「最後くらい感謝しろ」と婚約破棄されたので、私を大切にしてくれた騎士様にお礼を言いました
「セシル、君との婚約は破棄する。三年付き合ったが、やはり君は退屈だ」
最後の音が消えるのを待っていたかのように、エドガー様はそうおっしゃった。
拍手をしていた方々の手が止まる。伯母の夜会へ招かれたお客様の前で、私はピアノの椅子から立ち上がったところだった。
婚約者の隣には、華やかな桃色のドレスをまとったマルタ様がいる。彼の腕に添えられた白い手袋を見て、胸の奥が冷たくなった。
今夜、私を迎えにいらっしゃらなかったのは、彼女をお迎えに行くためだったのだ。
「マルタは話していて楽しい。君のように、黙って鍵盤ばかり眺めてはいないからな」
「……今夜は、伯母様に演奏を頼まれましたので」
「そういうところだよ。言い訳を聞きたいわけじゃない」
エドガー様はうんざりしたように首を振る。
ピアノのそばに立っていた伯母が、険しい顔で歩いてきた。その向こうで、母が口元を押さえている。
両家が決めた婚約だったけれど、私はこの方に好かれたかった。
彼が狩りの話をなさるなら、わからない言葉を帰ってから調べた。贈られた服が好きな色でなくても、次に会う日に着ていった。月に一度の音楽会をつまらないと言われれば、一緒に来てくださっただけでありがたいのだと、自分に言い聞かせた。
そうやって過ごした三年間を、彼はたくさんの人の前で「退屈」の一言にした。
泣けば、きっと困った顔をされる。
その顔を見たくなくて涙をこらえることまで、私はすっかり上手になってしまっていた。
「婚約破棄は、承りました。正式なお話は、両家を通してお願いいたします」
自分の声が思ったよりはっきり響いて、少し驚いた。
エドガー様も驚いたらしい。慰めるために用意していたような笑みが、一瞬、消えた。
「ずいぶん簡単に引き下がるんだな。まあ、君のためでもある。このまま愛想のない妻になるより、気楽に好きな曲でも弾いていればいい」
「そういたします」
私は譜面台から楽譜を下ろした。何度も直した跡のある、自分で作った曲だ。端を折らないよう両手で持ち、胸に抱く。
もう、この方の顔色を見ながら弾かなくていい。
「待て。ほかに言うことがあるだろう」
踵を返しかけた私に、彼が声をかけた。
「三年も婚約してやったんだ。君の演奏にも付き合った。最後くらい感謝しろ」
楽譜を抱えた指先に、力が入った。
今夜の曲を弾いている間、彼はマルタ様に何度も顔を寄せていた。以前には、途中でやめてくれと言われたこともある。
それでも、お礼を言わなくてはいけないのだろうか。聞いてくださったかどうかもわからない相手に、聞いてくださってありがとうと。
顔を上げたとき、エドガー様の肩越しに、こちらを見ている男性が目に入った。
レオン・クラウゼ様。
今夜も、曲が終わると真っ先に拍手をしてくださった方だ。普段は穏やかな目を厳しくして、こちらへ近づいていらっしゃる。
そのお顔を見た途端、喉に詰まっていたものが、別の熱に変わった。
「……ええ。お礼を申し上げたい方が、います」
私はエドガー様の横を通り過ぎた。
* * *
レオン様とお話しするようになったのは、二か月前の音楽会だった。
侯爵家の次男で、王都に勤める騎士。半年前から、伯母の音楽会へ妹君に付き添っていらしていたけれど、それまでは挨拶を交わすくらいだった。
その日、私は初めて、人前で自分の曲を弾いた。
朝、窓を開けたときに庭から聞こえる鳥の声を、少し真似して作った曲だ。伯母に弾いてみてと勧められ、嬉しさと緊張を半分ずつ抱えて、ピアノの前に座った。
けれど、途中で指がもつれた。
慌てて弾き直そうとして、次の音までわからなくなる。楽譜には自分で書いた音が並んでいるのに、目が滑って、どこを見ればいいのかもわからなかった。
「もういいだろう。無理をして皆様を待たせることはない」
