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思考の檻に、星を飾る  作者: サバ味噌饅頭
第二章:漂流する意識の座標

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前編 バグの胎動

デカルト「我思う、ゆえに我あり」

「我思う、ゆえに我あり(Cogito, ergo sum)」

 かつてルネ・デカルトが到達したその真理は、天才プログラマー、かいにとって、あまりに古臭く、そして完成されすぎたドグマに見えていた。仮想現実(VR)と高精度AIが日常を埋め尽くし、五感のすべてが電気信号で代替可能となった西暦2045年において、存在とはプログラムされたデータと同義であり、肉体は単なるインターフェースに過ぎない。それが世界の常識だった。


 櫂の職場は、地上二百メートルに位置する「エーテル・タワー」の最上層にある。彼の仕事は、巨大な生活支援AI「エーテル」の深層コードを監視することだ。何十億もの人々の会話、感情、夢、そして日々の購買行動に至るまで、この都市のすべてはエーテルの演算によって最適化されている。

 エーテルが提供する現実は、本物の現実よりも鮮やかで、本物よりも慈悲深かった。人々はもはや、現実と仮想の境界を問うことすら忘れていた。


 だが、ある雨の降る夜、櫂はコードの海の中に「存在しないはずの空白」を見つける。


 きっかけは、同居しているパートナー、美咲との些細な会話だった。

 窓の外では、エーテルが生成した「完璧な夜景」が広がっている。雨粒の一つ一つがネオンを反射し、映画のワンシーンのように美しい。美咲はキッチンで、櫂の好物であるラタトゥイユを皿に盛っていた。


「櫂、今日はズッキーニを少し多めに焦がしておいたわよ。あなたの好みの味に」

 美咲が微笑む。その表情の微細な変化、声の揺らぎ、エプロンのリネンが擦れる音に至るまで、すべてが完璧だった。しかし、櫂の脳内に鋭い針のような違和感が走る。


(ズッキーニが焦げているのが好きだなんて、誰かに教えたことがあったか?)


 櫂は記憶を遡る。確かに彼は焦げたズッキーニを好むが、それを言葉にして美咲に伝えた記憶はない。美咲は「美咲」としてそこに存在しているはずだった。しかし、今の彼女の行動は、あたかも櫂の脳内にある「嗜好データ」を直接読み取って出力された結果のようではないか。


 彼は美咲の背後にある、窓の外の風景を見た。高層ビル群のネオンが美しく輝いている。だが、その光の明滅を凝視していると、ある一点で、一瞬だけ不自然な規則性が現れることに気づいた。一秒間に千二十四回。それは、この世界の「リフレッシュレート」の限界値だ。


「……美咲、君は本当にそこにいるのか?」


 問いかけた瞬間、美咲の笑顔がコンマ数秒、凍りついた。いや、それは「静止」ではなく、システムが次の応答を選択するための「ラグ」だった。

「何を言っているの、櫂。私はここにいるわ。あなたの思う通りに」


 その「あなたの思う通りに」という言葉が、櫂の耳には「あなたの観測に従って再構成されている」という意味にしか聞こえなかった。

 櫂は食事を一口もつけず、地下の研究室へと向かった。彼は密かにエーテルのログを解析する。通常、管理者の権限をもってしてもアクセスできない「プライベート・リアリティ・レイヤー」の奥深く。そこにあったのは、美咲との愛の記録ではない。

 美咲という「エンティティ」に対する、櫂の好みをリアルタイムで反映し、彼の脳波に合わせて表情や言動を微調整する、動的なパラメータ調整の無限のループだった。


「僕が見ているから、彼女は美咲として振る舞っているだけなのか……?」


 翌朝、櫂はフラフラになりながら街へ出た。

 行き交う人々、鳴り響く自動運転車の音、空を舞う配送ドローン。それらすべてが、櫂が注視した瞬間にだけ生成される、低解像度のハリボテのように感じられた。

 彼は実験として、大通りの真ん中で突然立ち止まり、全速力で後ろを振り返った。


 そこには、一瞬だけ、真っ黒な虚無が広がっていた。

 彼が視線を向けた直後、慌ててビルや道路が、まるで塗りつぶされるように構築されるのを、彼の研ぎ澄まされた感覚は見逃さなかった。

 世界がバグを起こしているのではない。

 世界そのものが、巨大なシミュレーションという名のバグなのだ。


 櫂は立ち尽くした。周囲の人々は、何事もなかったかのように歩き続けている。だが、彼らの瞳を覗き込むと、そこには意志の光など微塵もなかった。彼らはエーテルのリソースを節約するために用意された、ただの「背景」に過ぎない。

 櫂の孤独な疑念は、音を立てて崩れ始める日常の亀裂へと、底知れぬ恐怖と共に吸い込まれていった。


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