中編 完成された退屈
三十年の月日が、音もなく、しかし確実に佐伯の肉体と精神を削り去っていった。
かつて『若葉荘』の冷たい床で震えていた青年は、いまや建築界の巨匠として、自らの人生の集大成とも言える邸宅の主となっていた。都心の喧騒を寄せ付けない高級住宅街の、さらに一角。そこには、外部からの視線を一切遮断する、威厳に満ちたコンクリートの城壁がそびえ立っている。
敷地面積は三百坪を超え、庭には四季を彩る植栽が、一寸の乱れもなく配置されている。玄関を抜ければ、そこにはイタリアの山奥から切り出された最高級の大理石が、鏡面のように磨き上げられ、天井のシャンデリアを反射していた。床に敷き詰められたチーク材は、歩くたびに微かな木の香りを放ち、最新の空調システムは、外が猛暑であろうと極寒であろうと、室内を春の終わりのような一定の湿度と温度に保ち続けている。
それは、まさに「完成された世界」だった。
還暦を迎えた佐伯は、この城の唯一の王として、何不自由ない余生を謳歌するはずだった。かつて彼が夢見た「光と静寂」は、いまや物理的な質量を持って、彼の周囲を完璧に埋め尽くしていた。
しかし、入居してわずか一ヶ月が経った頃、佐伯を襲ったのは、言いようのない重苦しい空虚だった。
朝、完璧な遮光カーテンが、プログラムされた時間に従って静かに滑るように開く。柔らかな陽光が、埃一つ落ちていない寝室を照らし出す。佐伯は最高級の羽毛布団の中で、重い瞼を開ける。だが、その瞬間、彼の胸を去来するのは、かつての情熱ではなく、「今日、何をすべきか」という問いに対する、絶望的な無回答だった。
彼はリビングへ向かい、冷蔵庫を開ける。指先が触れるステンレスの冷たさは心地よいはずだが、取り出したミネラルウォーターを口に含んでも、何の感動も湧かなかった。
かつて、若葉荘の共有炊事場で、香織と分け合った水道水の生臭い、しかし喉を焼くようなあの鮮烈な冷たさが、どうしても思い出せなかった。この家には、生活を妨げるものが何もない。隙間風も、隣人の騒音も、古びた排水管の悪臭も、すべてが完璧に排除されている。だが、それは同時に、彼が「生きている」ことを証明してくれる外部刺激さえも、すべて濾過してしまったことを意味していた。
佐伯は、広大なリビングの革製ソファに深く沈み込み、壁に掛けられた数億円の絵画をぼんやりと眺める。
ふと気づくと、彼は無意識のうちに、かつての『若葉荘』での日々を、執拗なまでに反芻していた。
あのアパートの、傾いた床の上にビー玉が転がっていく様子。雨漏りの跡が世界地図のように広がっていた天井。冬の朝、震えながら着替えたあの日々の、刺すような感覚。
不思議なことに、あれほど忌み嫌い、死に物狂いで逃げ出したいと願っていた「欠乏」の記憶が、今やこの磨かれた大理石よりも遥かに眩しく、生命力に満ちた「黄金の時代」として、彼の脳裏を支配し始めていたのだ。
(なぜだ……。俺は、あの地獄を克服するために一生を捧げたはずだ。ようやく手に入れたこの静寂が、なぜ、死の予行演習のように感じられるんだ)
ショーペンハウアーの冷徹な一節が、耳元で嘲笑うように響く。
「人間は、欲求が満たされないうちは苦痛に悩み、満たされてしまえば退屈に悩まされる。幸福とは、その両極の間を揺れ動く振り子に過ぎない」
今の佐伯は、振り子の針が「退屈」の極限で静止してしまった状態にあった。
未来の成功を求めていた頃、幸福は常に「未来」という名の地平線の向こう側にあった。しかし、その地平線に辿り着き、すべてを現実のものとしてしまった瞬間、幸福は背後の「過去」へと瞬時に飛び移ってしまったのだ。
かつて、六畳一間のアパートで、薄い布団の中で香織と「いつか広い家に住もう、暖かい場所へ行こう」と語り合っていた、あの「満たされていない瞬間」こそが、人生で唯一、本物の幸福が息づいていた時間ではなかったのか。
佐伯は、地下のセラーから最高級のヴィンテージワインを取り出し、バカラのグラスに注いだ。琥珀色の液体は美しく輝いているが、一口飲むと、その複雑な味わいさえも、記憶の中の「香織が淹れた安いインスタントコーヒー」の熱量には到底及ばなかった。
家が完璧であればあるほど、そこに住む自分の精神的な「空洞」が浮き彫りになる。何もしなくても快適であるということは、自分がこの世界に働きかける理由を失うということだった。
彼は、夜の静寂が怖くなった。この静かすぎる家は、まるで巨大な墓標のようだった。
かつての知人を辿り、香織の消息を探したのは、そんな孤独に耐えかねてのことだった。しかし、興信所から届いた報告書は、残酷な現実を突きつけた。
彼女は二十年前、地方の街で小学校の教師と結婚し、二人の子供に恵まれ、数年前に病でこの世を去っていた。彼女が最期まで暮らしていたのは、どこにでもある、庭に少しの草花が植えられただけの、ありふれた小さな建売住宅だったという。
佐伯は、報告書にあった彼女の自宅の写真を眺めた。
そこには、彼が生涯をかけて軽蔑してきた「平凡」が写っていた。だが、写真の奥に見える生活の痕跡――子供の自転車、窓辺に置かれた小さな置物、色褪せた洗濯バサミ――それらが、彼の城よりも遥かに豊かな「幸福」を体現しているように見えて、激しい嫉妬と後悔が彼を襲った。
彼は、自らが築き上げたこの完璧な環境を、一刻も早く破壊したいという破壊衝動に駆られた。
彼は城壁のような高い窓を開け、夜の冷気を入れた。だが、最新の住宅性能は、その冷気さえもすぐさま快適な温度へと中和してしまう。
彼は叫び声を上げた。自分の作り上げた「理想」という名の檻の中で、彼は一歩も動けなくなっていたのだ。
幸福は常に、ここではないどこかにある。
佐伯は、震える手で邸宅の売却手続きの書類を作成し始めた。
すべてを捨て、かつての『若葉荘』に似た、不自由で、欠乏に満ちた場所へ戻れば、あの日失った「生命の火花」を、もう一度灯せるのではないか。
それは、老建築家が最期に挑んだ、あまりに無謀で、しかし必死な「過去へのダイブ」だった。