エドガー様が、笑ってそうおっしゃった。
私を助けてくださったつもりなのだと思う。近くにいた令嬢とのお話を再開しながら、「次は誰が弾くんですか」と伯母に尋ねていた。
せっかく最後まで作ったのに。
家では、ちゃんと弾けたのに。
立ち上がろうとした私へ、レオン様が声をかけてくださった。
「まだ、続きがありますか」
振り向くと、壁際の椅子から身を乗り出すようにして、私を見ていらした。
「はい。でも、間違えてしまって……」
「待っていてもいいでしょうか。私、続きを聞きたいのです」
早く弾け、と言われたのではなかった。
やめてしまうのは惜しいと言うようなお顔だったので、私は小さく頷き、もう一度鍵盤に手を置いた。
最初は震えていた指が、少しずつ動くようになった。
途中から弾き直した曲を、今度は最後の音まで届けられた。
レオン様の拍手が聞こえたとき、恥ずかしいほどほっとした。
そのあとに重なった拍手へ頭を下げながら、泣きそうなのを隠すため、私はいつもより長く俯いていた。
「初めのところが、最後にもう一度出てきますね」
演奏のあと、レオン様はお茶のカップを手に、そう話しかけてくださった。
「あそこが好きです。戻ってきた、と思って嬉しくなりました」
「同じように聞こえましたか? 少しだけ、変えてみたのです」
「では、私にはまだ聞き取れていないところがあります。次に弾かれるときは、そこも聞かせてください」
つい、楽譜を開いてしまった。
どこを変えたか、どうしてそうしたくなったのか。気がつけば私ばかり話していて、慌てて口をつぐんだ。
「申し訳ありません。こんなお話ばかり」
「どうしてです?」
「退屈ではありませんか」
レオン様はカップを置いて、首を傾げた。
「今、教えていただいているところですよ。ここでやめられると、違いがわからないままです」
急に可笑しくなって、私は笑った。
彼も嬉しそうに笑い、続きをどうぞと楽譜へ目を向けてくださった。
それから、音楽会のたびにお話しした。
私が知っている曲のことも、レオン様が街で聞いて題名を知らない歌のことも。鼻歌で教えてくださった旋律があまりにも不確かで、二人で別々の曲を思い浮かべていたこともあった。
翌月、伯母の家でお客様を待っていたときには、並んでピアノに座った。
妹君に「お兄様も弾いてみれば」と勧められたレオン様が、助けを求めるように私を見たのだ。
「私が知っている鍵盤は、白いものと黒いものがある、というところまでですが」
「そこからでしたら、私にもお教えできます」
伯母と妹君が同じ部屋でお茶を飲むそばで、私は簡単な連弾の楽譜を広げた。低い音の側をレオン様にお願いし、最初の数小節をゆっくり合わせる。
剣を握る手は大きくて、ひどく頼もしい。
ところが、隣り合った二つの鍵盤の間では、あまり頼もしくなかった。
「あ」
予定より一つ低い音が、堂々と鳴った。
レオン様が私を見て、私は彼の指を見た。
「今の指を、少し右へ」
「そこに置いたつもりだったのですが。……申し訳ない。また待たせてしまいましたね」
大きな肩が落ちる。
王都を守る騎士様が鍵盤を前に困っているのが可愛らしくて、笑ってはいけないと思うほど、口元が緩んでしまった。
「待ちます。続きを、一緒に弾きたいので」
そう答えると、彼は一度目を見開いたあと、照れたように笑った。
私たちは同じところを三度やり直した。やっと二人で終わりまで辿り着いたとき、伯母たちの拍手より先に、レオン様と目を合わせて笑っていた。
帰りの馬車で思い出したのは、エドガー様がその日来られなかったことではなく、隣で鳴った少しおかしな音だった。
次はもう少し長い曲を弾けるだろうか。騎士のお仕事がお忙しくても、来月もいらっしゃるだろうか。
そんなことを考えた自分に気づいて、頬が熱くなった。
私は婚約者のいる身だった。
だから、その気持ちに名前をつけてはいけないと思った。音楽会で会う日を楽しみにするだけ。帰るとき、もう少し一緒にいたかったと思うだけ。
