前編 黄金色の地平線
ショーペンハウアー「幸福は常に未来か過去にある」
アーサー・ショーペンハウアーはかつて、幸福の本質を「欠乏から満悦への移行」と定義した。しかし、その言葉の裏には冷徹な毒が含まれている。移行が完了した瞬間に待っているのは、幸福の持続などではなく、退屈という名の無味乾燥な絶望であるということだ。
若き日の佐伯は、その言葉を古本屋の隅で手に取った哲学書の一節として知ってはいたが、それを実感として理解するには、あまりに若く、あまりに飢えていた。
二十代の佐伯が根を下ろしていたのは、東京の片隅、築四十年を超える木造アパート『若葉荘』の一室だった。
そこは、生活の湿り気と困窮が染み付いた、吹き溜まりのような場所だった。六畳一間の室内には、前の住人が残したと思われる畳の焦げ跡が、まるで呪いのように黒々と横たわっている。冬になれば、アルミサッシの隙間から凍てつく風が容赦なく入り込み、寝袋にくるまっていても体温が奪われていく。夏になれば、西日が薄い壁を真っ赤に焼き、室内は換気扇を回しても逃げ場のない熱気が充満した。
共有の炊事場からは、常に誰かが作っている安っぽいカレーの匂いや、古びた排水管から逆流する油混じりの臭いが漂っている。壁は紙のように薄く、隣室の老人が吐く咳や、テレビの音が、自分の脳内に直接響くような錯覚すら覚えた。
「いつか、こんな場所からはおさらばしてやる。絶対に、俺の城を築いてみせる」
佐伯は、冷え切った指先に息を吹きかけ、かじかむ感覚を呪いながら、深夜までデスクにかじりついていた。彼は建築家を目指していた。それも単に建物を設計するのではない。「自分自身の完璧な安住の地」を建てること、それこそが、彼にとって人生という残酷なゲームの唯一の勝利条件だったのだ。
彼の周りには、使い古された設計図の断片や、消しゴムのカスが雪のように積もっていた。彼が描くのは、今の悲惨な現実とは対極にある、光と静寂に満ちた聖域だ。
隣のスペース――キッチンと言えるほど立派なものではないが――では、恋人の香織が、小さなガスコンロの青い炎で湯を沸かしていた。
「佐伯くん、あまり根を詰めないで。温かいココアを淹れたわよ」
香織の声は、凍てつく六畳間に差す、わずかな陽だまりのようだった。彼女は、佐伯が広げる壮大な設計図を後ろから覗き込み、いつも穏やかに微笑んでいた。彼女だけが、この惨めなアパートの中でも、窓辺の鉢植えに水をやり、古びたカーテンを丁寧に洗い、日常という砂漠の中に小さなオアシスを作ろうとしていた。
「素敵な家ね。でも、私はこのアパートもそんなに嫌いじゃないわよ。だって、こうして肩を寄せ合っていないと、冬は凍えてしまうでしょう?」
彼女が差し出したマグカップの熱が、佐伯の手に伝わる。だが、佐伯はその温もりに感謝するどころか、焦燥感を募らせた。
「馬鹿を言うな。ここは通過点だ。こんな場所にずっといるなんて、死んでいるのと変わらない。香織、俺たちが本当の幸せを手に入れるのは、この図面が、コンクリートと鉄と石に置き換わって、現実の形になった時だよ。今はそのための、ただの我慢の時期なんだ」
佐伯は、未来だけを見ていた。
彼にとって「現在」という時間は、未来に待っているはずの光り輝く幸福を手に入れるための、支払うべきコストに過ぎなかった。彼は今、目の前にある香織の笑顔や、共にすする熱いスープの味、二人で未来を語らう夜の静寂さえも、仕事の時間を削る障害のように感じることがあった。
幸福は常に、手の届かない地平線の向こう側にあった。そこへ辿り着けば、すべてが報われる。今の寒さも、空腹も、惨めさも、その瞬間にすべては美しい「苦労話」という名の装飾に変わるはずだ。
彼は、自らの才能を研ぎ澄ますことに全神経を注いだ。大手建築事務所のコンペに、寝る間を惜しんで書き上げた作品を応募し、やがてそれは時代の寵児として注目されるきっかけとなった。バブルの余韻が残る狂乱の時代、佐伯の描く「冷徹で都会的な静寂」を湛えた建築は、成金たちの欲望を形にする装置としてもてはやされた。
彼はなりふり構わず働いた。クライアントの我が儘を、それ以上の計算高さでねじ伏せ、報酬という名の資産を膨らませていった。
だが、その上昇気流の中で、彼は多くのものをこぼし落とした。
ある夜、ついに若葉荘を去る日が来た。佐伯は高級輸入車の助手席に香織を乗せようとしたが、彼女は荷物をまとめた紙袋を抱えたまま、動こうとしなかった。
「佐伯くん、私、あの新しいマンションには行けない」
「何を言ってるんだ。あそこは、今の君の生活の百倍は快適なんだぞ。セキュリティも、設備も、何もかもが最高級だ」
「わかっているわ。でも、あなたの目は、もう私を見ていない。あのアパートにいた時から、あなたはずっと遠くにある、まだ建っていない家ばかり見ていた。そして今、それが手に入ったなら……あなたはもう、私を必要としないでしょう」
香織は去り、佐伯は一人になった。
彼はそれを「成功への代償」として処理した。悲しみを感じる暇さえ惜しんで、彼はさらに働き、さらに高く登り続けた。
彼は信じていた。いつか、最高級の建材で、完璧な設計で、誰にも、何ものにも邪魔されない孤独な城を建てた時、そこには究極の「安らぎ」という名の幸福が、完成されたパズルの最後のピースのように待っているはずだと。
佐伯の時計は、未来という名の黄金色の地平線に向かって、針を狂わせながら進み続けていた。彼が踏みしめている「今」という地面は、常に透明な、通過すべき仮初の足場でしかなかった。




