中編 万物流転の澱(おり)
秋庭は、それから数え切れないほどの「あの日」を貪った。
地下研究室の空気は、さらに重く、澱んでいる。壁に貼られた無数の付箋や計算式は、もはや物理学の範疇を超え、何らかの呪術的な儀式の痕跡のようにさえ見えた。彼の頬はこけ、目は血走り、肌は不自然なほど青白い。彼はもはや、現実の太陽の光を浴びることを忘れていた。
「第一二四次試行。誤差、〇・〇三パーセント。修正完了」
震える指でエンターキーを叩く。装置が唸りを上げ、空間が裂ける。
秋庭は再び、あの六月のティーサロンに降り立った。
だが、何度繰り返しても、完璧な「あの日」は訪れない。
ある時の結衣は、髪留めの色が記憶にある淡いブルーではなく、不吉なほど鮮やかな群青色だった。彼女がページを捲る指先には、見たこともない小さな傷があった。
またある時は、隣の席で新聞を読む老人の咳払いが、記憶よりも一拍早く、その鋭い音が静謐な午後を台無しにしていた。
さらに別の回では、街路樹の葉の揺れ方が、風の吹き方が、雲の形が、決定的に「僕の知っている過去」を拒絶していた。
「なぜだ……! なぜこれほどまでに違うんだ!」
秋庭はテラス席で叫びそうになるのを堪え、何度も自分の髪を掻き毟った。
彼は気づき始めていた。時間は、単なる線状のデータではない。それは常に形を変え、混ざり合い、一瞬たりとも同じ組成を保たない、巨大な「流体」なのだ。
ヘラクレイトスが喝破した通り、川の水は常に新しく入れ替わっている。彼が「過去」と呼んでしがみついているものは、すでに海へと流れ出し、蒸発して雲になり、別の場所で雨となって降り注いでいる。それを無理やりバケツで掬い上げ、元の形に凍らせようとする行為がいかに愚かであるか。
ある「試行」の最中、結衣が本から顔を上げ、じっと秋庭を見つめたことがあった。
その瞳には、かつての愛しい温もりはなく、ただ深い空虚と、微かな憐れみが宿っていた。
「あなた、ずっと誰かを探しているのね」
彼女は静かに言った。その声は、秋庭の記憶にある結衣の声よりも、わずかに低い。
「私の姿を使って、私じゃない誰かを。ここではないどこかの時間を。……あなたは、目の前にいる私を一度も見ていないわ」
その言葉は、鋭利な刃物となって秋庭の胸を貫いた。
彼は結衣を救おうとしていたのではない。自分が失った「幸福という主観的な感覚」を、死んだ時間に投影し、剥製のように保存しようとしていただけだった。
彼は彼女に手を伸ばそうとしたが、その瞬間、視界が激しく歪んだ。タイムトラベルの限界時間が来たのだ。彼女の姿が、陽炎のように揺らぎ、霧散していく。
「待ってくれ、結衣! 僕はただ、君と……!」
暗転。気づけば彼は、冷たい地下室の床に突っ伏していた。
喉の奥から、乾いた笑いが漏れる。
彼は、彼女が死ぬ直前の交差点にも何度も足を運んだ。
今度こそ、あのトラックの前に割り込んで、彼女を突き飛ばし、運命を書き換えてやる。そう意気込んで突入した。
しかし、彼が「介入」しようとすると、世界は奇妙な拒絶反応を示した。
彼が道路へ飛び出そうとすると、突然の突風が吹き荒れて視界を奪った。あるいは、見知らぬ通行人が足をもつれさせて秋庭にぶつかり、彼を押し止めた。
その数秒の間に、結衣は必ず、彼の手の届かないところで「決定された死」へと流されていく。
キキィッ、という耳を劈くブレーキ音。鈍い衝撃音。
秋庭は、愛する妻が何度も、何度も、異なる角度で、異なる速度で、しかし同じ結末へと向かう光景を見せつけられた。
過去は、書き換え可能なノートなどではなかった。それは一度固まれば二度と動かない岩盤のようでありながら、触れようとすれば水のように指の間をすり抜けていく、残酷な性質を持っていた。
中枢神経が悲鳴を上げている。
幾度ものタイムダイブによる副作用か、秋庭の脳内では「現在」と「過去」の境界が曖昧になり始めていた。
目の前のモニターの数値が、時折、結衣の血の色に見える。換気扇の回る音が、あの事故の瞬間のタイヤの摩擦音に聞こえる。
彼は、自らが作り出した時間の檻の中で、自分が誰なのか、どの時代の住人なのかさえも見失いつつあった。
モニターの隅に、かつて結衣が書き残したメモが貼ってある。
『明日の朝は、少し早起きして散歩に行きましょう。新しいパン屋を見つけたの』
その「明日」は、二度と来なかった。
秋庭はそのメモを剥がし、握りつぶそうとして、できなかった。
「……もう一度だ。今度こそ、本当の『あの日』に……」
彼は這いずるようにして装置のレバーを握った。
だが、彼の深層心理では、もう答えが出ていた。
彼がどれほど精密な機械を作ろうとも、彼自身が「変わってしまった人間」である限り、純粋な過去に触れることはできない。汚れた手で触れた瞬間に、過去は「現在」という毒に侵されてしまうのだ。
秋庭は、最後の力を振り絞り、ある座標を入力した。
それは、事故の日ではない。彼らが最初に出会った、まだ何も失っていなかった頃の、海辺の公園。
それが、彼にとっての最後の「ダイブ」になるはずだった。