それ以上を願わなければ、胸の中にしまっておけるはずだった。
* * *
私の前で、レオン様が足を止めた。
「セシル嬢。お加減は……」
「レオン様に、お礼を申し上げたくて」
声が震えた。
この方に何かを伝えたくなると、いつも、伝えたいことが多すぎて困ってしまう。
「あの日、私の曲を最後まで聞いてくださって、ありがとうございました」
レオン様は口を開きかけ、それから静かに閉じた。続きを待ってくださっているとわかって、私は楽譜を抱き直した。
「失敗したとき、もうやめたほうがいいのだと思いました。でも、本当は最後まで弾きたかったのです。あの曲も、その前に作った曲も、何度も直して……私には、とても大切なものだったから」
人前で止まってしまった自分が、情けなかった。
そんな自分より先に、あの方は曲の続きを惜しんでくださった。
「待っていると言っていただけて、嬉しかった。どこがお好きだったか聞けたことも、そのあと、何度もお話しできたことも。私、どれも、ちゃんとお礼を言えていませんでした」
「十分いただいています。次の音楽会で、また弾いてくださったでしょう」
レオン様の表情が、少しだけ和らいだ。
「あのあと、お顔を上げて私を探してくださった。あれが嬉しくて、私はずいぶん得意になりました。今夜だって、いい席で聞こうと早く来たのです」
知らなかった。
いつも見つけやすい場所にいてくださるから、私は曲を弾き終えると、ついレオン様のほうを見てしまっていた。
「音楽に詳しくもない男が、通いすぎかと思ったこともあります。でも、あなたとお話しできるのが楽しみで」
「私もです」
考えるより先に、言葉が出た。
「私も、レオン様にお会いするのが楽しみでした。次の曲を選ぶとき、あなたはお好きかしらと思っていました。連弾をした日は、家に帰ってからも笑ってしまって……また一緒に弾きたいと、ずっと思っていました」
レオン様の耳が、赤くなる。
それを見たら、怖さより、もっと伝えたい気持ちのほうが強くなった。
「お礼だけでは、足りないのです。私、レオン様が好きです」
ざわめいていた周りの音が、遠くなった。
レオン様は一瞬、息を止めたように見えた。それから唇を結び、笑おうとして、うまくいかないようなお顔になった。
「……私が、都合よく聞き違えているのでなければ」
いつも落ち着いている声が、少し掠れていた。
「それは、次の音楽会を楽しみに待っていてもよい、という以上のお話でしょうか」
「はい。音楽会のない日にも、お会いしたいです」
彼が片手で口元を覆った。
指の陰で頬が上がっている。隠しきれないほど嬉しそうなそのお顔を見て、私の胸までいっぱいになった。
「すみません。少し、落ち着かなくては。今、あなたはつらい思いをなさったばかりですから、私だけ喜んでしまっては……」
「喜んでくださったのですか」
「ええ。とても」
即座に返ってきた声に、思わず笑ってしまう。
レオン様も、もう隠そうとせずに笑った。
「私も、あなたが好きです。前から、ずっと。けれど、婚約されている方に申し上げることはできませんでした」
楽譜越しに、胸の鼓動が手へ伝わる。
しまい込んでいた気持ちが、私一人のものではなかった。そのことが嬉しくて、何を言えばいいのか、今度は私のほうがわからなくなった。
「ただ、こんなときに急いでお返事をいただくのは――」
「急に好きになったのではありません」
そこだけは、間違えないでいただきたかった。
私は顔を上げて、彼を見つめた。
「連弾をした日、何度間違えたかまで、帰るときには楽しそうに話してくださったでしょう。私が笑ったら、ご自分も笑ってくださって。あの日から、レオン様のお隣が、もっと好きになりました」
レオン様が、ゆっくり息を吐く。
それから姿勢を正し、私へ向き直った。
