだった。
「好きなようにやりなさい。ただ、自暴自棄になるようなことだけは避けなさい。自分自身を必要以上に粗末にしたり甘やかす必要なんてないんだ。何をしててもマイはマイなんだからね」
自分と一緒でマイを諌めるはずだと思っていた母は父の言葉を聞くと激昂し、離婚話まで口にするようになった。
マイは通信制の学校に通い出すと同時に家を出た。生活費はバイトで賄い、家賃の一部を父から援助されていた。その父は、マイの一人立ちを見届けるように、マイが通信教育を完了すると同時に急逝した。告別式の為に帰ったマイに対し母は冷たかった。
「小さい頃は非の打ちどころが無い子だったのに。どこで何を間違ったのかしらね」
申し訳ないことをした、と感じた。勝手に高校を辞めたことそのものに対してではなく、それにより父と母の仲に亀裂ができてしまったことに対して、とても悲しい気持ちになった。
告別式の最中、母は最後まで涙を見せなかった。我慢している風ではなかった。悲しさを感じていないのだろう。
父の最期の一年、マイはほとんど実家に帰ることはなかったが、恐らく寂しい一年を送ったのではないだろうか。
その後、マイはそれまで貯めていた僅かな貯金をはたいて上京し、派遣の事務員となった。しかし、東京でもマイを取り巻く状況はあまり変わらなかった。むしろ、ナンパされる回数は飛躍的に増えた。
「結局、どこへ行っても男なんておんなじだ」
マイの心は乾いていった。顔、スタイル、能力、それらを抜きにして人が人を愛する事は無いのだろうか。
そんな鬱々とした毎日を過ごしていたある雨の日、マイは帰りのバス亭でリュウから傘を勧められたのだった。
恋愛そのものは初めてではなかったが、全く見返りを求めない出会いから始まった恋は今まで経験したことがなかった。またそれだけではなく、自分でもうまく表現できない強い興味をリュウに感じていた。容姿や能力などではなく、もっと深い、リュウの心の奥底に感じる何かに対してだった。
「そこの阿呆に比べりゃなんとまぁ、贅沢な悩みだな」
サブロウが毒づく。辺りは元の砂漠に戻っていた。
「だが、あんたが本気で悩んでいたことは分かる。深層意識がこんなからっからになるくらいだからな」
マイとリュウがサブロウを見つめている。リュウはようやく泣きやみ、立ち上がっていた。
「ようやく人の目を見られるようになったか」
にやりと笑い、サブロウが続ける。
「リュウさんよ、あんたはさっき見た中防の時のあの瞬間から、常にびしょ濡れの中に居た。あの雨は他人の悪意の象徴だ。あんたが傘を手放せなかったのはそのせいだ」
リュウは無言で頷いた。サブロウはマイに視線を移した。
「マイさん、あんたの心は彼氏と真逆だ。つねに人の好意にされされながら、本当の自分のことは誰も知ろうとしてくれないという思いを持ち続けていた」
マイも無言で頷く。
「あんたらが出会った時、リュウさんはマイさんに自分を重ねたんだ。ずぶ濡れの自分をな。だから黙っていられなかったんだよ。その時の相手がどんなやつだろうが、きっとリュウさんは同じことをしただろう。そしてそれはマイさん、あんたが一番欲しがってたものだった」
二人は無言でサブロウの言葉に耳を傾け続けた。
「ほんのささいな偶然の一致でお互い一瞬心を開きかけたんだろうが、付き合っていくうちに元に戻っていったんだろうな。良くあるこった。ただ、お互いの心の奥をお互いが知った今はどうだ?人間が二人いれば必ず何か科学反応を起こすもんだ。特にあんたらみたいに完全に反対の問題抱えてた場合はその反応もでかい。それが良いもんか悪いもんかは、あんたら次第だよ」
照れたような、困ったような表情でリュウとマイはお互いを見つめている。
「さて、俺はそろそろ抜けるぞ。今俺はマイさんの家の別の部屋でDCに繋がれているが、あんたらはこの夢の中の出来事を覚えちゃいない。つまりあんたらが起きる前には退散しなきゃ面倒なことになる」
先程リュウの雨の街でみかけたハンガーがいつの間にかサブロウの横にある。
ネクタイを締め直し帽子を被りながらサブロウが続けた。
「土砂降りとかんかん照り、ねぇ。実際の天気じゃ滅多に出会わないもんだが、たまに出会うとこんなことも起こる。見てみろよ」
リュウとマイが振り返る。
「うわぁ……」
二人はしばらく息を飲んでその光景に見とれていた。気がつくとサブロウの姿はどこにも見えなくなっていた。
「マイ、あのさ」
空を見ながらリュウが口を開く。
「今までごめんな。俺が間違ってた。一緒にいてくれて、本当に、本当にありがとう。もし許してくれるなら、これからも二人でいてくれないかな」
マイがリュウに飛び付いた。二人は抱き合ったまま意識が遠のいていくのを感じた。
リュウが目を覚ました時、マイはまだ眠っていた。
前と同じように涙の跡が見えるが、穏やかな寝顔だった。
部屋全体に甘い香りが漂っている。ここ数年感じたことのない妙な気持ち良さは、この香りのおかげなのだろうか。リュウはマイの髪を撫で、額にキスをした。目を覚ます様子はない。
リュウは久々に朝食を用意することにした。
スウェットのままキッチンに立つと、玄関の鍵が開いているままになっていることに気付いた。
「まったく、不用心なんだからな。仕方ないやつ」
一人苦笑いしながら鍵に手をかけたが、ふと何かを思い出したようなに立ち止まり、そのまま鍵をかけるのを止めた。
理由はリュウ自身にもよく分からなかったが、とても清々しい気分だった。
エピローグ.
