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「いやあ、先ほどは手荒な真似をしてしまいすまなかったと思ってる。悪かったね、智樹君」
僕は高橋智樹じゃないです、ということを諦めることにする。
こうやって未だに智樹くんと呼んでくるあたり、どうやら俺が高橋智樹だと確信できる材料は揃っているようなので。散々意地を張っといてなんだが、やはり無駄な抵抗だった気がするのは俺だけだろうか。
「いや、あの、ほんと、気にしないでください」
力ない声はぽろぽろと下に落ちていくだけだ。隣に座った男に聞こえているのかは定かではないが、自分に気にする義理などないのだ。
「そうかい? それなら良いんだが」
聞こえているらしいので言いなおす必要も気にする必要もないことがわかった。今のところ別のことが気になって頭が一杯なので、元から気にすることなどできなかったであろうが。
こうやって丁寧に話され、丁寧な扱いを受けていると忘れそうになるが、この男は先ほど泣く子が黙るどころか、失禁してしまうような声で俺を脅したのである。忘れたように丁寧な口調で喋っているが。いや、別にこんなことはそれほど気にならない。この男が話しやすいように話せばいいのだ。自分には一切関係のないことなのだから。
「智樹くんは今年高校一年生になったばかりなんだよね」
そうです、とまた弱弱しく返す。
そろそろ会話をすることを望んでいないのだと悟って欲しい。
今智樹が一番気になっていることは、この車の向かう先である。運転手をしているお兄さん――おじさんというと殴られる気がする――は、俺と男が乗ってすぐ車を走らせた。男は行き先を喋っていない。もとから信じてなどいなかったが、やはりお茶を飲むだけではすまないようである。
妙に座り心地のいい座席も、ごつごつとした指輪を沢山指につけ運転する男も、助手席に座ってサングラスをかけたまま喋らない男も、隣でたまに沈黙を作らないためか話しかけてくる男も、皆が気になる。自分の頭の要領は一杯だというのに、まだそれでも新たな不安が頭を埋める。
そうやって俯いて不安に駆られている智樹をどう思ったのか、隣に座る男が明るいめの声を出して望んでいないことを告げた。
「そうだね、緊張してるみたいだから、自己紹介でもしようか」
「じ、こしょうかい」
「そうそう、自己紹介」
必要ない。というかお断りしたい。これ以上こんな車に乗る、高そうなものを身に付けている危なそうな人たちと関わりたくない。ここで自己紹介をするなどと告げてきたということは殺されるわけではなさそうだが、開放されてもまた関わってくるかもしれないという恐怖には勝てそうもない。
「先ほどは見苦しい姿を見せてすまなかったね、私は松本修也というものだ。本来はもう少し優しい大人だから安心してくれて構わない」
「は、はあ」
無理無理、安心するとか絶対無理。どの口がそんな言葉を、と思っても発しはしない。怖いから。
「ついでに紹介しておくと、運転しているのが荘子、見えるかはわからないんだけど、助手席にいるのが一成だよ。無愛想だが、話しかければ返してくれるから好きに話しかけると良い」
「……はい」
絶対ない。自分から話しかけるとか絶対無い。
というか自己紹介とかいいながら名前しか名乗ってないし。本名かもわからないし、素性は全くしれないまま。こんなので自己紹介って言うのか。
智樹は胸中だけで呆れ、表情には出さないようにつとめながらおずおずと顔を上げる。
これくらいなら答えてくれるかもしれない、と思い松本に質問してみようと思ったのだ。
「あ、あの……、松本さん」
「なんだい?」
急に話しかけた俺に驚いた様子だが、笑顔で応答する松本はやはり大人の男で、格好いい。この状況でなければ憧れを抱いていただろうと思うほどだ。
「今、何時くらい、ですかね?」
門限はそれほど遅くも無いし、いつも寄り道もせず帰っているので、もしかすると母さんが心配するかもしれないと思ったのだ。
五体満足で帰ることができるかといえば難しいと答えるしかないが、希望を持つくらいなら許されるだろう。