「では、あなたのお言葉を信じて、お願いさせてください。今の婚約が正式に解消されたら、ベルナール家へ伺いたい。あなたに、結婚を申し込むために」
「はい。お待ちしています」
涙が一粒、頬に落ちた。
今度は隠したくなかった。こんなに嬉しくて泣いたのだと、この方にはわかっていただきたかった。
「おい、セシル!」
エドガー様の声に、私は振り向いた。
彼はマルタ様から腕を抜き、こちらへ歩いてきていた。さっきまでの余裕のある笑みは、もうない。
「誰に向かって礼を言っている。感謝する相手が違うだろう」
「いいえ。間違えておりません」
近くの卓へ楽譜を置き、私は小さく息を吐いた。
レオン様が半歩そばへ寄り、手を差し出してくださる。私は自分から、その手を取った。
「私を大切にしてくださった方に、お礼を申し上げました」
「では、僕が大切にしなかったとでも? 三年間、君の婚約者として――」
「エドガー様。私の曲で、どれがお好きでしたか」
彼の口が止まった。
広間の端で、誰かが小さく息を呑む。
「曲の名など、いちいち覚えているものか」
「題名ではなくて構いません。どんなところがお好きだったか、一つでいいのです」
答えはなかった。
彼の視線が、卓の楽譜へ動いた。表紙に何か手がかりを探すようなその目を見て、私は、もう一度だけ胸が痛んだ。
「私は、エドガー様と一緒に楽しみたかった。お好きな曲があれば弾きたいと思って、何度もお尋ねしました。けれど、いつも何でもいいとおっしゃいましたね」
「だからって、こんな当てつけをすることはないだろう。人前でみっともない」
手を握る力が、少しだけ強くなった。
レオン様は私の顔を確かめてから、エドガー様を見た。
「彼女の返事を、当てつけで片づけないでいただきたい。私は、大切なお返事をいただいたと思っています」
その声を聞いて、私は背筋を伸ばせた。
「私も、レオン様にそんな失礼なことはいたしません。好きだから、お伝えしました」
「少し頭を冷やせ。マルタとのことは、まだ両親に――」
そこまで言ったとき、後ろに立っていたマルタ様が扇を閉じた。
「わたくしとのことを、どうなさるおつもりですの?」
エドガー様が慌てて振り返る。
マルタ様は彼が伸ばした腕を取らず、一歩下がった。
「わたくしを選んだとおっしゃった直後に、別の方を引き留めるお話をなさらないでください。失礼いたします」
彼女が父親のいるほうへ歩き去ると、エドガー様は追いかけるべきか、私に言い足すべきか迷うように足を動かした。
そこへ伯母が立った。
「レイモンド様。今夜の演奏は、私がセシルに頼んだものです。よく聞かずにいたあなたへ、姪に礼を言わせる理由はありません。婚約のお話は、明日、両家でなさってください」
母も私のそばへ来て、空いているほうの手に触れた。
「あなたの気持ちは、よくわかったわ。お父様にも、私からお話しします」
エドガー様は私を見た。
今なら引き下がるのを許すとでも言いたげな目だったけれど、私はもう、そこにある機嫌を読み取ろうとは思わなかった。
「私は、婚約破棄を撤回していただくつもりはありません」
彼が何か言いかけたとき、伯母が静かに退席を促した。
私はその続きを待たず、レオン様と母のほうへ向き直った。
* * *
母に促されて隣の小さな談話室へ移ると、急に膝から力が抜けた。
レオン様に支えていただき、長椅子へ腰を下ろす。楽譜は伯母が運んできてくださり、私の隣へ置かれた。
開いた扉のそばで、母と伯母が声を落として話している。広間から運ばれてきたお茶の香りを嗅いだら、ようやく息が深く吸えた。
「大丈夫ですか」
向かいに腰を下ろしたレオン様へ頷こうとして、うまくいかなかった。
さっきはあれほどはっきり話せたのに、今になって指が震えている。
「……悲しくないと思ったのです。もう弾くのをやめろと言われなくてすむから、平気だと思ったのに」
レオン様が、卓の上のお茶を私の手元へ寄せてくださった。