はっきりとしない天気の日だった。
雲のところどころに切れ目が見えているのに、朝から弱い雨が止みそうで止まない、そんな状態が続いていた。
「二人とも本当におめでとう」
新郎新婦の控室に、リュウとマイ共通の友人が何人か押し入ってきた。式まではまだ少し時間がある。
「変われば変わるもんだよな。お前、何があったの?」
「いや、別に何か特別なことがあったってわけじゃないんだけどな」
「あのクズ男がよくもまぁ、更生したもんだよなぁ」
「それを言うなって」
リュウは明かな動揺を見せながらマイの様子をちらりと確認した。マイはさも可笑しそうにリュウ達のやりとりを聞いている。
「いやでも、終わりよければ全て良しってな。あ、今日は始まりか」
「そうよ、終わりだなんて縁起でもない。でも私も最初はマイがリュウと付き合うのは反対だったなぁ」
盛り上がりが暴走し始めた友人達をリュウが諌める。
「あの皆さん、今日はめでたい日なんですから、そんな昔の話はもう良いでしょう」
「あ、無かったことにしようっての?ふーん。マイはその辺どうなのよ」
「さぁ、どうしましょうかね?」
おどけたようにリュウに問い掛けるマイの顔には、こぼれるような幸せが花を添えていた。
雨はまだ降り続いている。
屋外の式場だった為、参列者席には色とりどりの傘が咲いていた。
やがてヴァージンロードに花嫁と母親が一つの傘で登場した。
ダメ元で招待状を出すと、意外にもマイの母は出席の返事をしてきた。マイが実家を出てからの数年間が、二人の間にあるわだかまりを溶かしていたのだった。
時折マイを見つめるその目には、穏やかな色が溢れていた。
ヴァージンロードの先にはすでにリュウが待っている。二人がリュウの元まで辿り着くと、マイの母は傘を持ったまま参列者の席の先頭に移動し、マイはリュウの傘に入った。
誓いの儀式を済ませてヴァージンロードの入口に戻る二人に合わせるように、雲の切れ間が大きくなっていく。そして入口に着くと同時に、マイはブーケを大きく放り投げた。
参列者から歓声が上がったが、それはマイのブーケだけに向けられたものではなかった。ブーケが描く放物線をなぞるように、空に大きな虹がかかっていたのだ。
見事ブーケをキャッチした友人と、チャンスを逃した友人とのやり取りを背中で聞きながら、リュウはマイの肩を抱き寄せた。
「なんかさ、これと同じ景色を前にもどこかで、二人で見たような気がするんだよ。デジャヴかな」
「そうだったっけ。あ、カサイさん!」
マイの声の先に、全身真っ白なスーツに身を固めた男が立っていた。リュウはまたしても既視感を覚える。
「お久しぶりです、サナミ様。いえ、もうオガタ様でしたね。失礼致しました。本日はお招きにあずかり、大変光栄です」
深々と下げた頭を上げ、男はリュウに手を差し出した。
「初めまして、オガタ様」
「初めまして。でも、どこかでお会いしませんでしたっけ」
「いえ、申し訳ありません、私は初対面かと存じますが」
礼儀正しくにこやかなこの男を、リュウははっきりと苦手だと感じた。やはり初対面ではないという確信がどこかにあるのだが、思い出せない。この男を前にすると、なぜか上司にミスを責められた時のような心持ちになる。
「この人はね、私がリュウに苛められていた時にお世話になったカウンセラーさんなの。カサイサブロウさん」
言いながらマイはリュウを肘でつついた。慌ててリュウはサブロウに向き直す。
「それは、ご迷惑をおかけしました」
「いえ、おかげ様で眼福にあずかることができました。このような美しい花嫁様には滅多にお目にかかれるものではありません」
マイが顔を赤らめた。
「どうやら完全に上がったようですね。雨の後は晴れ、そしてこの見事な虹。ご存知でしょうか。旧約聖書によれば、虹はかの大洪水の後、神がノアにもう二度と地上を滅ぼさない証として作られたものなのだそうですよ」
「そんな謂われがあるんですか」
「ええ。もうあなた方の間に亀裂が入ることはないと、そう暗示しているかのようです。ここにおられる皆さん以外に、天候までもがお二人の門出をお祝いしているのでしょう」
「ならこれはもう必要ありませんね」
言いながらリュウは傘を空高く放り投げた。リュウもマイも抜けるような晴れやかな顔だった。
もうリュウが傘を持ち歩くことはないだろう。
「では、私はこの辺りで。これからまたお会いしなければならない方がおられますので」
改めて礼を言う二人に背を向け、サブロウは歩き始めた。
「やれやれ、世話の焼けるお二人さんだったが、どうやら雨降って地固まったみたいだな」
小さく呟いてにやりと笑うと、帽子を被り直す。
「虹の作り方講座、これにて完遂、と」
恋愛をテーマにした物語は悲恋の方がなんとなーく美しいように感じて好みなのですが、それじゃあ誰も読まぬ!皆が読みたいのはハッピーな終わりなのだ!と強く強く言われてしまったので、書いてみました。
もしよろしければ、ここはダメだと思った部分をご指摘頂けるととても嬉しいです。