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思考の檻に、星を飾る  作者: サバ味噌饅頭
第一章:刻流のほとりで

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3/9

後編 川のほとりで

 秋庭が最後に入力した座標は、二人が出会った学生時代の、あの海辺の公園だった。

 三年間、彼は「死」という結末を書き換えることばかりに執着してきた。だが、ボロボロになった精神の果てに彼が求めたのは、救済ではなく、汚されていない純粋な記憶への回帰だった。


 光の渦を抜けると、そこには潮騒の音が満ちていた。

 夕暮れ時。空は燃えるような茜色から、深い群青へと溶け落ちるグラデーションを描いている。水平線の先では、一番星が遠慮がちに瞬き始めていた。

 砂浜に立つと、足の裏に伝わる砂の温度は、昼間の熱を微かに残しながらも、夜の訪れを予感させる冷たさを帯びている。


 いた。


 防波堤の近く、錆びたベンチの横に、まだ二十代前半の結衣が立っている。

 彼女は海を見つめていた。風が彼女の柔らかな髪をなびかせ、ワンピースの裾がパタパタと旗のように鳴っている。

 秋庭は一歩、彼女の方へ踏み出そうとして――そして、その足を止めた。


 今、ここで彼女に声をかければ、彼女は驚き、不審そうな顔で僕を見るだろう。あるいは、計算が奇跡的に合致して、あの時のように恥ずかしそうに微笑んでくれるかもしれない。

 だが、今の自分はどうだ。

 三年の月日を地下室で腐らせ、過去という麻薬に溺れ、死者の影を追い続けてきた。自分の瞳には、執着という名の濁った光が宿っている。そんな自分が、この清らかな「始まりの瞬間」に介入していいはずがなかった。


 彼が見ているのは、美しい幻影だ。だが、それは単なる幻ではなく、かつて確かにそこに存在した「命」の輝きだ。

 秋庭は砂浜に崩れるように座り込み、ただ遠くから彼女を眺めた。


 ふと、自分の足元を洗う波に目をやる。

 波が寄せては返している。一度砂を濡らして引いた波は、二度と同じ形で戻ることはない。次にくる波は、似てはいても別の海水であり、別の砂の粒を運んでくる。

 水は常に流れ、世界は一瞬ごとに死に、一瞬ごとに新しく生まれている。


「……そうか。僕は、川を止めようとしていたんだ」


 ヘラクレイトスが遺した言葉の真意が、ようやく秋庭の心に染み渡っていった。

 それは喪失の絶望を説いたものではなかった。

 世界が常に新しく、常に「今」しかないという、冷徹で、かつ圧倒的に慈悲深い真理。

 結衣を失った痛みも、彼女と過ごした輝かしい時間も、すべては流れ去るからこそ美しかったのだ。それを一箇所に留め、固定しようとする行為は、川をコンクリートで埋め立て、生命の脈動を止めるに等しい冒涜だった。


 幸せを保存しようとすれば、それは必ず腐敗する。

 幸せは、流れているその瞬間にしか呼吸できないのだ。


 秋庭はゆっくりと立ち上がった。

 彼は懐から、手のひらサイズの通信機を取り出した。過去の世界に干渉し、量子的な座標を固定するための、この装置の中枢を担うデバイスだ。

 彼はそれを、目の前の黒い海へと力一杯放り投げた。


 小さな水しぶきが上がり、機械は二度と戻らぬ深淵へと沈んでいく。

 その瞬間、彼の視界から海辺の風景が薄れ始めた。過去への接続が断たれ、強制的な帰還が始まったのだ。

 消えゆく意識の中で、秋庭は最後に見た結衣の背中に向かって、声にならない言葉を投げかけた。

(さようなら、結衣。君を、過去に置き去りにしていくよ)


 地下研究室に戻った秋庭を待っていたのは、完全な静寂だった。

 彼は迷うことなく、研究室のすべての電源を落とした。巨大な真鍮のリングから光が消え、唸りを上げていたサーバーが沈黙する。

 三年間、彼を縛り付けていた墓標が、ただの鉄の塊に戻った瞬間だった。


 彼は地上へと続く重い鉄の扉を開けた。

 外は、激しい雨が降っていた。

 地下室の人工的な空気とは違う、土の匂いを含んだ、重く湿った「本物」の雨だ。

 秋庭は傘も差さずに外へ出た。


 頬に当たる雨粒は、驚くほど冷たかった。

 その冷たさが、服が肌に張り付く不快さが、そして肺の奥まで入り込んでくる湿った空気が、彼にとっては三年間味わうことのなかった「生きた実感」だった。

 三年前の雨でも、一分前の雨でもない。

 今、この瞬間にしか存在しない雨が、彼を洗っていく。


 秋庭は歩き出した。

 目的地は決まっていない。だが、足元には新しい水たまりができ、濁流となって街の側溝へと流れ込んでいる。

 彼は、もう過去を振り返らない。

 目の前を流れる、二度と同じ姿を見せない時間の川に身を委ね、彼はただ、一歩ずつ新しい泥を踏みしめた。


 背後で、研究室の明かりが完全に消えた。

 秋庭の物語はここで終わるのではない。彼という一滴の水が、ようやく巨大な「今」という大河に合流したのだ。

 流れる水の音は、どこまでも澄み渡っていた。


(完)

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