「ずっと、嫌われないようにしていました。もっと楽しい話ができたら、私の話も聞いてくださるかもしれないと。だんだん、私の好きなものまで、本当につまらないのかと思えてきて」
言葉にすると、それが悲しかったのだとわかった。
好かれなかったことだけではない。好きで始めたピアノの前に座るときまで、誰かの退屈そうな顔を思い浮かべていたことが、悔しかった。
「私は、セシル嬢とお話しするのが好きです」
レオン様は、私の顔を見て言った。
「曲を教えてくださるとき、最初は遠慮なさるのに、好きなところに来ると急に早口になる。私が質問すると、すぐ楽譜を探してくださる。そういう時間を、もっと一緒に過ごしたいと思っていました」
「でも、私、演奏も失敗します」
「知っています。私があなたを好きになったのは、間違えずに弾けるからではありませんよ」
あまりにも自然に言われて、今度こそ涙が止まらなくなった。
慌てたレオン様がハンカチを差し出してくださる。受け取って目元を押さえていたら、彼が小さく付け足した。
「それに、失敗の数なら私のほうがずっと多い。次にお会いするまでに、あの曲を練習しておこうと思っていたのですが」
「一人で弾けるように、ならないでください」
レオン様が目を丸くした。
私自身も驚いたけれど、もう言葉を引っ込めたくなかった。
「いえ、上達なさるのは嬉しいのです。でも、私、また一緒に弾きたくて。レオン様が間違えても、私は嫌ではありません。二人で弾けたとき、あんなに楽しかったのですから」
彼の肩から、ふっと力が抜けた。
「では、次も隣に座らせてください」
「はい。次のお休みは、いつですか」
尋ねてから、急ぎすぎたかしらと思った。
けれどレオン様は嬉しそうに身を乗り出し、私より早口で予定を教えてくださった。
* * *
翌日、両家の話し合いで、エドガー様との婚約解消が正式に決まった。
レイモンド家からは、本人も反省しているので考え直せないかというお話があった。私は両親へ、もう戻る気持ちはないと伝えた。父は私の言葉を聞いたあと、一度頷いて、そのまま先方へ答えてくれた。
レオン様が我が家へいらしたのは、それからのことだ。
音楽会へいらっしゃるときよりずっと緊張したお顔で、けれど私を見つけると嬉しそうに笑ってくださった。
二週間後、私は新しい婚約者と、家の音楽室にいた。
母が窓辺で刺繍をしているそばで、二人並んでピアノに向かう。レオン様は前より少しだけ上手になっていたけれど、やっぱり、同じところで指が止まった。
「……すみません。今のところから、もう一度」
「はい。私も、そこから」
私は手を止め、彼が鍵盤に指を置き直すのを待った。
目を合わせて、頷いて、二人で続きを弾く。
最後の音が揃った途端、レオン様が大きく息を吐いた。
「弾けましたね」
「ええ。今のところ、とてもよかったです」
「あなたが待っていてくださるので、慌てずにすみました」
あの日、自分がどんなに嬉しかったかを思い出した。
同じ気持ちを、この方にもお渡しできたのならいい。
お茶を頼んでくると言って、母が部屋を出ていった。扉は少し開いたまま、廊下へ離れていく足音が聞こえる。
レオン様が私の手を取り、指先へ口づけた。
「セシル。あなたとこうしていられるのが、嬉しくて仕方ありません」
「私もです。レオン様、大好きです」
彼がまぶしそうに目を細めた。
近づいてきたお顔に、私は少し背を伸ばして応えた。唇が触れ、離れたあとも手を握っていたら、彼がもう一度名前を呼んでくださる。
私たちはどちらからともなく笑った。
譜面台には、まだ次の曲がある。
「もう一曲、一緒に弾いてくださいますか」
「もちろん。何度でも」
私はレオン様の隣で、好きな曲の最初の音を鳴らした。
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